第五話:山神様
・壱・
~躑躅の章~
青年は、最期に笑みを零した。
「ごめんな、祐子(ゆうこ)」
その一言に、彼女が目を丸くした。意味を探るように、眼差しが揺らいだ気がした。
やがて、大粒の涙が降って来た。額に、頬に、唇に。
カラビナが軋む。雪を吹き上げて舞う風音に負けない大きさで、弾ける音が響いた。
「龍仁(りゅうじ)さん!」
自身の重さが、繋いだ彼女の腕に一気にのし掛かったのだろう。悲鳴のように名を呼ばれ、青年は、掴んでいた手を開いた。
五指が開いてぶら下がるだけになった自身に、彼女がもう一度、
「龍仁さん! 龍仁さん…!」
「愛してる。祐子」
溢れる想いを託した。
「赦さなくていい、金に目が眩んだんだ。でも、気持ちは確かだった。だから、山に、委ねた」
「どうして。どうしてそんな事、今、言うの…!」
「君にも、選択肢があるからだよ」
「!」
表情から、理解したのだろうと思えた。
青年は、もう一度、微笑んで言う。
「愛してる、祐子。…ごめん」
「…私も。愛してる。龍仁さん、…ごめんね」
それが、最期になった。
彼女が手を離した。
一瞬で、ザイルに全体重が掛かる。
が、これも、切れかかったザイルだ。
見る間に糸が外から音を立てて切れ始め、芯の一本になった時、
「龍仁さん…!」
彼女の絶望(かお)を見た。
選んだのは、僕だ――――。
君に、罪はない――――。
遠ざかる彼女の姿。願いが伝わったかどうかは分からない。
だが、伝わったと信じたい。
意識を失う前に、激痛が全身に走る。荒々しい岩壁に身体が打ち付けられ、引っかかり、抉られたのだ。そして、また、落下する。吹雪く山が赤く滲んで見えた。
『祐子』
意識を失うことができたなら、どれほど良かったろう。
だがそれは、大地に打ち付けられた衝撃の後で訪れた。
きっと白い絶壁に、自身の赫い花が散ったに違いない。
山は、決して、赦さなかったのだ。
僕を。
ここは、天下の霊峰、継国山だ。神の鎮座する(おわす)、山だ。
『祐子……さよなら…』
静かに、人生の幕が下りた。
自身に降り積もる雪が、とても、温かく感じた。
神楽団(かぐらだん)のしっかりとした音色に合わせ、ヒノカミ神楽が二周目に入った。
燃え盛る炎の豪快な音を耳にする。日輪刀で円を描いて炎の舞を辿ると、白い袂(たもと)が翻った。足を運ぶ度に、袴(はかま)の衣擦(きぬず)れの音が炎のそれに重なる。
『縁壱(よりいち)や』
少し低めで艶(つや)やかな声が響いた。どちらかというと、女性の声(それ)に近い。
姿が少しずつ、顕わになっていく。白無垢に身を包んだ、見た目、縁壱よりも年上の女性の姿をしていた。切れ長の一重が鋭く、面立ちは男性のそれだ。だが、目尻の紅と唇に差した紅が妖艶に魅せて、判然としない。
『久しぶりじゃのう。相変わらず、間の抜けた顔をしおって』
「継国様。逢う度逢う度、悪態を吐くのは止めて下さい」
縁壱は、陽華突(ようかとつ)の鋭い切っ先を、わざと継国の山の神に向けた。
『ふぉっ』
彼の者はにやりと笑いながら、背を逸らす。眼前を日輪刀の鋭い刃が流れて、
『神をも恐れぬ不届き者めが』
言いながら笑った。
氷点下の空に、星が瞬く。
吐く息の白さより、ゴーグルを通して見る夜空に息を飲んだ。
「祐子」
後に続く女性に声を掛け、上体を捩る。ゴーグルを上にずらして、目に焼き付けた。
「…龍仁さん」
早く景色を見たいと言うように、声色に現れる。
逸る気持ちを抑えて、自分が歩いた後をしっかりトレースしてくる。それでも安全のために、ピッケルでチェックをするのは忘れない。冬山では、どこにクレバスが潜んでいるのか分からないのだ。
「最終ポイントまではあと少しだ、頑張れ、祐子」
「ええ!」
継国山(つぎくにさん)の北ルートには、二カ所に山小屋がある。
夏場なら、慣れた足なら舞殿(まいどの)まで一息に行ける。ロープウェイの回数券まで買って、幼い頃から登攀(とうはん)し続けたルートだ。だが、冬場は、何度登ろうと、油断ならなかった。
