第四話:鬼灯
・肆・
~躑躅の章~
美食を堪能しながらの会話は思いの外弾んだ。
サロンの雑踏は相変わらずだが、時計を見れば既に二十時(戌の刻)を回っている。ディナーを終えて退室する者達はいても、入ってくる者はもういなかった。
「だいぶゆっくりしましたね」
縁壱は、ほぅっと一息つきながら言った。
この先の長い夜を想像すると、楽しいひとときには感謝の念が耐えなかった。
巌勝が言う。
「折角だ、二人は先に温泉に浸かってくるといい」
縁壱も頷く。
「それもそうですね。遅い時間になるより、人目のある今の時間帯の方がいいですよ」
「いいの? 本当に?」
拍子抜け、と言うように、しのぶが少し目を丸くして言った。
兄が久々に笑顔を見せて、
「ああ。ゆっくりしてこい。縁壱、お前もな」
「え? 兄上は?」
「俺は少し調べたいことがある。部屋までは一緒に行く」
絶句した。思わず不安そうな眼差しになって、巌勝の双眸を真っ直ぐ見つめる。
兄は目を逸らすと、姉妹を見た。
「何度も言うが」
笑顔が消えた。
「効力は半々になってるかも知れんが…それでも、その手首の紐は、舞姫の加護付きだ。その上に、縁壱の祓詞(はらえことば)と祈りが乗ってる」
気を引き締めた彼の口調に、姉妹が等しく手首に視線を落とした。
「何があっても、大抵はそれが守ってくれる。いいな? よからぬ事が起きたなら、その紐を撫でたり噛んだり胸に当てろ。それを弄れば、現世(うつしよ)に必ず導いてくれる」
「…外したら、ダメなのよね?」
カナエが顔を上げた。
「ああ。外してもし相手に捕まりでもしたら、憂世(うきよ)に流され彷徨(さまよ)う羽目になる。縁壱のことを思うなら、絶対に外すな」
言った意味を、二人は何となく理解したようだった。神妙な面持ちで、こちらに視線を送る。
「大丈夫ですよ」
縁壱は、穏やかな表情で一つ、頷いて見せた。
その頭を、巌勝にパン、と叩かれる。
「兄上…」
何とも言えず呟きながら、兄の手を取った。
こんな風に心配してくれることも、ちゃんと怒ってくれることも、とても嬉しい。
『不謹慎ですかね』
心の内で小さく笑みを零す。
なんでこんな風にあの頃は話せなかったのかと、不意に思った。
「さ、部屋へ戻るか」
巌勝が言った。席を立つ。
「うん!」
姉妹も笑顔で後に続いた。
状況が状況だと思うのに、肝の据わった姉妹に、心底感心した。縁壱も立ち上がり、椅子を戻すと三人の後に続く。
「兄上、」
「縁壱」
食い気味で、巌勝が名を重ねてくる。
「お前も旅の疲れを癒やしてこい」
見送りを受けながらサロンを後にすると、まだあちこち、沢山の人出で賑わう旅館を、一階から三階へと登って行った。
「嫌です、兄上。一緒に行きましょう。温泉。お背中流します」
「はは。お前は何歳だ」
肩を揺らした兄に、縁壱は珍しく怒りに似た表情を見せて、
「そう言う問題じゃないでしょう、心配なんです」
「すぐに戻る。ちょっとこの旅館の構造を確認してくるだけだ」
「でも!」
「縁壱。我が儘を言うな」
廊下を先に歩いていた姉妹が振り返った。
ばつが悪くなったのか、巌勝がその場に立ち止まり壁により掛かる。腕を組んで口を噤んだ。
仕方なく縁壱も立ち止まると、姉妹は察したのか、部屋に先に戻った。扉の閉まる音が耳に届いたところで、
「見るのは主に一階だ、確認したら俺もすぐに合流するから」
「本当に? 約束できます?」
「ああ。約束する。一応、スマホは持って行く」
携帯を携帯すると言うことが、何を意味しているのか流石に分かる。緊張した面持ちになって、
「やっぱり、私も一緒に行きます」
言うと、巌勝の額に青筋が浮かんだ。
「あのな。いい加減にしろ。二人一緒に行動して、そのまま何かあったらどうする。胡蝶姉妹を守れなくなるだろう」
「! やっぱり!」
「あ」
兄は頭を掻きながら、
「とにかく、まだ現世(げんせ)がはっきりしてるんだ、人が寝静まってからでは遅い。分かるだろう?」
「それは、そうですが」
「なら、報告を待ってくれ。すぐに、戻る」
