第五話:山神様
・弐・
~躑躅の章~
標高が高くなるにつれ、窓から見下げた桜町(さくらまち)も遠ざかっていく。空気が一層冷えて、窓の隙間から忍び込むようだった。
スピーカーから聞こえていた、『継国山(つぎくにさん)の紹介』が終わる。山頂駅が近い証拠だ。
一気にゴンドラ内の陽気が上がったような気がした。どの顔も笑顔だった。
ゴンドラが支索(しさく)の上を転がる音が一際大きく届いて、山頂駅の屋根を潜る。日差しが陰ったと思ったら、ゴンドラは大きなブレーキ音を響かせて、ゆっくりと速度を落としていった。
到着時、僅かばかり、箱の中身が一定方向に揺れた。皆が笑う。笑声に重なって、
『終着。継国山六合目~。終着。継国山…』
車内アナウンスが流れて、扉が開いた。
一息に、人波が外へと溢れた。駅員が「お疲れ様でした」と笑顔で声を掛けている。
時刻はそろそろ昼になる。
山頂駅は、朝一番に山を登った者達を順次降ろすので、そろそろ混み始めていた。
人の流れに沿って、若者もゴンドラを下りる。波に追いやられるままに、歩幅を揃えて乗降場から建物に移動すると、
『あらまあ』
婦人が頓狂な声を上げた。
人が思い思いに散策を始め、散り散りになっていく。それでも、どこも、人、人、人だ。家族連れも多い。
振り返ると、ぽかんとして辺りを順繰りに見回す彼女を見た。
『すっかり大きくなったのね、山頂駅。昔はお土産屋さんが一つと、小さなレストランがあるだけだったのよ』
瞳が輝いて、『凄いわあ』と呟く。放っておくと、糸の切れた凧のように、ふらふらと、どこへでも行ってしまいそうだ。
若者は少し考えてから、
「レストランで待ち合わせでしたか?」
尋ねてみた。
『そうね…そうなんだけど、なくなっちゃったわね』
婦人は顔付きは困った様子ながら、おかしそうに笑った。
『仕方がないから、お土産屋さんを巡って、あそこの喫茶店? にいようかしら』
彼女はオープンカフェを指さした。それもまた、見たことの無いものであったのだろう。
外に突き出す形で、木造の高台がある。白いデッキとデッキチェアに、色とりどりのパラソルが広げて掲げられていた。揺れのないところを見ると、今日は、風もなく登山日和といったところなのだろう。
若者は小さく頷いて、人の波から外れるように、一旦、婦人を脇に招いた。土産物屋が並ぶテナントとテナントの間に佇み、しゃがむ。
何事かと見下ろしてきた彼女に、見上げて視線を合わせ、
「俺、この先の神社に用があって。このまま行きますが…一人で大丈夫ですか?」
麓での一瞬の出来事も気になっていた。ちょっと危なっかしいのは、間違いがない。純粋な感じはするのだが、それだけに、鬼となってはやるせない。
婦人はころころと笑って、
『大丈夫よ。帰りは貴方が話しておいてくれるんでしょう?』
「ええ、それは確かに」
『なら、悪さはしないで、』
「!」
『ちゃんと大人しく待ちますよ、約束の君を』
ほっとした。
自身に置かれた状況を理解したのかも知れないと、胸を撫で下ろした。余計な説明をしなくてすんだことも、安堵の一端だった。
それは表情にも出たのだろう、婦人が確かに、一度、頷いてくれた。
『やっぱり、優しい人なんだ。どうか、…どうか』
悪鬼にはなりませんように。
願いつつ立ち上がる。
彼女が言った。
『ゴンドラに乗っている時にね、思い出したの』
きっかけがゴンドラとは、なかなか無いものだ。胸奥に刻まれたモノ達こそ、その人の執着物となり得る。それは決して人ばかりではない。
『明日が葬式なのですよ、私。確か』
おまけがついた最後に、彼は苦笑った。
『幽体(ゆうたい)としての覚醒はまだ完全ではない、のかな。仕方ない、死んだばかりじゃね』
困惑・混乱して取り乱し、悪さをする幽体だっている。そうならなかっただけ、マシだ。あの、角の欠片を見る限り。
『きっと大丈夫、彼女は。成仏してくれる』
だが、返した言葉は悪戯っぽく笑って、
「大丈夫ですかね?」
惚(とぼ)けて見せた。
『ふふ! まあ、焼かれたって初七日まではこのままこっちにいられますけどね。その後もいるかどうかは』
