第五話:山神様
継国さん 継国さん
陽の見櫓の神楽舞 お困りでしたらおいでませ
南の躑躅の山奥に 鬼の屍踏み越えて
継国さん 継国さん
月の見櫓の剣舞唄 泡沫の夢に紡ぎます
北の椿の山奥に ぽとりと首を落としませ
継国さん 継国さん
継国さん 継国さん……
・壱・
~椿の章~
午後三時(申の刻)を回り、行冥(ぎょうめい)は嘆息をついた。
「珍しいっスね」
統轄デスクの斜め前に座した玄弥(げんや)が、笑声を立てながら言う。まだ二年目ながら、刑事部一課の上座にいるのは、ひとえに、行冥の相棒だからだ。
戦績も、新人達の中では飛び抜けて高い。行冥のおこぼれと陰口を叩く輩もいたが、それは玄弥も百も承知で、気にしてはいなかった。
行冥が両手を合わせて一言、
「南無阿弥陀仏…」
祈る。
すっかり見慣れたこの所業(しぐさ)は、一つの合図だ。
「何にもなかったこういう日をな、『嵐の前の静けさ』って言うんだ」
「継国神社(さん)ですかね」
「言うな。本当に電話が掛かってくるから」
吐き捨てるように言った彼に、玄弥は笑った。
ふと、背後から刑事部長が歩み寄って来、
「悲鳴嶼(ひめじま)、不死川(しなずがわ)、明日はちょっと特別任務を受けてくれるか」
「え?」
小さく声を上げて、玄弥は椅子を回した。見上げる。
行冥も、「まさかのところから降ってきたな」とぼやく。
部長は苦虫を噛み潰した顔になって、
「急ですまんが、朝から式典だ」
あからさまに面倒くさそうな顔になった玄弥の斜め前で、行冥が、
「もしかして…、継国神社の神送りの神事(奉納の舞)の警備ですか?」
「なんだ、すっかりお社(やしろ)さんの事情に詳しくなったな」
快活に笑った上司の姿に、「あ、違ったみたいスね」と玄弥は呟く。複雑な表情になった行冥に、部長が、
「石原(いしはら)権藏(ごんぞう)氏の三十三回忌だよ」
「石原、権藏?」
玄弥は首を傾げた。
行冥がこちらに視線を投げて、
「旧・胡桃市(くるみし)の元市長だ。三期務めた大物でな」
「胡桃市…そうか、新胡桃市に名を改めた政治家ですね?」
「そうだ。高速を走らせ、特急を止まらせ、新幹線に着手…てところで、現職を降ろされた、あの大物」
「おい、悲鳴嶼」
上司が口を挟む。それ以上は、ここでは止めろ、という具合だった。
軽く目だけで辺りを見渡して口を噤んだ行冥と、部長を、玄弥は、交互に見た。行冥の顔を見る限り、後からでも、思うところは聞くことはできそうだった。
「いいな、朝は八時から受付だ。後で招待状渡すから」
「…了解」
いつでも頼もしい年上の相棒は、肩を落として頷いた。
刑事部長が踵を返すが、
「そうだ、」
去り際に何事か思い出した様子で、もう一度こちらを見る。
「県警に顔売って来いよ」
「…はい?」
「県警のお偉いさんが、お前を指名したそうだ。顔を見たいんだとよ」
「…悲鳴嶼さん」
俄に玄弥の顔が喜色ばむ。
だが、行冥は「う…」と呻くと、部長には曖昧に返事をした。
「午後は半休取っても構わんから。誘われたらくれぐれも断るな」
「…はい」
上司が去った後も、玄弥は、
「嬉しくないンスか! 栄転のチャンスですよ!? 県警の刑事課に移れるかも知れないのに」
「お前な…」
両拳を握って言うと、行冥が苦笑う。
「まあ、全ては神の御心のみぞ知る、か」
もう一度手を合わせた行冥とは違い、玄弥は、すっかり調子が上がりっぱなしだった。
翌日、着慣れないスーツに身を包んだ二人は、受付で、
「…巌勝(みちかつ)?」
流暢にペンを走らせて受付を済ませ、颯爽と身を返した彼を見つけた。
「お? 悲鳴嶼。玄弥も一緒か。珍しいな、こんなイベントにも出るのか」
「イベント、って、お前…」
