第五話:山神様
・肆・
~躑躅の章~
陽の光が少しずつ陰り、杉の木立が黒く浮き立つようになってきた。そろそろ、魔の刻(こく)が迫ろうとしている。
六合目のロープウェイ乗り場まであと一息なのだが、まだ山を抜けきれないことに、矢琶羽(やはば)の不安は大きくなった。
「なあ、やっぱり」
前を行く勇仁(ゆうじ)が不審そうに声を上げた。
「声が聞こえる。さっきより、はっきり」
「勇仁、駄目だ、その声には耳を傾けるな!」
矢琶羽は叫んだ。
乗降場の雑踏や音楽が、身近に感じられるようになった。参詣の道もいよいよ終わり、尾根を乗り場まで辿る砂利道となったのだ。
だが、視界が開けた瞬間に、勇仁が駆け出す。
「矢琶羽! こっちだ」
後ろに控える自分のことは認識してはいるものの、声は届いていない様子だ。
懸命に後を追う視界が同じように開けて、矢琶羽は、一瞬足が竦んだ。
『ゆ…雪女!?』
それと見分けが付かない姿の、女性(にょしょう)の鬼がいた。額に生えた角は、もはや、先端ばかりではない。捻れた太いそれは頭部の大きさほどに伸び上がっていて、顔(かんばせ)は若かりし頃のものだろう、美しく、儚げだった。
『あの御婦人だ! 面影がある。きっと、あの、チケットの頃の姿なんだ…!』
着物はまるで、夜の冬山の色のようだった。薄青白く光る、雪色。まるで星夜に照らされているかのように、仄かな光を放っている。
彼女が両腕を広げ、袂(たもと)が風に靡くと辺りが一瞬で夜になった。
まるで墨を画用紙に流したようだ。あっという間に付近が漆黒の帳に閉ざされ、行き交う人の姿も、音も、消えた。
彼女の姿だけが、ぼんやりと白い光に包まれている。闇に誘(いざな)われると思った時、嘆きに似た彼女の雄叫びが、吹雪くように聞こえた。
「!」
常闇は瞬く間に、厳冬の山の景色に変わった。きっと、冬の継国だ。
「勇仁!」
矢琶羽はもう一度、懸命に叫んだ。悲痛な声音だった。
彼女に手招きされる彼の後ろ姿は、もう、これまでの姿ではない。
恐らく、彼女がかつて見ていた、彼女が望んだ、『彼』なのだろう。
足元はあの登山靴のままだが、姿は雪山登山の格好だ。重量のあるザックを背負い、ピッケルを片手に、ザイルを肩に担いで、後ろには、『彼女』がいた。まだ、人であった頃の彼女だ。
「勇仁ぃっ!!」
もう一度叫ぶ。必死で追いかけるが、距離は全く縮まらない。まるで氷の上を滑るかのように、彼らは颯爽と先を行く。
ザイルの端は、彼の腰と、彼女の腰とを結びつけていた。雪山を登っているのだ。互いに互いの命を預けた、信頼の証だった。
冬の継国は、クレバスも多く発生する危険な山だった。現世(今)でこそ規制が入り登る者も少ないが、あの頃は、まだ、彼らのように、椿(つばき)の頂(いただき)の、雪の神院(しんいん)を目指す者も多かったのだろう。
「この山を一緒に登ったんだ…! 死の、直前。きっとあの『彼』は、勇仁の祖父…!」
もう一度、彼の名を声高に叫ぶ。
だが、勇仁が振り返る様子はない。完全に、宙を舞う雪の女性に、奥へ奥へと誘われている。
「どうしよう、どうしたらいいんだ…! 空明(くうめい)様!」
絶望に膝をついた時だった。
「矢琶羽! 諦めるな!」
「え…っ!?」
背後から声が聞こえて、矢琶羽は一驚して振り返った。ずらした膝下から雪が舞って、白く煙る向こうに駆けてくる誰かが見える。