「いや、できれば成仏して下さい。せめて、手続きだけはしといて下さい。閻魔(えんま)様もそこまで厳しい人ではないですよ」
『そうなの?』
「…多分」
いけねっ。と、内心で舌先を出した。とは言え、彼女には、罪があるならちゃんと償って、天へ昇って欲しいと思った。
果たして彼の中では、どうも、そちらの方が大きい様子で、
「手続き知らないでこっちに残る人、多いそうなんですよ。その方が怒らせてしまいますから。ね?」
『貴方…名前は?』
「矢琶羽(やはば)と申します」
『矢琶羽くんは、あっち関係の人なの?』
『まあ、そう来るよな』
思いつつ、
「いえ、そう言うんじゃないです。ただ、俺を育ててくれた女性がそういうのに詳しくて。強い神気(しんき)に当てられて、いつの間にか、何となく見えるようになっちゃって」
『そうだったの…』
「見える以上はほら、勉強しておかないと。対処できないでしょう?」
『いい子ねえ』
矢琶羽は苦笑った。
「ここ、継国山は、天国にも地獄にも一番近い山といわれています。貴女には釈迦(しゃか)に説法かも知れませんが」
『ううん。実はね、この山にはよく登っていたけれど、それはこれから逢う人の影響なの。どんな山なのかは、本当はよく知らないのよ。調べるのも…辛くて…』
ぴこ。と、また、角先が現れる。
矢琶羽はそっと手を伸ばし、婦人の額に触れた。
驚いた彼女の眼差しに、彼は物静かに微笑んだ。
「祈って下さい、御婦人」
『…祈り?』
「ええ。辛い思い出ばかりではないはずです。きっと、嬉しかったこと、楽しかったこと、それら全てがこの山に詰まっているはずですよ」
『矢琶羽くん…』
「こちらの世界には、区分された地域それぞれに『死渡(しと)』がいるとの話ですが…できれば。彼らの手を煩わせず、無事、幽世(かくりよ)に渡って下さいね」
思いは十分彼女に伝わったようで、
『ありがとう、心配してくれて』
婦人が頷いた。とても柔和な面だった。
『親切にして頂いて、本当にありがとう。貴方の優しさは忘れないわ。元気でね』
「御婦人も。どうか、元気で」
『ふふ! 死んでますけどねえ』
二人は小さく笑みを零した。
『大丈夫。きっと彼女なら、大丈夫だ』
矢琶羽は踵を返した。身を捩り手を振って、婦人が笑顔で見送ってくれたのを一礼で返す。
『継国の神様。どうか…彼女を導いて下さい』
建物を出ると、矢琶羽は、少し歩いて南ルートの参詣道に分け入った。あっという間に杉の木立に囲まれ、四方に木霊する鳥たちの囀りに耳を澄ます。
人が途切れたところで四方を見遣ると、近くには誰もいないことを確認した。
呼吸を紡ぎ、大きく跳ねる。参詣道を外れ、山へと分け入った。直線距離で、八合目を目指す。
『相手も彼女のことを忘れずに、交わした約束を思い出してくれていると良いけど』
待ち合わせ。
それが引っかかった。
相手が死んでいるとは、限らないのだ。もしかしたらまだ生きていて、ここに来なければならないかも知れないのだ。
『遙か昔。未来への約束をしたのか、それとも…』
願わくば、前者でありますように。
彼女の角があれ以上、伸びることがありませんように。
矢琶羽はもう一度、継国の神々へ祈りを込めた。
継国神社は、最後の石段を登り始めると、見上げるほどに大きな鳥居がある。登り切ると、豪奢な山門、その先には広い境内(けいだい)が広がり、砂利が敷き詰められていた。
参拝のルートに従って石畳が続くが、いつも多くの人でごった返すここは、その石畳を踏みしめて歩く者は少ない。
若者も例に漏れず、人を避けて歩いては砂利を踏みしめた。
足取りは軽快だ。顔立ちがはっきりしているためか、笑顔もとても清々しい。
神社(ここ)へ来る者は大抵しっかりとした山登りの身なりが多い中にあって、足元だけが登山靴という、少し目を引く姿をしていた。長い黒髪は癖があって毛先がつんと跳ねており、一つに束ねられている。
麓はまだ暑い日もあったりするが、ここでの半袖は、なかなか目立った。