彼女が踏みしめる雪の音に、椿(つばき)がぽとり。と落ちる音が重なる。静寂の中では、互いの息の音と、雪を踏みしめる足音と、椿の花落ちの音しか聞こえない。
風が吹くと、雪渓(せっけい)を薙いで風紋を残した。
夜の闇に広がる雪山。
星の瞬きがあるお蔭で、視界が玲瓏(れいろう)と晴れ渡る。昼間とはまた違った、雪と星の奏でる明るさに、どこまでも行けるような気がした。
「ああ、ああ…! なんて綺麗なの…!」
隣に並んだ祐子が、感嘆の息を漏らした。
継国山(つぎくにさん)九合目から見た景色は、格別だ。
どこまでも連なり続く、継国地方の深い山々。頂(いただき)はどこも雪に覆われ、白く煙る。星夜には山から湯気が立ち上るようで、すっきりとした闇夜を幻想的に醸した。
遠く、何度も、流れ星を見る。
「継国は美しい。中でもこの山は本当に。神々に愛された山だ」
「龍仁さんがどの山よりここが好きだって気持ち、分かるわ。…観たことないけど。ここ以外」
肩を寄せて笑い合う。
転々と連なる山椿の向こうに、広がる山頂を観る。もう、継国神社(さん)の神院(しんいん)、舞殿が小さく視界に映るようになった。
「行こうか」
「ええ」
頷き、再び歩き出す。山の天気は変わりやすい。
風が出てくれば、危険だ。あっという間に雲が立ち上り、一気に崩れたりする。
だが、あと、一息。
『後、少しなんだ』
思った時だった。
安全と判断した足元の、アイゼンが、雪を越えて岩に当たり、滑った。
『馬鹿な』
思ったのと、上体が崩れたのとが同時だった。
「龍仁さん!?」
滑落する身に、彼女の声が響いた。
呼びきる前に、ザイルが伸びきる。互いに互いを預けた命綱だ。
驚いた彼女が、咄嗟の判断を間違えたのを、崖下に落ちる直前に見た。
「祐子! 体重は後ろだ! 後ろに倒して尻餅をついてくれ! ピッケルを立てて足を踏ん張って。ザイルを引っ張るんだ!」
どこまで言えたか分からない。
最後まで叫んだつもりだった、が、自分の身がじりじりと沈んでいく。それはつまり、彼女が雪の上を滑っていることを示し、共倒れすることを意味している。
『祐子…!』
彼女が落ちるより早く、自分が上に登らなければならない。
ピッケルを崖に突き立てて、なんとか踏ん張ろうとする。
その目に、ザイルが、カラビナが、壊れていく様が映った。
『ああ、そうか――――』
納得した。諦めにも似たそれだった。
元より、そのつもりだった。
覚悟して、この装備のまま、山に登ったのだ。
霊峰、継国。愛した山に、答えを委ねるために。
「龍仁さん! 手! 手を伸ばして…!」
崖の上から、彼女が腕を伸ばしてきた。その目に、壊れ始めた装備を見ただろう。瞳が潤み、懸命に声を張り上げてくる。
「祐子…!」
手に手を掴んだ。
一度は。
だが、このままでは、二人とも死ぬ可能性が高い。それだけは、駄目だ。
「ごめんな、祐子」
何とも言えず、最期に、笑った。
「大体なんですか、その格好は。玉藻(たまも)御前(まえ)に叱られますよ。継国(ここ)は稲荷じゃないんです、狐の嫁入りとかコスプレでしょう、それ」
『暇なんじゃもん。主はたまにしか舞わんしのう』
「おふざけになるのもたいがいになさって下さい。本当に…心配したんですよ。元気であらせられて、良かった」
縁壱が二周目最後の円舞(えんぶ)を描いた時、継国の山の神は、懐(ふところ)より、檜(ひのき)の扇を出した。対だ。それぞれの手を振って軽やかに広げると、縁壱の背に背を合わせ、舞い始めた。
縁壱の顔が綻ぶ。
『清司郎(せいしろう)は地獄でもよう働いておる。性根はいい子じゃ。山に現れた時突っぱねるのはのう。気が引けてのう』
「勘弁して下さい。うちの巫女が、だいぶうなされたんですからね」
『カナエか。…あの姉妹は、どうする気かのう。継国に身を捧げてくれるなら、妾(わらわ)は願ったりなんじゃが』