声は求めたそれではなかったが、瞳に映った姿に我が目を疑った。
「みち、巌勝(みちかつ)…様!?」
初見だった。
だが、その姿は我が君より、何度も聞かされている。
闇夜を切り裂き花開く、月の君――。
彼は疾風のように横を通り過ぎた。その刹那、目が合う。確かに一つ、頷いてくれた。頼もしい微笑だった。
『あ、れ…!?』
眼前の彼は、短髪に眼鏡、スーツ姿だ。
だが、確かに。今何かが、一瞬だけ、脳裏を過ぎった。黒袴(くろばかま)姿の、長髪の…六つ目の、異形の者。
『今の…なんだ!?』
巌勝が声高に印を組む。退魔の禍詞(いみことば)だと、すぐに分かった。我に返り、彼の姿をしっかりとその目に焼き付ける。自身には、まだ、使いこなせない詞だった。
印章を前に突き出す形で一喝すると、巌勝の全身が一気に燃え上がった。紫闇の覇気だ。足元に満月が現れ、目を見張ったのも束の間、辺りを震わす轟音が鳴り渡った。彼の覇気が一瞬にして辺りを薙ぎ払い、継国の北ルートを元の景色に戻した。
『ぎゃあああああああ!』
「御婦人!」
身を仰け反らせて絶叫した彼女に、矢琶羽は思わず立ち上がり、駆け出した。
「矢琶羽! そっちじゃない、お前が助けるのは勇仁だ! 生きた人間(ひと)を優先しろ!」
「でも…でも!」
「幽世(かくりよ)に関わるなら鬼に惑わされるな!」
「! 巌勝様…!」
矢琶羽は即座に気持ちを切り替えた。辺りを見渡した。
「勇仁…勇仁!」
「や、琶…羽…!」
「勇仁!」
声のする方にさっと見向く。
今にも崖下に転落しそうな彼を見つけた。
『口惜しや…口惜しや!』
勇仁に手を伸ばした矢琶羽に、雪女が襲いかかる。少し離れたところから、
「くっ…、詞では…!」
印でとにかくもう一度、吹き飛ばそうと試みた巌勝に、
「兄上え!!」
「縁壱(よりいち)!?」
別の切実な声と、それに答える声が聞こえた。
巌勝がそちらに見向いた時、声の主が、何かを投げて彼に寄越す。
『日輪刀…!?』
天を渡った一振りの刀に、矢琶羽は、勇仁を引き上げながら目を奪われた。何故、彼が巌勝にそれを投げて寄越したのか、理由を知らなかったからだ。
「恩に着る!」
巌勝が飛翔し、鞘を左手に掴んだ。右手を柄に添え腰に差したように構えて左親指で鍔(つば)を押すと、小さく箍(たが)の外れる音が聞こえた。着地し抜刀する。
踏み込みと同時に、刃は振り翳された。
目を見張った。
放った技は弧を描き、それがそのまま三日月になった。須臾の間のことですぐに消えたが、軌道を辿るように現れた小さな月輪(がちりん)は、斬撃となって雪女に襲いかかる。
「御婦人…!」
勇仁を引き上げた矢琶羽はその場に座り込んだまま、天を見上げて叫んだ。
『龍仁(りゅうじ)、龍仁…! アアアアア…!!』
断末魔の叫びと共に、雪女は消滅した。
「そんな…!」
『救えなかった…!』
「っく…!」
矢琶羽は、肩を震わせ大地に黒い染みを幾つも落とした。
耳に、巌勝の、刀を鞘に収める音が響いた。
合流した行冥(ぎょうめい)に事情を話す巌勝の脇で、縁壱は、勇仁と矢琶羽に向き合った。
「ひとまず、これを。寒かったでしょう、その格好では」
場所は乗降場の、カフェにいた。無論、室内だ。
湯気の立つ紅茶のカップを渡して後、縁壱は、傍らの椅子に腰掛けた。
もう、辺りに人はいない。
