第四話:鬼灯
・漆・
~躑躅の章~
遠くで、サイレンの鳴る音がする。
頭の中で木霊するそれが、パトカーのそれだと気付くのに時間はかからなかった。
『悲鳴嶼(ひめじま)さん…』
警察と言えば彼しか思い浮かばない。
『あ。玄弥(げんや)さんも居たわよね』
目が覚める。
変なことを考えたと思いながら瞼を押し上げると、
「姉さん…!」
しのぶの声が聞こえて、強く抱き締められた。
正直、苦しい。
だが、嬉しい。
『これは、現実?』
まだはっきりとは見えない視界に、おぼろげな朝日が映り込む。
眩しくて、目を細めながらしのぶの背中に腕を回した時、
「ああ、生きてる……?」
思わず呟いた。
「ええ、ええ! 生きてるわ…!」
「そう……」
どっと力が抜けた。
妹の肩に顔を置き、
「ありがと、しのぶ…」
言うと、
「巌勝(みちかつ)さんよ。姉さんを助けたの」
「…え?」
少し身じろいで、首を回した。
しのぶの嫋(たお)やかな項(うなじ)が目に入り、何となく、妹は、誰より綺麗だと思った。
しのぶが言った。
「憂世(うきよ)に飲み込まれる寸前、巌勝さんが井戸に飛び込んだのよ」
『あの、水音…』
「姉さんと清司郎(せいしろう)さんの身体をすり抜けて井戸に先に落ちたと思ったら、縁壱(よりいち)さんのね、組紐をね、途中で掴んでいたのね」
「私が外した…?」
「そ。清司郎さんをすり抜けやり過ごして、巌勝さん、それを口に含んで何か叫んだの。多分…縁壱さんと一緒。何かの詞(ことば)だと思うわ。巌勝さんの場合退魔だっけ? 多分、それ」
「…」
「憂世に飲み込まれる寸前で姉さん…身体がこっちに戻ってきたの。巌勝さんが受け止めて、清司郎さんと、喧嘩してた」
「…えぇ?」
カナエは面を上げた。
妹の表現があまりにもおかしくて、つい、真正面に捉えて見つめる。
しのぶは悪戯っぽい笑みを零して、
「かっこよかったよ、巌勝さん」
「…私、見てない」
「ふふ! そうね。清司郎さん固まってた。納得はしてなさそうだったけど、『縁壱が継国でちゃんと供養する』って。話付けてたよ」
「…奏愛(かなえ)さんは? 私…」
「それ。姉さん…覚えてない?」
小さく息を吐いた妹に、カナエは思った。
『あれは、現実だったのね。私の中に、まだ、奏愛さんが居たんだ――』
「きっと、大丈夫…ね」
瞼を伏せて、笑みを浮かべて言った。
「…だよね! 私もそう思う」
しのぶが満面の笑みになって、抱きついてきた。
しっかり二の腕に抱き留めると、助かったのだ、と実感が湧いた。何故だか笑いが込み上げてきた。
「よかったよぉ…!」
泣き笑いで、しのぶと輪唱する。
ふと、
「お帰りなさい、カナエさん。本当に…良かった」
「縁壱さん」
上から届いた声に、笑顔で応える。彼の傍らには、一つ息を吐く兄がいた。
「…さて」
と、その巌勝が言う。
彼はくるりと身を返すと、大勢の刑事に囲まれ大きく肩を揺らし、また溜息を吐いた。
「どうにも信じてもらえないようだが、とにかく井戸を攫(さら)ってください。人骨はもう溶けてしまっているはずなんですが、出てくる恐れがあります。少なくとも、水分分析や衣類などで、何かしら違和感は出てくるはずですから」
「そうは言ってもねえ…どれだけ放置されていたと思うんです? この辺りで事件なんてもう何百年も聞いたことないし、」
「ですから。骨を鑑定すればどれだけ旧(ふる)いかが分かりますよ。それで俺たちに対する疑問も、晴れると思いますがね」
「こちらも何度も言いますけど。それなら何故、あんな井戸に? だあれも通らない山奥でしょうが」
「ですから」
と、巌勝が同じ言葉を繰り返す。
カナエは、二人のやり取りに疑問を感じた。ふと、周りを見渡した。
「…!」
そこは、国道だった。
目の前で、道が二手に分かれている。真っ直ぐ続く道と、左に曲がる道だ。
確か、昨日は、この道を左折し、提灯通りに入って行った。
カナエは立ち上がり、
「あ、ちょっと! お嬢さん!」
「ほらね? 言ったでしょう? ああなりますって」
巌勝が納得したように言って聞かせるのを背中で受け止めながら、駆け出し左の通りに曲がって入る。
すぐに、
『この先危険』
KEEPOUTの黄色い帯が無数に張り巡らされた、いや、今は千切れている――きっと、自分たちがこの奥から救い出された時に警察が切ったのだろう――山道を見た。
日が昇り辺りはだいぶ明るくなりつつあるが、山道はうっすらと昏(くら)い。鬱蒼とした木々が左右から通りを覆うようにアーチを造り、光を遮っている。道路であったはずの道も、何十年も手入れがされていないのだろう、雑草がびっしりと生えて、轍(わだち)は一切見えなかった。
