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​第四話:鬼灯

・陸・
 ~椿の章~

『後は、答え合わせをするだけだな…』

 巌勝(みちかつ)は、冊子を棚に戻すと「ふう」と溜息を吐いた。

 答えは分かったが、やるべき事も増えた。

『ここに悲鳴嶼(ひめじま)がいてくれたらな』

 思いの外、彼が自分の中で重要なポジションを締めていることに気付いた。

 遺体を引き上げるなど、警察の世話になることの一つでしかない。大体、何百年も井戸水に浸かった遺体だ。普通は完全に溶けている。話を通すだけでも、一苦労するに違いなかった。

『とにかく、縁壱(よりいち)達に合流しよう』

 巌勝は部屋を後にするべく、踵を返した。

 ところが、執事が後を付いてくる気配はない。

 巌勝は今一度振り返った。

「ここに、遺りますか」

 語尾を上げて言う。

 執事は静かに目を閉じて、柔らかに微笑んだ。

『面倒を押しつけて、すみません』

「…慣れてるんで」

 諦めたように言うと、執事は笑った。

『一つ、聞いてもいいですかな』

「…何でしょう」

『誰が一番、悪いのでしょうね?』

 巌勝は、一瞬目を丸くした。

 次いで小さく笑みを零すと、

「何百年も生きた貴方が、それを問いますか」

『それ以上生きた貴方なら、分かるかと思って』

「参ったな」

 巌勝は、人差し指の関節で眼鏡を押し上げた。

「答えは人それぞれですよ。そうでしょう?」

『…ええ』

「幽世(かくりよ)に関わると、善悪の区別が付かなくなる時があります。思いもよらない答えが裏に隠れていたりして、どちらが悪いのか…元はこうだったんだと、愕然とさせられたり」

『…』

「ただ一つはっきりしているのは、その誰もが、苦しんでいると言うことです。一番悪い奴が、割とあっさりあの世に逝っていたりするものですよ」

『それは…奥様のことを指しておられますかな』

「そう思うのは、貴方が『黒岩家の執事』という立場で物事を見ているからです。奥様だって、元は被害者でしょう。たとえ…奏愛(かなえ)さんに鬼灯入りの飲料を飲ませていたとしたって」

