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第五話:山神様

・弐・
 ~椿の章~


 境内(けいだい)を一回りした矢琶羽(やはば)は、社務所(しゃむしょ)に向かった。固く閉ざされた扉を前に、インターフォンを押してみる。

「すみません」

 割と大きな声で呼び掛けてみたが、返る声はなかった。

『朝のお勤めは終わってる時間なんだけど』

 不審に思いつつ、少し離れた隣の建物に移動する。授与所(じゅよじょ)だ。御守りや破魔矢(はまや)など、一般にお土産と呼ばれる物が陳列している場所へ行くと、比較的空いている列に並んだ。

 最前列に行き着いて、適当に御守りを手にする。縁結びのそれだったことには全く気付かずに、窓口に差し出した。

「これ下さい」

 言うが、目的は別だ。

「五百円お納め下さい」

 言葉を聞き懐から長財布を出しながら、

「今日、神主さん、いないのかな」

「…あら」

 彼女の手が止まった。驚いた顔で、こちらを向いている。

「何か?」

「いえ、第一声も同じなら、今日に限って人気だなあと思いまして」

「今日に限って? 人気?」

 硬貨を一枚手にとって、渡した。

「ええ、今日は神事(しんじ)なんですよ」

「ん? 奉納の舞なら明日、一日では?」

「あ。ほら」

 と、彼女は話が通じそうだと思ったのか、

「明日から出雲(いずも)が神在月(かみありづき)になりますから」

「あ!」

 矢琶羽は頓狂な声を上げた。即座に、周りから視線が飛んでくる。

 窓口の巫女がくすくすと笑うのを目に収めつつ、

「そうだった…継国の長月(ながつき)の神送(かみおく)りは、三十日って決まってるんだもんね。忘れてた」

「先程もそんな男の子がいらしたので。珍しいこともあるなあと思ったのです。…はい。良いご縁を」

 御守りの入った白い封筒を渡されて、

『良いご縁?』

 矢琶羽は一度そちらに視線を移した。

『そういや姐(あね)さん、よく言ってたな。『偶然だと思えることも、寄り道してみると、大切なものに繋がっていたりするのよ』って。まあ、それは、いいことばかりじゃないみたいだけど』

「ねえ、その男の子って、どんな子だった? どっちに行ったんだろう?」

「ええと…肩を越えるくらいの長い髪を一つに束ねてて」

「目立つね」

「そう。足元だけ登山靴で、背が高かったですよ。多分貴方より、一つ二つ、年上じゃないかしら。躑躅(つつじ)の参詣道に友達と赴かれました」

「そっか! ありがとう!」

 矢琶羽は早速、そちらへと足を向けた。



 割と大きめな岩が点在する、山肌が顕わな頂(いただき)から九合目へ降りる。景色は遠く果てしなく空が広がり、山頂が連なって見えた。継国の九合目以上は岩と砂利の灰色の世界だが、吹き抜ける風は心地いい。特に、冠雪した継国は、しのぶのお気に入りだった。

 急な下り坂を下りきり、躑躅の参道が見えてきた。九合目もそろそろ、終わりだ。

 ここから右手には、道のない山の傾斜の向こうに小屋が見える。しのぶは思わず立ち止まった。

「北ルート…」

 登ったことはない。

 体力には自信があったが、山の知識がないからだ。

 北ルートは、あの山小屋が最終チェックポイントとなる。そこからはもう、神院(しんいん)である舞殿(まいどの)を見上げるに留まり、登ることは叶わない。

 それでも、舞殿から登る日の出、椿(つばき)の絶壁の向こうに沈む太陽を拝むべく、かつては沢山の人が登ったと、彼女も聞いていた。

「とにかく、急がないと。巌勝(みちかつ)さん登って来ちゃう」

 しのぶは躑躅(き)の宮(みや)の木立へ入った。

 ここまで来ると、社務所も目と鼻の先のような気がしてくる。

『そっか、今日はこの辺りまで参詣が可能だったわね』

 途切れぬ人の波に、しのぶは感心した。秋は、萩(はぎ)の公開を楽しみに登ってくる者も多いのだ。

 赤紫の小さな花が、まるで絨毯のように参道の両脇を綾なしていた。萩の花だ。晩春なら山躑躅が見事だが、この季節は、躑躅は枝のみとなる。まるで主役の座を奪ったかのように誇らしげに、萩が躑躅の枝の隙間から顔を出し、咲き乱れていた。