「うそ…!」
鳥肌が立った。
暫くして、二つのライトがタイヤの音を軋ませ、草花を踏み拉きながらゆっくりと近付いてくる。赤色灯が回転しているところを見ると、パトカーだろう。
広い国道まで車を走らせてくると、それは停まった。
二人の刑事が中から飛び出すように現れて、一度こちらを見る。その顔は真っ青で、声は始め震えた。
「あ…ありました、これです」
スマートフォンを取り出す。
スワイプして、一枚の写真を、巌勝を問い詰めていた刑事に見せた。
「ほらな? わナンバー、19―55」
「!!」
気になって、カナエは傍に駆け寄った。
無論、縁壱やしのぶもだ。
三人で、巌勝に差し出されたスマートフォンを見る。
そこには、自分たちが乗ってきた、夏の青空のように真っ青で美しい、SUZAKIのSWIFTが…ではなく。
今にも崩れ落ちそうなほど錆びて、タイヤはパンクし、窓は割れ、それはもう…何十年も何百年も放置されたかのような車が、映っていたのだった。
思わず、カナエは嘔吐いた。
「これで信じてくれます?」
巌勝が言う。縁壱も続いた。
「その側に、廃屋はありませんでした? 元、旅館です」
「あ、あ、あ、あり…ありました、旅館かは分からなかったですけど。ふふふふ…旧すぎて」
「それですよ、『鬼灯旅館』」
「鬼灯旅館!」
刑事がはっとした。
巌勝は「何か?」というように、首を傾げて見つめる。
「確かに…旅館です、大正頃まで、この辺りでは一番の人気だった…」
「ご存じで?」
「この辺りでは有名なので。大正末期、跡取のいなかった旅館は閉鎖しましてね、昭和に入ってからは二度の世界大戦の戦火を免れて…その後、県外からやってきた富豪がこの辺りの土地を丸々買い占めたんです」
「…」
「暫くは明治から大正の浪漫(ロマン)を売りにした華やかさで人気を博していたんですが…その後、若旦那が発狂しましてね。この山を降りた街の精神病院に出たり入ったりしたんですよ。それがどうも、旅館にお化けが出るとかで」
「…執事の姿やうら若い女性の姿では? まあ、そんなのどこにでもいそうですが」
巌勝の言にカナエがふらついて、縁壱が支えた。
刑事はそんな二人を軽く見てから、
「ええ、そうです…肖像画の女性にそっくりだって喚いていたそうで。そうか…この先の建物が」
「! カナエさん」
縁壱が、気を失いかけた彼女を支えた。
力なく、「ごめんなさい」と呟いたカナエに、縁壱が身を寄せて支える。「座りますか?」との問いかけには、何とか首を横に振った。
「その後、女将(おかみ)がその女性に身体を乗っ取られただとか、若い男の人に付け狙われて眠れないだとか、それはもう散々な話で。数年掛けてようやく収まったと旅館に帰したら、一週間もしないうちにその若旦那が、一族どころかスタッフまで一人残らず惨殺して自殺したんですよ」
「う…」
カナエがとうとう蹲(うずくま)り、縮こまった。
無理もない、と言うように、縁壱もしゃがんで背中を摩(さす)る。
しのぶも一瞬姉に気を取られたが、話が気になったのだろう、続きを促した。
「それで、閉館になったんです。鬼灯旅館。その旅館を中心に栄えていた鬼灯街道も廃れていきましてね…その後、全国でも有名な心霊スポットにって話だったんですが。まさかこの先が」
と、刑事は、黄色いテープの先を見遣った。
「もうずっと、このテープを貼り替えるだけで、詳細が語り継がれることもなくなってましたが…」
カナエはまた、気を失った。
巌勝が何とも言えない視線を送ると、縁壱が「任せて下さい」というように、兄に目配せをした。
「その惨事の元になった霊が、井戸に放置されているんです」
「! そこに、話が繋がりますかね? もう本当…勘弁して下さいよ」
「それはこちらの台詞(セリフ)です。継国直轄の領地で弔いますので、…どうか。この通りです」
巌勝は深々と、腰を折った。
もう何度目かの辞儀だった。
「…分かりました。それで、失礼ですが、貴方は」
「ああ、名乗り遅れました。継国巌勝です」
「継国…!」
「神主はそっちの弟の方」
言って視線を落とすと、縁壱が見上げてきて刑事にぺこりと頭を下げた。
巌勝が続ける。
「二人が継国の巫女見習いなんですが、そっちのまた気を失ってしまった方が、どうも敏感でしてね…かつて女将に取り憑いたという霊に導かれて、ここへ来たんです」
恐れ戦(おのの)きながら、彼も挨拶を返す。
「分かりました、大変…! 失礼致しました」
『これだから』
と、巌勝は縁壱と顔を見合わせた。
弟は肩を竦めると、小さく笑う。
やっと、一連の事象から解放されそうだった。