『! お気づきでしたか』

「それなりの年数を生きましたし、薬学…特に毒には触れる機会もありましてね。生死に直結することでしたので」

『…』

「正直、こんな形で過去が活かされるとは思いもよりませんでした。複雑な気分です」

 巌勝は、「では」と、深く腰を折った。

 面を上げて彼の表情を見た時、

『ああ…言いたいことは、伝わったようだな』

 何とも言えず、笑みを浮かべる。


 元は。

 貴方の主人が、他の女性に心を奪われたりなどしなければ――。


 巌勝は、執事の部屋の扉を閉めた。

『それが一番の悪だとは、俺にも言えない。だが、『元は』これが、厄介なんだ、幽世と言うヤツは』

 視界の全てが扉で埋まった時、世界は、暗転した。

 鬼灯洋燈(ランプ)が「ジ…」と、小さな音を立てる。

 まるで線香花火がその命を失っていくかのように、光は、消えた。


 まるで線香花火がその命を失っていくかのように、光は、消えた。

 鬼灯洋燈が「ジ…」と、小さな音を立てる。

 フロントのそれが一度揺らめいたように感じられたが、一瞬で世界が暗転したことに、カナエが声を上げた。

「ちょ、うそ! やだ! ちょっと待って! これは聞いてない!」

「大丈夫、姉さん。みんないるから! 落ち着いて」

「手に手を繋ぎましょうか、ちょっとびっくりしましたね」

 最後に呑気な縁壱の声が聞こえて、カナエが二人に抱きついた。

「こっちがびっくりするじゃにない!」と、しのぶの頓狂な声が響いて、縁壱が苦笑う。

「カナエさん、首に抱きつくのは止めて下さい…く、苦しいです」

「ご、ごごごごごめんなさい! だって、ほら、見て!」

 カナエが縁壱の腰脇から手を伸ばし、先を指さす。

 先の見えない奥深い闇に、ぽ…と、光が一つ点った。

「灯りですね…」

「不自然でしょう!」

 縁壱の言葉にカナエが噛みつく。

「行ってみましょうか」

 と途中まで言いかけたところで、また一つ、光が点った。今度は先のものより、若干大きいような気がする。同じと言えば同じような気もするが、

「近付いてる!」

 カナエが悲鳴に近い声で言った。

 彼女の声が、辺りに響き渡る。声が伸びやかに前に伝わっていった様に、縁壱が、

「一本道のようです。行ってみましょう」

 と、歩き出した時、光の点る間隔が、短くなった。

 靴音まで聞こえる。少しずつ大きくなる足音に、

「いやあああ!」

「カナエさん! 靴音! 靴音がしてるでしょう? おかしいでしょう?」

言うが、今度は腰に抱きつかれた。極端な馬鹿力で、後ろに引っ張られる。

 いよいよ光が明るくなって間近になり、その先に浮かんだ人影に

「!」

 縁壱としのぶが気付いて顔を見合わせた時、


『き た な…』


 と、影は身を屈め、低い声でカナエの耳元で囁いた。

「きゃああああああ!」

「兄上…」

「あははは!」

 一瞬後。

 事態を把握したカナエの平手が、巌勝の頬に飛んだ。


「お前は…いつもちょっと色々先走りすぎだろう。想像力が豊かすぎるんだ」

 赤く腫れ上がった頬を抑えて、巌勝が溜息交じりに言った。

「まあこの場合」

 と縁壱が口を挟む。

「兄上も兄上ですけどね。自業自得というものです」

「お前は姉の味方か」

 肩を落として言う。

 巌勝は、三人の先頭に立って通路を行った。

「ちょっと待って」

 今度はしのぶが立ち止まる。

「しのぶ…?」

 未だ怒り半分、不思議半分でカナエが妹を見ると、しのぶは若干青ざめた様子で、

「私たち、扉を潜ってから殆ど動いてないの。巌勝さん」

「そう言えば、そうですね」

 縁壱も頷く。

「すぐ背中に、出入り口があってもいいはずなんですが」

「ひぃ!」

 カナエが縁壱に抱きついた。

 それをしっかり抱き留めながら、兄を見つめると、

「お前達、扉を潜ってきたのか? 階段の下の?」

「ええ」

「あそこには、扉なんてない。真の『現世(うつしよ)』ならな」

「はい?」

「正確には、元はあったし、ここは従業員用の控え室が並ぶ場所だった。が、封鎖するために昭和期、扉を溶接して壁に塗り替え、階段で隠したんだ」

「兄上、ちょっと…意味が分かりません…」

 縁壱が言った。段々声が小さくなった。

「色々おかしいと思ったんだ。事の始めはあれだな、お前がスマホで旅館に予約の電話を入れた時だな」

「…は?」

 弟はますます分からないと言った顔付きになって、

「空き室の確認で保留ボタンを押された時、音楽が鳴ったろう」

「あ? ええ…」

「あれはな、昭和全盛期の有名な曲だ」

「???」

「今思えばあれだ、車のナンバーも1955。世界大戦後、高度成長期に突入した、この国の夜明けの年だな」

「兄上???」

 三人が息を飲む。

 縁壱は、

「全く分かりませんが…では、私たちは、今、どこへ向かっているんです…?」

「今に分かる」

 巌勝は、控えめな声で言った。

 それから何かを思い出したように振り返った兄は、

「流石に、日輪刀は部屋か」

「! あ、はい…」

「まあ、何とかなるだろう」

 言って、更に闇の奥へと足を忍ばせていった。

 廊下の扉の前を通る度、吊り下げられた鬼灯洋燈が火を点す。なんの躊躇(ためら)いもなく、巌勝はその下を通り抜け、どんどん先へ進んだ。

 まるで終わりのない道のようだ。

 鬼灯洋燈だけが、時折、「ジ…」と小さな音を立てる。瓦斯(ガス)が燃えて、存在を主張するのだ。

 その様に、

「あ!」

 と、カナエが声を上げた。

「分かったわ!」

「何、姉さん」

 しのぶが繋いだカナエの手に縋るように、腕を取った。

「トリガー。奏愛さんが私に何かを見せる時、鬼灯の光が鳴ってた」

「確かか」

 少し首を回し、巌勝が言う。

「ええ。一度目は車の中から鬼灯の提灯を見てたの。二度目は、部屋に行った時。鬼灯洋燈が音を立てたのを、みんなで見たわ。覚えてるでしょう?」

「そう言えば、そうだな。鳴った。確かに」

 巌勝が顎に手をやる。

 カナエが立ち止まってしまった。

「どうしました?」

 縁壱が声を掛け、カナエが震える声で言った。

「…映像を見る時、ただ奏愛さんのいた時代に飛んでるだけかと思ってた。でも…違う」

「意味が、よく分かりませんが」

「二度目は何が変わったのか、分からないけど…一度目は、確かに。未来が変わってた。うん、間違いない、変わってた!」

 三人は顔を見合わせる。

 先を促したのはしのぶだ。カナエが答える。

「時間が巻き戻る前、車のトランクから巌勝さん達の荷物を取り出したのはしのぶよ。そして、巌勝さんがそれを運んだ」

「はい? 運んだのは、私ですよ?」

 と、縁壱が首を傾げながら言う。

「そう、だから変わったんだってば。奏愛さんの時代に飛んで、奏愛さんの意識を共有して、この世界にまた戻ってきた時、荷物を出したのは私で、運んだのは縁壱さんになってたの!」