 人々が思い思いにカメラを向けている。

 自然としのぶの顔にも、笑みが浮かんだ。時折、行き交う人から「しのぶちゃん、こんにちは」と声を掛けられる。桜町(さくらまち)の人達だった。

「こんにちは。ゆっくりなさって下さいね」

 手を振り答え、砂利を踏みしめる。

 その歩幅が、緩やかになった。

『…あの人』

 五人ほどの若者のグループだ。一人、異質な者がいて、最初はそちらに気を取られた。

『あの格好で。山を登ってきたの!?』

 白のストライプの入った茶色い着物。足元に至っては、高下駄(たかげた)だ。ただの草履(ぞうり)ならともかく、――いや、それもおかしいのだが――高さが十センチは上乗せされた、下駄。どう見ても、普通ではない。

『何なの。ここ、霊峰(れいほう)よ!?』

 噴き出す感情に、一体どんなグループよ。と彼らを見渡した目が、一人の人物を捉えた。

 中心にいる男性は、姉と同じくらいの年の頃だろうか。

『死相(しそう)が出てるわ…』

 縁壱に言われたことが頭を過ぎる。

 だが、笑顔がとても爽やかな相手は、覇気があり、とても死にそうには見えない。

「石原」

 呼ばれ笑い合う様が印象的だった。

 ふと、彼の視線がこちらを向く。

「…」

 何かが、胸の奥で弾けたような気がした。

 互いの間に、ゆっくりと、水色の帯が流れ渡された様が見えた。その上を、紫揚羽(むらさきあげは)が無数に飛び立っていく。

 それは相手も同じだったのか。眼前の光景に、目を見張っていた。彼の、一つに束ねた癖のある黒髪が、僅かに揺れた。

「勇仁(ゆうじ)~!」

 後ろの女性にせがまれて、彼が我に返った。そちらを向くと、萩の花に囲まれた彼女から、「写真撮ろうよ」と声を掛けられ、頷く様が見えた。

 何となく、しのぶは、足早にその場を去った。

 心臓が早鐘を打ったように響いて、始末に負えなかった。どこか懐かしい感じがしたことも、不思議だった。

『なんだろう、今の…』

 とても優しい気持ちになれた気がした。

 彼と話したら、きっと、一も二もなく耳を傾けてくれる。そんな気すらした。

『変なの』

 しのぶはくすりと笑い、彼らの脇を駆け抜けた。

 彼が一度こちらを向いたのに、しのぶは、気付かなかった。


「あ、先行ってて。矢琶羽と話しながら行くよ」

 昼を回り、そろそろ山を降りようか、と声を掛けてきた仲間達に、勇仁が手を振った。

「じゃ、下のカフェで待ち合わせね!」

「分かった」

「いいのか? 一緒に来たんだろ?」

 遠ざかる友人達を見ながら、矢琶羽が呟いた。

 勇仁はさして拘る様子もなく、

「どうせすぐ追いつくよ」

 笑顔だ。

 だが、黒い影が纏わり付いている彼の腕や頭部を見ては、矢琶羽は、真顔になった。

「びっくりした。お前、よくそんな格好で登ってきたよな」

「洋服ってのがどうも好きになれないんだ。育った環境かな」

「あはは。そう言うことじゃないと思うけど。さっきはありがとう、これ。拾ってくれて」

「いや、こっちこそごめん、時間取らせてしまうな」

「いいんだ。どうせ暇だし」

 矢琶羽はじっと彼を見つめた。

『時々、投遣りな言い方をするな、勇仁』

 達観している訳でもなさそうだし、と思いつつ、彼の言葉を耳にする。

「ここの神主さんて、よく話、聞いてくれるんだ? 巫女さんもさ、丁寧に応対してくれたし」

 境内の大きな山門を潜り、足元の石段を降りながら答える。

「どうだろう? 俺も来たのは初めてだし、用があるのは兄の方だったから。まさか、弟の方が継いでるとは思わなかった」

「俺も、継国さんに縁(ゆかり)のある人と話ができるとは思わなかったよ」

「「渡りに船」」

「だね」

「だな」

 顔を見合わせ、笑った。

「もう一人の継国さんなら、多分麓にいると思うよ」

「そうなの?」

「ああ。桜町で古書堂を経営してる。ただ、そっちも逢いにくいというか、店が開いているのは偶にだから、こちらへ顔を出したのは正解な気もするけど」

