第四話:鬼灯
・伍・
~椿の章~
幅2メートルほどしかない狭い通路は、レンガ造りだった。左右交互に部屋の出入りの扉があり、番号が振ってある。ここが、鬼灯旅館の前衛だったのだろうと、巌勝は、すぐに理解した。
部屋の扉の脇には、ガス燈が吊ってあった。
そのどれもが、鬼灯の形をしている。
ここへ来る前の石畳の車道でも、街灯は鬼灯の形をしていた。きっと、この辺りは鬼灯産業が盛んだったのだろう。今でこそ食用としても幅広く知られ、売られてはいるが、平安から江戸にかけては、国産の鬼灯は生薬(しょうやく)だった。
それが子供の遊び道具になったり、市が建って寺社仏閣が「功徳日(くどくび)」と称してもうけ始めたのは、江戸も中期を過ぎてからだ。
今では懐かしい鬼灯市(ほおずきいち)も、この旅館が建った頃は、まだ、毎月盛んだったに違いない。
巌勝が、部屋を通り過ぎる度、鬼灯洋燈(ランプ)が一つ。また一つ。と頭上を照らした。
もう、深夜だ。
どうせなら、一歩先を照らしてくれればいいのにと都合のいいことを思って、
『まだ余裕があるな…』
苦い笑みがこぼれた。
前を行くのは、あの執事だ。真っ直ぐに伸びた廊下は、暗闇に閉ざされ先が見えない。このまま戻れなかったらどうしよう、とも時折頭を過ぎるが、悪意は全く、感じなかった。
『外から見た建物の出っ張り分にしては、随分奥行きがあるな』
全くもって冷静な自分に感心する。
『これは…時代を超えたか。もしかしたら、俺が現世(げんせ)で見たのは改築時に奥を端折(はしょ)られた前の部分だけだったのかも知れんな』
そこまで考えて、「ん?」と、首を傾げる。
『壁は赤煉瓦(あかれんが)だ。時代は江戸じゃない。煉瓦の歴史は古いが、建築用の赤煉瓦は少なくとも、この国では…明治の文明開化を迎えてからだ』
背筋が少し、凍った。
『改築は明治だったはずだ。じゃ、今は…いや、俺が歩いているここは、いつの時代だ』
しまった、と思った。
下手をすると、時の狭間に落ちた可能性がある。
『とは言え、あの執事は別に俺をどうにかしようという気はないんだよな…『依頼主』だしな』
ふと、その執事が止まった。
一つの扉を少し過ぎたところだ。
まるでここだとでも言わんばかりに行く手を阻んでいる。
巌勝は、執事と視線を交わして、扉の正面に立った。
手を伸ばし、ノブを掴む。
掌に伝わる金属の感触は、とても冷たい。一瞬、凍るかと思った。
「…」
覚悟を決めて、ノブを回す。カチャリ。と音がした脳裏に、
『ドアノブ…? 明治でもない…! やはり、どこか違う時代に飛んでる!』
鬼であった頃。
人々はまだ、引き戸が主流だった。鍵にしたって、南京(なんきん)などに見る錠前が殆どだった。ノブが生まれたのは確か、大正に入ってからだ。
『新し物好きのあの方が、官庁で丸いノブを見て、話してくれたことが…』
変なところで妙なことを思い出した、と、動きが一瞬止まった。人として生きた時間より、鬼として生きた時間の方が長かったのだ。強烈に残ったのは『継国縁壱』でも、全体の記憶は鬼の時間の方が長い。
『何を考えてる、俺は』
今更だろう。
と、自嘲気味な笑みがこぼれた。
長い息を吐いて、もう一度集中する。
扉をゆっくりと開いた。冷気が中からすぅっと廊下に流れてくる。足元から少しずつ冷やされ、開けた分、漆黒の闇が顔を覗かせる。
蝶番(ちょうつがい)の錆びた音が、辺りに広がっていった。