「…本気で言ってるか?」

 巌勝の声に、

「本気!!」

 カナエは、腰を折って叫んだ。

「とすると…お前が何かを見た時、何かが少しずつ変わって行ってると言うことだ。二度目は? 二度目は分からないのか」

「分からない…! 自分が部屋にいたか、いなかったかだけ…」

「それだけ?」

「だって、そんなこと思っても見なかったもの、その時は。今。今気付いたのよ」

「…」

 巌勝が腕を組み考え込む。

「兄上…」

 心配そうに呼ばれ、「そう言えば」と、思うことを告げられた。

「兄上、盛り塩して下さいましたよね?」

「あ? ああ。フロントから塩を取り寄せた」

「では、それは変わらぬ出来事…でも、取り寄せるきっかけはあったわけですよね?」

「そうだな」

 ちらりと、カナエの方を見る。

 カナエは覚悟が決まっているようで、力強く首を縦に振った。

「清司郎…だろうな。登ってきてたんだ、外の壁を。這いつくばって」

「!」

「その時は、間違いなく追い返した。地の底に落ちる様を見たからな。だが、念のためと思って、フロントから塩を取り寄せて盛っておいたんだ」

 縁壱が、生唾を奥へ押しやった。

「では、多分、それです」

「何?」

「私たちが温泉から帰って部屋に戻った時、窓際の盛り塩が溶けていました」

「何だと…?」

「あの時は…」

 と、縁壱が険しい表情になって考え込む。

「あそこから入ろうとして、禍い者…もう、清司郎さんですかね。彼が、塩に触れたのかと思っていました」

「…」

「ですが、そうじゃない。一介の鬼如きに兄上の禍詞(いみことば)を破ることなど…いえ、触れることすらできるわけがない。本来なら、盛り塩はそのままの形を保っていたはず」

「だけど…奏愛さんが接触したから…」

「そう、貴女が奏愛さんの思い出を部屋で見た時、時空が交差した。過去から遡り入り込んだのでしょう。そして、通り道だった窓際の盛り塩は、清司郎さんの霊気に触れて溶けた。そう考えるのが、道理です」

 縁壱は面を上げた。

「じっと私たちの様子を、見ていたんですよ。かなり傍近くで」

「やだ…」

「少しずつ、近付いている訳か」

 巌勝が言う。が、縁壱は頭を振った。

「ただ近付いているのではありません。少しずつ、ずらしているんです」

「何を?」

 しのぶが息を殺して声を絞り出す。

「未来を、です」

 縁壱は、カナエを見た。

 カナエは理解したようで、

「もしかして…別の結末を、招くために」

「ええ」

 ふ、と、傍の鬼灯洋燈が「ジ…」と音を立てた。

「!」

 矢庭に、皆、背中合わせに四方を向く。警戒して辺りに気配を配るが、


『そ の と おり、だ…!』


「きゃああああ!」

 壁から、ぬ…と、瞳孔の開ききった一重まぶたの目が浮き出、カナエを捉えた。息をするのも忘れて目を見張った次の瞬間、顔や肩、腕が出て来る。瞬く間に、彼女を掴んで壁に引きずり込んだ。

「しまった!」

 巌勝が叫ぶ。

「あいつだけを連れて行ったか…!」

「まさかとは思いますけど! 兄上は接触を待ってたんですか!?」

「ああ!」

「もう…! 無茶ばっかり!」

「いや! いやあ…! 離して、清司郎さん…!」

 叫んだのは、カナエだったのか。

 それとも。奏愛だったのか。

「死にたくない! お願い、考え直して、清司郎さん!」

 奏愛だ。

 壁の向こうから、声が聞こえた。だが、身体はカナエのものなのだ。

「姉さん! 姉さん…!」

 しのぶが泣きながら壁を叩く。

 何度も叩いて叫び腕を振るった時、左手の組紐が揺れて右手に当たった。

「姉さん…!」

 祈るように何度も叫んだそれが、組紐を解かした。

 壁がバターのように、しのぶの左拳を中心に蕩けて消えていく。

「しのぶさん!」

 縁壱が彼女に手を伸ばし、

「縁壱!」

 巌勝がそんな縁壱に手を伸ばし、順に掴む。

 視界が一気に開ける。月夜の庭に放り出された。それぞれ体重が前にかかっていた三人は、しのぶを一番下に雪崩れるように、倒れ込んだ。

 鼻に、青臭い匂いが達する。

 見れば、刈り揃えられた、緑の芝生が一面に敷き詰められた庭だった。夜露が月光を弾き、小さな光をあちこちに散らしている。

「姉さん…!」

 叫んだしのぶにはっとして、双子は慌てて身を起こし、しのぶから離れた。

「しのぶさん、すみません、大丈夫ですか」

「はい、はい…でも! 組紐が」

「それは今はいいですから!」

 縁壱が手を伸ばし、その手に手を重ねてしのぶが起き上がった時、

「清司郎さん! お願い…!」

 遠くから、声が聞こえた。

 離れたところに、白樺の木立がある。

 声は木々に反射して正確な位置を示してはいない。だが、木立の向こうから聞こえてくるのは間違いがなかった。

「急ごう!」

 巌勝が叫び、三人は、全速力で庭を駆け抜け白樺の木立に分け入った。

・陸・~椿の章~: テキスト
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