「美人ですしね」
『無論(それ)じゃ!』
この神は…と、縁壱の山の神を見る目つきが据わった。
『喰うてもいいかえ? 姉がいいのう。妹の方はもう少し柔らかくなってから』
「やめて下さい、本当に…継国様は見境がないんですから」
『愛(め)でるだけじゃ。腕の中で喘ぐ声がたまらんのでなあ』
「あなた、毎度毎度。これまでも嫁は何十人といたでしょう。節操なさ過ぎですよ!」
『主は巌勝(みちかつ)に似てきたのう。ま、双子じゃ。当然かの?』
「兄上じゃなくても、誰でも怒ります!」
山の神は、ほほ、と笑うと、縁壱の頭上高く、日輪(にちりん)を描いた。艶やかな炎が蒼穹に舞う。
その輪に炎を通すように、縁壱が日暈(にちうん)の龍を描いた。交差する炎が流鏑馬(やぶさめ)のように、矢と的とを結ぶ。
『縁壱や』
「…はい」
『ほんに妾の腸(はらわた)を煮え返したのは、継国の長い長い歴史の中で、ただの一度きりじゃ。それも、裏切られた気がするでのう』
「継国様…」
『あの者、忘れるでないぞ。既に天には昇ったが、妾は決して赦さぬ!』
もう、何度目かの確認ではあった。だが、装備の点検は、何度やっても足りないくらいだ。畳の上に広げた道具の一つ一つを眺め、青年は、気持ちを整えた。
登攀・雪中行軍を明日に控え、覚悟が決まると、一息着いた。後はザックに詰めながら、漏れがないか最終確認をするだけだ。
何気なく、しっぽりと雨が降りそぼる庭園に目をやる。明日の山は、雪かも知れないと思った。
「あなた」
衣擦れの音に続いて、心配そうな声が響いた。婚約者のさな枝(え)だ。式は十ヶ月後の予定だが、石原家(いしはらけ)に婿(むこ)に入ったがために、一緒に暮らしていた。
これからは山を諦めて、自分も、政治の世界に入らなければならない。
それも含めての、覚悟だった。
「本当に、参りますの?」
彼女もゆっくりと、首を庭園に向けた。
何一つ不自由することのない生活を送ってきた彼女は、病的に色が白い。所作は丁寧だがどことなく冷たく、あまり、感情を表に出すことはなかった。
唯一、山に行く時だけだ。
彼女が声色も、表情も、変えるのは。
「最後の登攀だから」
青年は立ち上がり、着物の裾を整えながら彼女の隣に立った。
庭の楓が色濃く白い砂利の庭園を彩る。まるで彼女の能面のような顔に、差された紅のようだと思った。
「後は、継国は、眺めて終わりにする。もう決して、登らない」
「…あなた」
「色々と心配を掛けてごめん。きっちり、未練は断ってくるから」
身を寄せてきたさな枝を、両手でちゃんと受け止める。
だが、脳裏には、まだ、別の女性が浮かんだ。
『大丈夫。これで何もかも、終わりだ。僕は、石原龍仁。もう、戻れない。生まれ変わるんだ』
龍仁は彼女の腹にそっと手を添えて、
「腹のややこを労っておくれ、さな枝」
静かに言うと、彼女はゆっくりと見上げてきた。
眉尻一つ動かすことのない表情に、精一杯の言葉を伝える。
「もう、寂しい思いはさせない。約束するよ」
「…ええ」
蚊の泣くような声だった。
『知っているのだね、君は』
だが彼女は、これまで一度も、自分を責めなかった。
胸に埋めた顔は濡れているのかも知れないと思う。震える小さな肩を抱いた。
「さな枝」
呼び掛けて、少し身を離した。
同じく身を離した彼女から僅かに離れると、室内に戻り装備の一つを取る。
「これを。渡しておくよ」
眼前に戻ると、ザイルを差し出した。
「後は全部、磨いた。縄はね、磨きようもなかったから」
「!」
「後はもう、チェックしたから。大丈夫だよ」
『ああ、やっぱり。君だったんだね』
得心する。
だがそれも、構わなかった。全てを受け入れ、明日は、約束の場所へ行くのだ。
そして、告げるのだ。思い出の場所…舞殿が見える、北の椿の頂で。
『答えはきっと、山が出してくれる』
好きだ。
あの、山が。
あの山で知り合い、過ごし、時を重ねた、彼女が。
『祐子。
…ごめんな』