夜が降りてくるのに伴って、ゴンドラも、最終便はとうの昔に出てしまっていたのだった。
ただ、警察関係者や縁壱達のために、駅長他複数人のスタッフが、まだ残って、ゴンドラを動かしてくれていた。
勇仁は紅茶の波紋を見つめながら、ぽつりと言った。
「俺、夢枕に立った爺ちゃんのことが知りたくて、今日、山に登ったんです」
語り始めた彼に、矢琶羽が面を上げる。一度利き手で目元を拭って、勇仁を見つめた。
「それ」
と、縁壱に、血濡れたチケットを見せる。
縁壱は手に取り、しばしそれを見つめた。
「山を登るのに、蔵から爺ちゃんの登山靴を取り出したんです。死んだ当時の装備が、まだ、残ってて。その時に、それが…とても大切に仕舞われていたから。余計に気になったんです。この山で死んだのにって」
縁壱は、チケットを勇仁に返した。
勇仁はそれを仕舞いつつ、
「爺ちゃん、あの女性に、殺されたんですか?」
面を上げて、見つめてきた。
その眼差しに縁壱は僅かに気圧されて、言葉を呑む。
いつもなら兄が、こうした問答には対応してきた。それを思うと、
『こんなに、辛かったなんて』
縁壱は、胸が締め付けられる気がした。神楽(かぐら)羽織(ばおり)の胸倉を掴み、言葉を選ぶ。
「お亡くなりになった理由は、まず、ご家族の方にお聞きになるのが…筋かと」
「ええ。それが、この山に登る決心がついたきっかけなんです」
勇仁は引き下がらなかった。
「俺、婆ちゃんと二人で暮らしていたんです。両親は県外で」
強く拳を握り、彼は、歯軋りをした。悔しそうだった。
「俺は婆ちゃんが好きだし、その生活に不満もありませんでした。だから、なんで婆ちゃんを一人残して母さん達は引っ越したのか、分からなかったんです。連絡も取ろうとしないし。母親ですよ!? 俺の母にとっては。色々納得できなくて、俺だけ、婆ちゃんのところに来たんです」
「そうでしたか…」
「婆ちゃんも、過去のことは話したがらない人でした。母さんもそうだし、父さんに至っては無視するし。どんどん…どんどん、怒りが募っていって」
少しずつ頭が垂れ、震える身を押さえる勇仁の側に、話し終えたのだろう。巌勝と行冥、玄弥(げんや)も、寄ってきた。
彼らも静かに、話に耳を傾ける。
縁壱は言った。
「その話しぶりですと、何か理由があるようですよ?」
「それはそうなんですが、俺は知りたいんです。婆ちゃん…この山の話をする時だけは、幸せそうでした。でも、少し哀しそうでもあって。きっと、さっきの女性が絡んでいるんですよね? そうですよね!?」
「…」
身を乗り出してきた彼に、縁壱は何かを確認するように、
「失礼ですが、お名前を伺っても?」
「え? あ、はい、石原…」
「ああ、いえ。お婆さんのお名前です。旧姓ですね」
合点、と言うように、勇仁が座り直した。
「確か爺ちゃんが、婆ちゃんの姓になったって聞いてます。石原の婿になったって。婆ちゃんの名前は、石原さな枝です」
「そうでしたか…」
縁壱は一つ頷いて、
「君は、あの、旧・胡桃市市長、石原権藏(ごんぞう)氏の曾孫ですね」
「あ、はい…」
「勇仁さん」
縁壱は、真剣な眼差しを彼に向けた。自然と伸びた背筋に、相手の居住まいをも正させることになった。
「真実を知ることが、全てではないのですよ」
「…知りたいと、思っても?」
「ええ」
勇仁の問いかけに、縁壱の眼差しが、遠くなった。