 二人は石段を降り、鳥居を潜ると振り返り、手を合わせて辞儀をした。重なる動作に、また、顔を見合わせる。なかなかどうして、馬が合うなあと互いに思った。

 勇仁が言った。

「山を降りたら、三輪町(みわまち)とは反対方向に桜町の外れへ行けば、あとは古書堂。知らない人はいないと思う」

「有名なんだ」

 歩幅を合わせて、残る石段を降り始めた。

「まあ、県警のお偉いさんがわざわざ冬山登って、年始の挨拶と祈願に来るほどだからね、継国神社(つぎくにさん)」

「わお!」

 思わず声を上げると、彼が笑った。

「勇仁の話は、そのチケットだろう? ちょっとびっくりした、拾った時」

「うん…」

 萩の咲き乱れる参道で彼を見かけた時は、どう話しかけたものかと思った。人の流れに身を任せながら、遠巻きに眺めていたところ、彼がスマートフォンをポケットから取り出した時に、その紙が落ちたのだ。

 刹那、確信した。

 これは、縁だ。話しかけないと、後悔する。

『姐さんが言うことは、いつも違えないなあ』

 小さな吐息を漏らしながら、紙を拾った。そうして二度目の驚愕に見舞われ、何気なくひっくり返して見て、三度目は、驚きを通り越して絶句した。

『このチケット…あの御婦人と同じ物だ。それも、これ…』

 どす黒く変色していた。

 表側を見る分には何かの染みかと見紛うだけだが、裏面を見ると原因が明白になった。血の跡だ。

 杉の木立に入ったところで、勇仁が口を開いた。

「ちょっと不思議な話なんだけど」

「うん」

「枕元にさ、爺ちゃんが立って。でも、何言ってるか聞こえないんだよ。理解できないって言うか」

「夢枕(ゆめまくら)か」

「! そう、それ。多分」

 矢琶羽は口元に手を当てて、俯き加減に思考を巡らした。

『もしかして…御婦人の逢いたい人って、このチケットの持ち主じゃ。でもそうなると』

「な、勇仁。その爺ちゃんて…やっぱり」

「うん。死んでる」

 ストレートな言葉が返ってきて、矢琶羽は何とも言えない顔になった。

「なんか後味悪くてさ、目が覚めた時。で、思い立って蔵を調べたんだ。爺ちゃんの荷物が置いてあるから。そしたら、これを見つけて。登山靴借りて、登ってきたんだよ。神主さんに話聞きたくて」

「その靴、お爺さんのか」

「? うん。そうだけど」

 嫌な予感が走った。

 もう一度、チケットを見せてもらえるか頼んでみる。勇仁は快く、取り出してくれた。

 手に取り、隅々まで確認する。

「これ、五十年近く前の物だね?」

 発行日を見る。

「枕元の爺ちゃんも若かったよ」

「若くして死んだのか?」

「そうみたい。実は、逢ったことないんだ、俺も」

「夢枕が初対面?」

「そう。どう反応したものやら困っちゃってさ」

「あはは。よくもまあ信じたな」

「何となく分かるものなのかな? 身内だから」

「そっか…」

『このまま山を降りて、もし、あの御婦人に遭遇したら』

 矢琶羽は生唾を奥へ押しやりながら、努めて平静を装った。

 ありがとう、と一言添えて、チケットを返す。まだ六合目までは相当距離があった。

『引き返して、神事が終わるのを待った方がいいんじゃないのか。ああ、だけど、友達が』

 勇仁の横顔を見つめ、矢琶羽は判断に迷った。

 視線に気付いたからか、こちらを向いた彼が、

「なあ。声。…なんか、声、聞こえない? 助けを呼ぶような」

「…え?」

 心の臓が大きく跳ねた。

 そんな声は、聞こえない。

 彼を包む黒い影がますます大きくなるようで、矢琶羽は思わず立ち止まった。

「あ、ごめん」

 それを、彼は、耳を澄まそうと歩を止めたのだと思ったのだろう。謝ると先を促す。

「行こう。多分空耳だよ」

 その目にはっきりと、肩の上、黒い影が形を成して、口角を上げた顔が見えた。

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