「…分かりました。ちゃんと、戻ってきて下さいね」
ようやく兄が歩き出したのに続き、念を押す。
部屋のロックを外すと、準備の終えた姉妹が扉の向こうから転がるように出てきた。きっと、出るに出られず聞き耳を立てていたに違いない。
「お前ら」と呟いた兄の脇で、縁壱は、
「少しお待ち頂けますか、着替えてきます。私も一緒に行きますから」
「はあい」
姉妹が慌てて室内に戻る。ソファに腰を落ち着けると、縁壱の準備する間を見つめて待った。
やがて、縁壱は、一抹の不安を感じながらも、「お待たせしました」声を掛け、姉妹の後に続く。
扉まで送ってくれた兄の気配を背中に感じつつ、部屋を出る時、見つめた。交わした視線からは、兄には不安も恐怖も、感じなかった。
巌勝が片手を振ったのに、振り返す。
ゆっくりと扉を閉めると、目の前に立ちはだかった壁に絶望が過ぎった。
『兄上…』
「縁壱さん? 大丈夫?」
しのぶが心配そうに顔を向けてくる。巧く、笑えなかった。
『私が、しっかりしなければ』
「大丈夫です。行きましょうか」
「…うん」
姉妹の後に付いていく。
その背中を守り、何度も兄の姿を思い描いた。胸の内で、祈りを繰り返す。
一階の最奥、湯殿の分かれ道で、三人は、脇の休憩室で落ち合うことを約束した。
「いいですか? 何かあったらすぐ呼ぶんですよ」
言うが、姉妹がころころと笑う。
「女湯に飛び込んでくれるの?」
「命には代えられませんからね」
「恐怖を煽ってるから、縁壱さん」
真顔に真顔で返され、縁壱は自然に笑った。
「すみません。それだけ、貴女方二人は大切な存在と言うことですよ」
「縁壱さん…」
「ま、のんびり。していらっしゃい。つるつる美肌…、ええと?」
「「もっちもち! ふふ!」」
「もっちもち!」
縁壱は二人の頭をぽんと叩くと、優しい笑みを浮かべた。
姉妹が先に女湯へ入っていくのを見届けて、休憩室へ向かう。
二人はともかく、己が、のんびり湯に浸かっているなんて事は、できなかった。
『二人が入っている間…兄上を探しに行くのは』
思うが、それでは姉妹に何かあった時に対処ができない。優先すべきは、やはり、姉妹なのだ。
通路に面した、人通りを確認できる場所に腰を落ち着けた。何気なく、時計を見上げる。もう、二十一時(亥の刻)になろうかとしていた。
部屋はきっと満室なのだろう。ひっきりなしに、温泉を楽しみにする明るい声が通り過ぎては、満喫した者達とすれ違っていく。
途切れぬ人の波を瞳に映し、どれだけの時が経ったか。随分、待ったように感じられた。だが、兄が姿を現す気配は一向にない。
もう一度、時計を見上げた。
一時間が、過ぎている。
「兄上…」
『せめて、部屋へ一旦戻った方が。ですが…二人がそろそろ出てくるかも』
やがて、時計の長針が真下へ向いた。流石に、居ても立ってもいられなくなった。
荷物からスマートフォンを取り出すと、履歴から兄の電話に掛ける。
呼び出し音が一度鳴ったかと思われたが、すぐに、
『お掛けになった電話番号は、現在使われておりません』
「!」
スマートフォンが手から滑り落ちた。
けたたましい音を立てて床で跳ね、反動で通話が切れる。周りに謝りながら、慌ててしゃがみ込んだ。ぺたんと、尻が床に付く。
震える手で、携帯を拾い上げた。
もう一度、履歴から、と受話器のボタンを押す。
が、ない。
残っている履歴の文字や数字が、ばらばらと解けて消えていった。止める手立てなど無論なく、
「嫌だ…! 兄上…!」
『履歴がないなら! …番号! 番号から…!』
頭の中のメモ帳までは、消されてはいない。
素早くキーパッドを押して、耳に当てる。
『お掛けになった電話番号は、現在使われておりません』
同じ文句に血の気が引く。
『って、言ってるだろ?』
「!!」
低く、震える声が耳を通った。顔の近くに顔がある。とても見る気にはなれないが、鋭い視線と口角の上がった様を気配で察した。
瞬時に鳥肌が立って、また、取り落とす。腿に当たって、床に滑り落ちた。呼吸が荒くなって、肩で息をした。すぐには手を伸ばせない。
