第四話:鬼灯
・陸・
~躑躅の章~
「別の、結末…!」
カナエは怯えた。
震えた心に呼応するかのように、すぐ傍の鬼灯洋燈(ランプ)が「ジ…」と音を奏でる。
『今はダメ! お願い、今はいや…!』
「やっと! 謎が解けたの。巌勝(みちかつ)さんと合流できたのに…! お願い、離して…! 清司郎(せいしろう)さん、やめて!」
「カナエ!」
世界が切り替わった。
思った通りの場面になった。
あの、夢の世界だ。
月夜の晩。
青々と茂る芝生の庭。夜露が煌めいて、その中を、彼に引き摺られていく。
「死にたくない! お願い、考え直して! 清司郎さん…!」
叫んだのは、自分だった。
奏愛(かなえ)じゃない。
『謎が解けたからだわ…! このままだと、本当に。あの夢が、本当に、なる…!』
「清司郎さん…! ったあ!」
地を這う芝生の蔦に足が取られた。薬指の爪が剥がれて、痛みに躓(ひざまづ)く。血の臭いが鼻について、涙が込み上げてきた。
それでも、清司郎の歩みは止まらない。
腕を引っ張られる度に、身体が転がりながら引き摺られた。身体が大地を抉り、全身に泥と芝生を纏わり付かせて、
「清司郎さん…! お願い、離して。私、奏愛さんじゃない…!」
叫ぶと、土が口に入った。
「げほ! っが…!」
噎(む)せて、喉に詰まりそうになるそれを懸命に吐き出す。
「知ってるよ」
耳に届いた言葉に、絶望が輪を掛けた。
「君を見てきた。君は、奏愛の生まれ変わりだ。きっとそうだ」
『何なの、この人! 頭おかしい…!』
「違うわ! たまたま似てただけよ! 私は胡蝶カナエ。継国神社のただの巫女見習いよ!」
「違う!」
清司郎が、身を折って叫んだ。
慟哭(どうこく)が大地を震わせる。
「一緒に死のうって約束したのに。なんで…なんで! 一人で生きて、生まれ変わったりしたんだ!」
「だから違うってば! 奏愛さんはまだ、この土地にいるのよ!」
「そんなの信じるものか! 君が…君が、ここにいるのに…!」
「お願いよ、離して…!」
ようやく立ち上がり、泥だらけになりながら木立を逝く。
『井戸が! 井戸が近付いてくる…!』
背筋が凍った。
「巌勝さん、縁壱(よりいち)さん! しのぶ…! しのぶ! 助けて、しのぶ…!」
涙が溢れた。
別の意味で、奏愛の気持ちが分かる。
『死にたくない』
相手を殺してでも井戸を這い上がった、奏愛の気持ちが分かってしまった。この手で、いや…足で、蹴落とし自分だけ、生き残った、切実な、気持ち。
事の重大さより、助かった安堵に包まれたあの瞬間。
柚木(ゆのき)の顔を見て、『助かる』と思った、あの、気持ち。
『人を殺した事実より、生き延びた安堵…!』
その罪の重さに、胸を槍で貫かれたようだった。嗚咽が喉に詰まり、涙が止まらない。
カナエは、清司郎の背中を見つめた。
『この人だって、ただ、奏愛さんを愛してただけだわ。なんで…なんで、一緒に死のうと思ったのか、理由は分からないままだったけど…』
白樺の木立を見上げた。
通り過ぎていく、景色。月だけは変わらずに、闇夜を照らしてくれている。
次第に川音が近くなってきた。
旅館のすぐ裏を流れる大河が、もう、傍にあるのだ。それは当然、井戸が迫っていることを意味する。
『奏愛さん』
カナエは、呼び掛けた。
彼女はもう、自分の中には居ない気がした。だが、一方的に自分に伝えるだけの彼女には、苛立ちが募った。
このまま何も言わないで死ぬのは、嫌だった。
『奏愛さん』
祈るように、呼び掛ける。
『貴女は何故、何百年も…彷徨(さまよ)っていたの? どうしてこの地に…留まっていたの』
清司郎が成仏できず、悪鬼になったのは分かる。
だが、奏愛はその後の人生も続いていたはずだ。謳歌(おうか)したはずだ。旅館がこれだけの繁栄を、享受したのだ。努力したに違いない。