三十三回忌だぞ。と呟くが、場所は胡桃アリーナ、かかる音響も明るめのクラシックだ。居並ぶ者らは政治家はもちろん、新胡桃市職員や県下の警察関係者、道路公団の者達までいる。ざっと見渡しても、数百名は下らない。
作り笑顔で名刺交換をする様は、おおよそ法事とは思えなかった。これを機に見知っておこうと、あちこちで腹黒さが目立つようだった。
次第に顔色が青くなる行冥に、巌勝がにやりと口角を上げ、
「知らなかったのか? 親族は誰一人来てないぞ、この式典」
「…え」
「まあ、これで弔い上げだからな。豪勢に送って、お役御免(終わり)って事だ」
「待て。親族が開いていないなら、誰が」
「新胡桃市だよ。まあ…地元の英雄だ。胡桃が発展したのは、権藏氏の力に寄るところが大きい」
「それはそうだが…お前は? やっぱり、神社か」
「そう。石原家からは毎年多大な布施(ふせ)が届いていてな。ロープウェイあるだろう? あれも石原家の力なんだよ」
「うわ…」
「こういう裏方は、俺の仕事」
「我が儘言ってるばかりじゃないんだな、お前」
「あはは」
巌勝は人の多さに控え目に、それでも確かに笑みを零した。その様子に、行冥は、内心で感心する。
『仕方ない。俺もしっかり務めるか』
諦めて覚悟を決めた行冥の顔付きが、引き締まる。
「お」
巌勝がその意識の違いに気付いた様子で、柔らかな表情になった。
行冥は気を取り直して、
「今日は確か神社も神事だろう?」
「ああ。今頃もう、始まってるんじゃないか? 俺も式典が終わったら様子見に、山に登るよ」
「大変だな…」
巌勝は不敵に笑った。
「じゃ、俺は氏子(うじこ)と関係者に挨拶してくる。…頑張れよ!」
「ああ。またな」
「また」
後ろ手に振った巌勝の元に、すぐ、数名が駆け寄った。
それを見た玄弥が、
「挨拶してくるんじゃなくて、挨拶されてますよね、巌勝さん」
「継国神社(さん)の凄さを改めて実感するな…。知ってるか? あそこ、」
吐息交じりに言うと、玄弥の視線を感じた。
思わず彼を見て、
「あそこ、県内のお偉いさん方が厄除け祈願やら助言やらをもらいに、こっそり通ってるって言うぞ」
「本当ですか、それ」
「どうだろうな? 巌勝のあの様子を見る限り…」
と、二人はまた、継国神社の神主の兄に視線を戻した。
「「満更でも」」
言葉が重なる。
なさそうだ、と呟いた行冥に、玄弥は強く、数度、首を縦に振った。
一足早い冬の訪れでも見ておこうと思ったのだろうか。登山口脇のロープウェイ乗り場は、朝から、多くの人でごった返していた。
継国山は、霜月(しもつき)には閉山になる。冬場入れるのは、県警に届け出て冬山登山の許可を取る事のできる一部の者か、社に関係のある者だけだ。
それでも年末年始だけは、余程の悪天候でない限りロープウェイを動かすというのだから、神社も相当肝が据わっている。
「凄い人出だな。そんなに人気あるのか、この山」
呟いたのは、茶色い着物を着崩した若者だった。インナーが襟元から覗くが、気にする様子はない。足元も足袋(たび)に高下駄(たかげた)という出で立ちが、相当人目を引く。
奇異な眼差しを何度も受けつつ、若者は、構わず辺りを見渡した。
その目に、一人の女性が映る。老婆と言うには軽く失礼な、だが、杖をついた白髪の姿はそれなりの年齢だろうと思える、初老の女性だ。
目元がとても優しい。品のある顔立ちだった。肩に掛けたストールや靴、杖は、ブランド物だ。癖のある白髪はふんわりと纏められ、一層彼女を穏やかに見せた。
とても、登山をしに来たとは思えない。
『ま、見た目だけなら、俺も人のこと言えないな』
片手には何やら、紙が握られているようだった。切符売り場を眺めて、途方に暮れているようだった。
そっと傍に寄る。
「何かお困りですか」
極力小さく、彼女にだけ聞こえる声で言った。