胸の辺りで手に手を包んだ。身が震えた。
『どうしよう…どうしたら。兄上…!』
すぐには考えが纏まらなかった。
『探しに。探しに行かないと…いえ、でも、兄上は、姉妹を守れと私を。残して…』
「あ、あ…」
混乱した。両手で頭を抱える。
手を振り別れた様が、脳裏に浮かんだ。
『兄上に。兄上にもしもの事があったら! 私は…!』
あの頃の。
あの日のことが、鮮明に蘇る。
兄が、鬼となった、日――――。
「嫌だ…! 嫌だ、兄上…!」
何もかもをその場において、立ち上がった時だった。
「縁壱さん?」
湯上がりの二人が、芳しい香りを放ち、現れる。
全く意識していなかった嗅覚を刺激されて、我に返った。真っ青になったまま、二人を見る。力が抜けて、がくんと膝が折れた。
カナエに至っては、髪を纏めて結い上げた様が、あの肖像画に瓜二つだった。足の先から脳天まで、電撃が走った気がした。
美しい、と思った自分と、それに違和感を感じる自分。
『あの時…!』
耳に当てたスマートフォンから聞こえたと思えたあの声、が、身体に残っているのだと理解した。きっとそれまでも、あの『声の主』はどこからか、自分たちを見ていたのだ。己の弱点が兄だと、理解したに違いない。
『不覚…!』
歯軋りする。
一瞬でも、我が身を乗っ取られた自分に嫌気が差した。
呼吸を整え、神楽を舞うように紡ぐ。日輪刀がなくとも、浄化の炎は心に描ける。退魔でなくとも、追い出すことくらいはできるはずだった。自身を浄化すれば良いのだ。
途端、腹の底から断末魔の叫びが轟いた。
全身の細胞が震え、毛が逆立つようだ。紅蓮の炎が座り込んだ我が身を包み、姉妹が目を見張るのを感じた。
瞬きする間だ。二人に感覚を奪われた隙に、気配が消えた。
『逃がした…!』
浄蓮の炎は、禍(まが)い者を追い出しはした。元より束縛する力はない。焼き尽くせなかったことが、幸いだったか災いだったか――恐らく後者なのだろうとは思ったが――、分かりかねた。
「縁壱さん、大丈夫?」
しのぶが気を遣ってくれる。しゃがんで、膝を抱えながら覗き込んできた。
「顔が真っ青。ね、今の…何があったの?」
縁壱は荷物を纏め、立ち上がった。
今あったことを話すだけでは、通じない。二人にとっては衝撃が強すぎるであろうが、
「兄上が。…姿を消しました」
事実を告げた。
「「!?」」
驚愕で言葉の出ない二人を、交互に見つめる。静かに告げた。
「宣戦布告されました。きっと…兄上の元に訪れた『依頼主』とは別の誰かが、他にもこの旅館にいるんです。それも、禍い者が」
カナエが恐る恐る、声を掛ける。
「それって、奏愛(かなえ)さんのこと?」
「奏愛さん…あの、肖像画の彼女ですね?」
「うん…実は」
と、カナエが、ここに来るまでの不思議な出来事を話してくれる。成り行きで、死にかけた夢の詳細をも告げられると、
「その、彼だ…!」
縁壱の顔が合点のいったものになった。
「婚約者よ。清司郎(せいしろう)さん」
「恐らく、禍い者が清司郎さん。兄上の元に現れたのが、執事の柚木(ゆのき)さん。そして、カナエさんを乗っ取る彼女が…奏愛さん」
「縁壱さん、」
しのぶが言う。
「依頼って、何だったの? 巌勝さんは、そのヒントを何か旅館に感じて、きっと調べ物をしに行ったのよね?」
「そうですね…」
と、縁壱は一週間前の古書堂でのことを思い出す。
「依頼は柚木さんから。『真実を、ある方に明らかにして欲しい』と。私はそれを、ここへ来て、清司郎さんかと思っていたのですが…」
「奏愛さんかも? 知れないって事?」
カナエが言う。
縁壱は首を横に振った。
「まだ何とも言えません。もしかしたら、二人に対してかも知れないし、もっと何か…別の人であるのかも知れない。兄上が何を調べに行ったのか…」
「とにかく、荷物を置きに行こう? 巌勝さんの事だから、部屋に何か痕跡を残しているかも知れないし。考えが纏まるかも」
「そうですね、そうしましょう」
三人は駆けて、三階へ戻った。