たとえそれが、清司郎のことを忘れるために紡いだ日々だったとしても。
『…違うわ。さっき、清司郎さん言ってた。一人で生きて、生まれ変わったんだって』
一人で、生きる。
生き延びた、じゃない。生きたのだ。
その、言葉の通りだったとしたら。
カナエははっとした。
『独身を貫いた? 清司郎さんのために?』
じゃ、旅館は? 誰が後を…継いだのか………。
黒岩城の数え地蔵は十四体。
それ以上、増えてはいない。
「カナエ」
井戸の縁に、清司郎が立った。
月を頭上に戴いて、微笑む。
それはとても、優しい微笑だった。奏愛のことを、真に愛している微笑みだった。
『私が一緒に死ねば、もう…苦しまないで済むのかな。この人』
そんなことが、頭を擡(もた)げた。
「清司郎さん」
片手を取られて引っ張られるまま、カナエは、片足を井戸の縁に掛けた。
ゆっくりとよじ登り、同じ目線に立つ。
「大丈夫、怖くないよ」
抱き締められ、囁かれ、
「…うん」
カナエは、更に、一筋の涙を頬に零した。
『もう、いっか。この人を…二度も殺すの、私には…無理』
「カナエ。愛してる」
そのまま、井戸へ、
――――「姉さん!」
身を投げる、瞬間だった。
「姉さん!」
「しのぶ!?」
我に返る。
清司郎から身を離し、声の方に見向いて、妹の名を呼ぶ。
だが、掴まれた左手から、身体が井戸へと引きずり込まれていく。
「姉さあああんん!!」
絶叫と同時に、しのぶの身が、蝶のように舞ったように見えた。何か…羽織のような物が。見えた気がした。まるで蝶の羽のように筋の入った、裾が桃色の、美しい羽織。
『今の、何…?』
世界が逆さまになった。腕から引きずり込まれて、踏ん張った下半身がまだ、井戸の外に残っているのを視界に収めた。
「しのぶ…!」
上下が反転した視界が井戸の壁で遮られる瞬間、高速で駆けた妹が井戸の丸い輪の縁に手を掛け、
「くっ…!」
呻いたのを聞いた。
足首に、痛みが走る。続いて、背中にも。
落ちる寸前、しのぶが脚を掴んだ反動で、井戸の壁に背中が打ち付けられたのだと分かった。
文字通り天を仰いで、
「しのぶ…!」
必死の形相で自分を支える彼女を見た。
「は な… せえぇえ…!」
地獄の底から、声が響いてくる。
清司郎のものだ。
つい、下を向いた。
「ひっ…!」
彼の頭に、角が生え、口には牙が生え、鬼の面になった様を見た。掴んだ手首に長い爪が食い込む。
井戸の底はもう、井戸ではない。
タールのようなねっとりとした闇が、とぷん。と小さな音を立てて揺らいでいる。その闇の波間から、ぼんやりと浮かんで見えるのは、無数の白い手だ。
『憂世(うきよ)…!?』
肝が潰れた。
不意に、
「あ、つぅっ…!」
引っ張られる腕に痛みが走った。手首の血管を、今にも悪鬼の爪で切られてしまいそうだった。
縁壱に巻いて貰った組紐が、見る間に血で滲んでいく。
「姉さん! 諦めないで! お願い、何とか…何とか、上がってきて!」
もう一度、彼女を見る。
小柄な彼女の身が、先程よりも大きく見えた。井戸に、引きずり込まれているのだ。
『無理もないわ、二人分…!』
「しのぶ」
カナエは、微笑んだ。
「ありがとう。しのぶが大好きよ。誰より、何より、一番。私の、自慢の妹…!」
「姉さん!?」
「元気でね!」
カナエは、右手を伸ばし、左手首にやった。
組紐の結び目を、解く。
『憂世に逝くのは、私一人でいい』
「ありがとう…しのぶ」
目を瞑り、組紐を、外した。
呟いてこれまでの幸せだった日々を思い浮かべた時、井戸の底の、激しい水音が聞こえた。
身体が落下するより早い、水音。
きっと清司郎が先に沈んだ音だと思った。
意識が、遠のく。
『ああ、神様…。継国の、神様…』
もう一度、四人で。
継国の山を、登りたかったなあ。
静かに、世界が、閉じていった。