婦人は見上げるようにして首を回すと、柔らかな笑みを零した。
『今はこれじゃ、乗れないのね』
とてもゆっくりと、話した。
手元の紙――それは、継国山ロープウェイのチケットだった――を見せてくれる。
若者は視線を落とすと、ロゴや色合いの古さに目を見張った。端も擦れて、今にも破けそうだ。
中でも驚いたのは、
『昔は回数券なんてあったのか。ロープウェイで初めて見た』
思わず凝視した。
彼は言葉を選んで、
「ちょっと…期限が切れているようですね」
『そうなのかしら…』
顔付きからすると、乗れると思ってやって来たのだろう。すっかり肩を落とした婦人に、
「俺、新しいの買ってきますよ。丁度上まで行くつもりでしたし」
『あらまあ』
彼女の瞳が大きく丸くなって、次いで、虹を描いたようになった。
『お優しいのねえ、ありがとう』
礼を先に言われる。
『じゃ、お願いしようかしら。どうも身長が足りないのか、声が小さいのか、聞いてもらえないの。機械は…』
と、売り場の脇にある自動券売機に目が行く。
『分からないし…』
「沢山の人がいますしね。売り場はいつもこんな感じなんでしょう」
券売機の方は回転が速いが、若い人出ばかりだ。早い人の流れに、杖をついた老人が飛び込むなど、相当勇気がいるに違いない。
対して売り場の窓口は、長蛇だ。
『本当にありがとう、助かるわ。上でね、人と逢う約束をしていてね』
「ええ、ちょっと待ってて下さいね」
言うが早いか、彼は駆け出した。袂(たもと)が揺れて、高下駄をコンクリートに打ち付け軽快に響かせる。
あっという間に人混みをすり抜けた彼の姿は、婦人の視界から瞬時に消えたと思われた。彼女が右に左に首を回して探す間に、彼は、二枚購入して戻ってくる。
『まあ!』
両手を合わせてにこりと微笑んだ様が、まるで乙女のようだった。
若者は、ふと、
『こんな素敵な女性、一体誰が何十年も、待たせているんだ』
少しばかり憤慨した。
『会いに来てやればいいのに』
回数券の古さを思えば、過去何度、ここを登ろうとしたか知れない。大体山の上で待ち合わせなど、相当無念に違いないと思った。
「御婦人」
チケットを手渡しながら、
「上まで一緒に行きましょう。帰りは別になりそうですから、それ。往復のチケットにしましたよ」
彼女ははにかんで頷き、何度も礼を述べた。
それには軽く首を横に振って、
「ロープウェイの駅長さんにも伝えておきますから、帰りは好きな時間にゴンドラに乗っていいですよ」
『あら。そんな事ができるの?』
「任せて下さい、大丈夫です」
力強く、頷いて見せた。
「ここはなんてったって、天下の霊峰(れいほう)、継国山(つぎくにさん)ですからね。お年寄りには格別、優しいんです」
『ふふ! そうね! ここは、天下の霊峰…』
言いながら、彼女の表情(かお)から笑みが消えていった。額にうっすらと、角の先が見える。とても小さな、円錐の先だ。
『!?』
「御婦人」
若者は慌てた様子で声を掛けた。
「御婦人も遠慮しないで下さいね? 乗り遅れたら、今度は帰れなくなりますよ」
婦人がはっとする。意識がこちらに戻ってきて、『面白い子ね』と、口元に手を当てて肩を揺らした。すっかり、元の優しい婦人だ。
『まさか。とは…思いたい、けど。禍(まが)い者だったとしたら』
山に入れてもいいのか?
身が震えた。
『でも、やり残したことがあって、このままじゃ。どちらにしろ』
こんな時、
『姐さん(あの方)だったらどうするだろう?』
矢庭に思った。だが、今は、答えてくれるはずもない。
「…行きましょうか」
『ええ。ありがとう。本当に、ありがとう』
若者は、一抹の不安を抱えたまま、婦人を誘った。
ロープウェイ乗り場へと、一人、歩を進める。