全く灯りのない暗闇が、室内に広がっている。扉を開けていくに従い、まるで底なしの沼に落ちたかのような錯覚に陥った。
危機感がなかったわけじゃない。
だが、徐々に目が慣れていくと、部屋の中も、深い夜に落ちているだけなのを知った。
扉を開け放つ。
窓の外から、月明りが降り注いでいた。狭い部屋だ。ベッドと箪笥と。それから机。書棚。家具はたったそれだけだった。整理整頓されていた。
執事を見る。
彼は微かに笑って、先に中に入った。
後に続く。
扉は…閉まらなかった。やはり、自分をどうにかしたいわけではないのだと、確信をした。
書棚辺りで佇んだ執事に、一度頷いて見せる。
並んだ書籍は興味深く、古くは若かりし頃、目を通した軍略書まであった。難しい本が並んでいるところを見ると、この部屋は、きっと、彼の部屋なのだろうと思った。
『しかし。この執事は明治から来たと行った。でも俺が通ってきた道は、明治期じゃない。少なくとも、大正、昭和…』
目線を横に流していたそれが、あるところで止まる。
分厚い紙束が、紐を通して纏めてあるだけの物が目を引いた。本に混ざってこれだけが異質で、巌勝は、手を伸ばして取った。
書かれた時代近くに飛んでいるのは分かる。紙は、殆ど傷んでいなかった。目にした最初の文字は、
『明治○年 八月十日』
盆前だ。
何気なく、巌勝は、執事の脇を通り机に添えられた椅子に腰を掛けた。これもまた、腐ってはいない。しっかりとした造りで、座った己を支えてくれた。
頁(ページ)を捲(めく)る。
『明治○年 八月十一日
お嬢様が必死の形相で訴えてきた。
清司郎様に殺されるというのだ。原因は、やはりあのことなのだろう。だが、それをお嬢様は知らない。できれば一生、知らずに生きて欲しいのだ。私とて、まだ、身分を明かしてはいないのに。
ただ、主人が願ったことだけは、守らなければならない。
小さい頃から見守ってきたお嬢様だ。私だって、守りたい。清司郎様には悪いが、主人はもう、二人のことは眼中にない。
誰が悪いのかは瞭然だが、あくまで私は黒岩家の執事なのだ。帝都でただ一人、任務に就いている主人の願いだけは、守ってあげたい』
「お嬢様…? 主人、黒岩家…」
巌勝は頭に叩き込むように、呟きながら読み進めた。書いたのは隣にいる執事だろうと推察するが、後は、誰が誰だか判然としない。
『明治○年 八月十三日
奥様がお嬢様を連れて、今年も鬼灯市に行くことになった。
今年の鬼灯市も、十八日だ。
神前式は十九日であるから、独身最後のひとときを、共に過ごして祝ってあげたいと思ったのだろう。
全く、どういう了見なのか理解しかねる。
最初は、復讐のために、この旅館に入り込んだのだと思っていた。
だが別に、旦那様の求婚に答えるわけでもない。
理由が理由だったから、清司郎様との結婚も反対なさっていた。自分のことも、一目見て分かったはずだ。黒岩家の執事だと。
しかし、そのことを旦那様に告げ口した風もない。
なんだ。
何が望みだ。
それとも…死んでいたからか? お嬢様の母君が。既に。もしかして、知っているのか? お嬢様の母君が、自殺をしたことを。
全くもって理解できない。奥様は、一体何を考えているのか…それとも本当に、お嬢様を大切に思っているだけなのか。
分からない……。
もし、清司郎様にお嬢様が殺されるようなことがあったら。奥様は、どちらを取る気なのだろう?
まさかとは思うが。
…お嬢様か?
実の息子を差し置いて、愛人の娘を取るか?