一緒に登った仲間達が参拝したり、自撮りをしたり。思い思いに談笑する様を横目に、彼は、土産物が並ぶ授与所(じゅよじょ)に寄った。比較的空いている窓口を選んで、
「これ。頂けますか」
「はい。五百円お納め下さい」
御守りを渡して、財布を尻ポケットから取り出した。ファスナーを下げつつ、
「あの。神主さんに会って話を聞くって、可能ですか」
問いかけた。
彼女は御守りを継国の家紋が入った白い封筒に入れながら、
「普段なら大丈夫だとは思いますけど、今日は朝から神送(かみおく)りの神事(しんじ)で慌ただしくしておりますので」
「神送り?」
「ええ。明日から神無月(かんなづき)でしょう。…そうですね、簡単に言うと、全国の神々が出雲(いずも)に出張に行くのです。なので、出雲以外は神無月というのですけど、」
「へえ…面白いね」
若者は思わず笑った。
「…馬鹿にしてません?」
窓口の巫女は少し顎を引いて、上目遣いに怪訝な顔をした。
「いや、してません。ここへは初めて来たので、新鮮で」
本当のことだった。
彼女は少し間を置いて後、また笑顔になる。
「ま、それで、神主や側仕えの巫女達が奉納の舞で、継国の神々を見送り、結界を張り直している訳ですね」
「そっか…それって、一日かかるのかな」
「はい。魔の刻(夕刻)まで掛かります。今日は諦めた方がよろしいかと思いますよ」
肩を落とした。
調べてこなかった自分が悪いと言えばそうなのだが、縁がないなあとも思う。
「あ、でも」
落ち込んだ姿に彼女が慌てて、声を掛けてきた。
「普段は公開されていない神院(しんいん)までの道が、九合目までは一般にも開いています。季節ではないので躑躅(つつじ)は咲いてはおりませんが、萩(はぎ)や女郎花(おみなえし)が綺麗だと思いますよ。うちの神主が相当手を入れていますから」
「そっか、ありがとう。観て帰るよ」
言いながら、一枚の硬貨を渡す。
彼女はにこりと微笑んで、
「ありがとうございます」
御守りの入った封筒を渡してくれた。
背後から、
「石原! 何? 御守り~?」
仲間から冷やかしに近い色で話しかけられる。
彼は封筒の口をしっかり折って、ジーンズの後ろポケットに収めた。振り返った笑顔は屈託なく、手を振り返す。駆け出した。
縁壱(よりいち)は、日輪刀を鞘に収めた。
天高く昇った太陽に一礼し、舞殿を降りる。すぐにカナエが駆けよって来、手拭いを渡してくれた。
「お疲れ様、縁壱さん」
「あっ、ええ。ありがとうございます」
山の神との会話を思い出し、縁壱の声が上擦る。咄嗟に手拭いで顔を覆うと、
『本当に、カナエさんが欲しいと言われたらどうしましょうかね』
あり得ないことじゃない、と感情の振り幅は呆れを通り越す。
「縁壱さん」
ふと、もう一人の麗しい声が響いて、縁壱は手拭いから顔を上げた。
「午後の部が始まる前に社務所(しゃむしょ)に戻るけど…巌勝(みちかつ)さん。着いたらこちらに案内すればいいの?」
「ああ、そうでした」
しのぶと話し始めると、カナエは、他の巫女達と一緒に、神楽団(かぐらだん)の面々にペットボトルの茶を渡して回り始めた。昼休憩の案内も買って出てくれ、顔が綻ぶ。
縁壱はしのぶに向き直ると、
「今日は多分古書堂には寄らないと思うので、」
「出先?」
「ええ。新胡桃市(しんくるみし)でも大きな式典がありましてね」
「そうだったの」
「そちらから直接こちらへ来ると思うので、『依頼主』には遭わないと思うんです」
「え?」
しのぶの顔色が変わった。
縁壱も真顔になって、
「山の神が少々お怒りだったのですよ。あらぬ映像(モノ)を見せられました。多分…何かが起きるのだと思います。神は今夜出雲へ発ってしまいますし、山が心配だったのでしょう」
「あの、どうしたら」
「兄上に、『継国山北ルート事件』と伝えて下さい。多分それで、分かります」
「『継国山北ルート事件』…この山よね? 縁壱さん」
大丈夫? と問いかけるような彼女の表情に、縁壱は仄かな笑みを浮かべて、首を縦に振った。
「宜しくお願いしますね」
「はい」
しのぶは真剣な面持ちで頷くと、神院を後にした。