「ねえ、清司郎さん?」
奏愛が言った。
蹲(うずくま)り涙に濡れる彼に手を伸ばす。頭頂部に触れて、撫でて、徐(おもむ)ろに顔を上げた清司郎を、彼女はそっと、包むように抱き締めた。
「私は貴方と、生きたかったの。幸せな家庭を、築きたかった」
腕の中で、驚いたように清司郎の身が跳ねた。
「旅館の誰もが貴方の敵だった。お義母様が貴方には猛反対していたのだと…周りにそう吹聴(ふいちょう)していたのだと、聞いたわ。説得するまでは、私には内緒にと…」
清司郎の喉が苦しげに鳴った。込み上げるものを一旦はぐっと堪えて、
「式の当日、僕は社(やしろ)に行けないことになってたんだ。君を。君を殺すと言われて。僕は。君の…」
「お兄さんでしょ? それも聞いたわ。巌勝さんに」
「!」
「多分あの頃聞いていたら、凄く驚いていたわね」
清司郎が身じろいで、見上げてきた。
奏愛は少し首を傾けて微笑む。自分でも分かるほど、優しい眼差しになった。
「でもきっと、何も変わらなかったと思うわ。貴方が孕ませたんじゃない、私も望んだの。貴方と、貴方の子供と。一緒に幸せになりたかった。周りがどう言おうとも、…逃げてでも、きっと、私。二人と一緒に生きてた」
「奏愛…!」
嗚咽の混じる彼の呼び声に、奏愛の抱き締める手が答えた。少し力が入り、清司郎の慟哭を和らげる。
「同時にね、聞いたの」
しゃくり上げながら面を上げた彼に、少し身を離した奏愛は視線を合わせた。
「貴方が一人でずっと、苦しんでいたこと。その結果、心中しようとしたこと。私を傷つけまいとして、でも、気持ちを抑えることができなくて…必死でその真実を、隠し通してくれていたこと。そのまま、一人で罪を背負うつもりだったのね」
「……」
「ごめんね? ちゃんと愛してくれていたのに、それを失う恐怖と戦ってくれていたのに、私…理由を聞かなかった。死にたくないって気持ちばっかりで、貴方のこと、考えてなかった。貴方を一人、追い詰めてしまった…」
清司郎が、涙を拭った。腕が顔を拭いた時、その額から、角が消えた。
「清司郎さん。愛してるわ。今も、昔も。ずっと。貴方を踏台にして、一人生き残って、ごめんなさい…こんな風になってからしか、声を届けられなくて。ごめんなさい…、今更赦してなんて、言えないけれど…」
「奏愛…僕こそ。僕の方こそ、ごめん…!」
清司郎が抱き締め返す。
その手指から、長い爪が失われていった。指先は仄かに赤く色づいて、人の手の温もりが戻りつつあった。
「きっと、ずっと、声を掛け続けてくれていたんだよな? 僕、気付かなくて…!」
「ううん。ううん。いいの。こうして貴方が、戻ってきてくれたから」
「奏愛…」
清司郎はもう一度、彼女の胸元に顔を埋めて泣いた。
そっと、包んで、包まれて、暫く二人は無言だった。
「一緒に行くわ。地獄」
「!」
「もう、離れない」
「でも…それは」
「一緒に罪を償うわ。今度また、現世で逢うために。出会えたら、今度こそ」
「…今度こそ」
「ね?」
「…ん…!」
奏愛が立ち上がる。
清司郎も、ゆっくりと身を起こした。
二人、手に手を取り、一度、こちらを振り返る。
深々と、頭を下げた。
…誰に?
そちらを見向く。
『巌勝さん…!』
ああ、この人は。
やっぱり、すごい…。
カナエの頬に、涙が一つ、伝った。
安堵と疲労と。どっと押し寄せてきて、再び瞼を伏せた。その裏に、二人が少しずつ薄れて幽世(かくりよ)へ渡る姿が描かれる。罪を償ったその先に待つ未来が、見えるようだった。
祈るように二人の未来を思った時、
「カナエさん。色々とごめんね。声を聞いてくれて…ありがとう!」
奏愛の最期の言葉が聞こえたような気がした。
『どうか、どうか、元気でね…!』
「はい!」
まるで往年の友のように、別れを交わした。
清々しい、笑顔だった。