そんなこと、普通はしない。…普通は。
気味が悪い…』
巌勝はもう一度、この日の記述を読み返した。
「お嬢様は、清司郎と結婚をする…。だが、お嬢様は愛人との娘…だから、反対をした… つまり?」
そうか、と、数行もう一度目を通して、
「父親が同じで、母親が違うのか…! んん? 胡蝶が言ってたな、鬼灯市に一緒に行ってた、って。あの時は何を言ってるのか分からなかったが…お嬢様は奏愛(かなえ)さんか!」
ちょっと待てよ、と、もう一度読み返す。
隣の執事は。と、視線を送った。
「貴方は本来黒岩家当主の執事。だから、当主の娘である奏愛さんの成長を見守るために、この旅館に潜り込んだ…?」
こくりと、相手が頷いた。
「そうか…!」
人間関係が分かってきた、と、巌勝はページを更に捲っていった。
『明治○年 八月十九日
お嬢様が無事で、本当に良かった…!』
その一文を目に留めた時、巌勝は、カナエが見たという夢を思い出した。
そうして、繋がる。
奏愛はカナエに、何かを伝えに来たのだ。
そんな奏愛を、死してもなお見守り続けたこの執事は、自分のところに来たのだろう。ここはまだ、継国の管轄だ。
『執事は、俺が、『椿(し)の宮』の『狩人(もりびと)』だと知っていた。もしや…』
「貴方は、手鞠唄の子供を知っていますか…?」
高鳴る鼓動を抑えて、低く尋ねた。
果たして、彼は、
『ええ』
頷いた。
「導かれて、俺のところに…?」
もう一度、頷く。
『貴方はご存じないのかも知れませんね、その子供は、『継国』の『死渡』ですよ』
「!」
『弟の縁壱さんが『躑躅(き)の宮』の『防人』。継国の双子が『門番』で、手鞠唄の子供が『案内人』なのです』
「でも、縁壱は幽体が見えなくて…前世の記憶はあるが…」
『それはおかしいですね、弟さんも本来視えるはずですよ』
「じゃ、見えないのには何か理由が…?」
『そうだと思います。視えることで、彼自身、何か困ることでもあるのでは? 或いは何か辛いことでもあって、視ることを拒んでいるのかも知れません』
「! 辛いこと…」
遙か時代(とき)の向こう。
弟には弟の、思うところがあったはずだ。
それを互いに話すことは、まだ、ないが。
『だからこそ、俺は転生した…いや、させてくれたんだ。彼女は。きっと縁壱の辛かった思い出も、彼女は察して…気に病んでいたに違いない』
『それよりも』
執事が微笑んだ。
「あ」
すまない、と謝って、巌勝は手元の冊子に意識を戻す。
読みかけた日付の部分を、咀嚼(そしゃく)するように、ゆっくりと目で追った。
『明治○年 八月十九日
お嬢様が無事で、本当に良かった…!
清司郎様には悪いが、元黒岩の領地もこの旅館も、お嬢様抜きには回らない。今はまだ奥様が仕切ってらっしゃるが、その後ここを盛り立てるのは、お嬢様なのだ。
このまま、お嬢様には、真実を知らぬまま旅館を継いで欲しい。二度目の人生は、別の出会いがあって、きっと、素晴らしいものになる。そう、信じたい。ただただ、お嬢様には、幸せになって欲しいのだ。それが、主人の願いでもある。
「真実…!」
巌勝は、答えを知った。
続きを目で追う。
そうか…、分かった気がする。
奥様は、お嬢様を取ったんじゃない。清司郎様を、ただ、棄てたんだ。
自分がここで、平和に、かつ、常に君臨し支配し、豊かな日々を過ごすためだけに。
主人と別れた後は、それは大変な日々を送ってきたに違いない。離縁されたのは、まだ、清司郎様が三歳か四歳だった頃の話だ。
その時には、既に…お嬢様が。お生まれに…。
どれだけお嬢様が憎かったろう。
その母君をどれだけ恨んだか、察するに余りある。
だが、奥様はここで生きることを選んだのだ。
そして――――
お嬢様の腹の子を、殺した。
清司郎様には結婚を反対し追い詰めて、お嬢様には近付いて愛おしみ、最後の最後で腹の子を堕胎させ絶望の淵に追いやった。そうして抱き締めて、自分しかいないと思わせたのだ。
なんて女(ヤツ)だ…!
ただ復讐するよりも、この旅館と黒岩の土地全てを乗っ取ったのだ、奥様は。
それはただ、ひとえに、この土地が、鬼灯の実る土地だったが故に…』
巌勝は、冊子を閉じた。
カナエ達に確認をしなければならないことは多々あったが、恐らく自分が導いた答えに、間違いはないだろうと思われた。
ただ一つ、明らかになっていないことがある。
「…」
巌勝は、険しい表情で執事を見た。思えば、部屋を覗き込もうとしたのも、カーナビゲーションを操作したのも、外から視線を送ってきたのも、或いは、継国山でカナエを見つめたのも。
清司郎の無念が、形となったからではないのか。
「一つ、聞きたいことがあります」
『…はい』
「清司郎さんの遺体。もしかして、まだ、井戸ですか」
執事の瞳が揺らいだ。
両手の拳を握りしめ、きつく瞼を伏せる。
やがて絞り出した声は、ただ一言。
肯定した。