第四話:鬼灯
・肆・
~椿の章~
「ね? その婚約者って、『清司郎(せいしろう)』って名前だった?」
耳に、カナエの声が届く。
カナエは驚いて、辺りを見渡した。
『今! 今の声…私じゃない、ううん、私だけど、私じゃない』
しのぶは隣にいる。一緒になって、話を聞いていた。
巌勝と縁壱は、先に部屋に入っていた。先程は気付かなかった。若旦那との話に夢中で、二人の様子にまで気が回らなかったのだ。もう、荷物を降ろしている。
『どういうこと? 時間? 時間が巻き戻された?』
継国兄弟がソファに腰掛けようとするところで、
「ほう!」
と、若旦那の感心したような声が響いた。
「よく調べてらっしゃる! ええ、ええ。お城は見に行きました?」
話しかけられると、答えずにはいられない。
反射的に若旦那の方を向いて、
「え? あ、『黒岩城(くろいわじょう)』? 『鬼灯街道』の先にある…」
「そうですそうです」
伝えると、答えたのは、もう、彼ではなかった。
眼前にいるのは初老の男だ。見覚えがある。深い皺の刻まれた、優しい面立ち。燕尾服(えんびふく)の執事。ぶ厚い硝子の眼鏡、腰の懐中時計。
辺りの景色も一変している。
通された部屋と間取りは同じようだが、アンティーク家具が並ぶ。繊細な意匠がとても好みで、目を見張ってしまった。廊下にいたはずの我が身が室内にいる。
『な、なんで…!?』
鮮明に、まるで自身が体験したことのように、勝手に舞台が始まった。
興味を抱いて若旦那に問いかけたはずなのに、今はもう、沈む心持ちに溢れそうになる涙を堪えるのに一杯だった。感情を支配されていると分かったが、起きたことと精神状態の乖離(かいり)が激しすぎて混乱する。整理が追いつかない。ただただ、深い悲しみが腹の底から沸き上がってくる。心の奥まで支配されて、目頭が熱くなった。
「お嬢様」
俄に、執事の声色が気遣わしげになった。心なしか、顔色が青ざめているように感じる。
「柚木(ゆのき)、私…」
『柚木…!』
覚えのある名前だ。何処だったか…思いを巡らすと、自身の中で、もう一人の裸体の自分が、膝を抱えて漂う姿が見えた。時折空気が泡のように浮き出る。まるで記憶の海に沈んでいるようだ。
兎にも角にも、記憶を弄(まさぐ)った。
『夢…夢だわ。あの、井戸から助けられた時!』
進む時間と会話の狭間で、眠りそうになるもう一人の自分(意識)を、何とか保とうと努力する。
だが、悲しみがまるで津波のように押し寄せて、己を飲み込んで行くようだ。抗いきれない感情の渦に、とうとう瞳からは涙が溢れた。
どうにもならない顛末だった。起こったことには介入できない辛さを知った。
『どうすればいいの…』
しのぶの姉である現世のカナエは、肉体に閉じ込められているように感じる。終わるまで待つしかないのかと、一瞬、諦めかけた。
だが、あの夢では、生き延びた。
生きるか死ぬかの瀬戸際だったはずだ。
あれは…自分の意志だったのか、それとも。起こったことを再現していただけなのか。生々しくて、自身が殺したように感じられていた。人を蹴りつける感触と、強烈に願った「生きたい」という意志が、思い出すと、心臓を大きく波打たせる。
『冷静に…冷静になるのよ、私!』
溢れる涙と押し寄せる感情と、思い出したリアルな恐怖で、呼吸が困難になった。胸に手を当て、必死で息を整える。
理性は保っているのだ。分解されそうになる精神状態を、今までのことを振り返ることでなんとか一つに保った。感情に流されてはダメだ。戻れなくなる。直感で分かった。
『肖像画…!』
そうだ、と、思った。
若旦那の話では、『彼女』はあの時生き延びて、この旅館を盛り立てたはずだ。
『そっか…! そうだわ、これ、きっと…奏愛(かなえ)さんの記憶なんだわ!』
ようやく理解が追いついた気がした。『自分』が一つに纏まっていくようで、気持ちが落ち着く。
何がどうなってこんな状況に陥るのかまでは分からない。だが、現世に、『彼女』がいるのかも知れないと思った。魂が救われず、彷徨い自分を媒体として、何事かを伝えたいのかも知れない、そう、思った。
『きっと何か、トリガーがある。それが分かればもしかしたら』
噎(むせ)ぶ奏愛に、初老の執事、柚木は、少し離れた場所からサロンチェアを運んで来た。
『受け止めてあげなきゃ。きっと何か…この世で後悔していることがあるんだわ』
座面がベルベットで覆われた、ふっくらとした座り心地の豪奢な椅子だった。手を添えられ、誘われるままに腰を掛ける。
背もたれに手を掛けて、彼はもう片手で目元を押さえた。喉奥から声を絞り出した。
「本当に、お嬢様だけでもご無事で良かった…」
彼の声色に、下腹部が痛み出すようだった。利き手で摩りながら死んだ我が子を思う奏愛の、怒りが増幅していくのが分かる。
『ただ、助けたかっただけなのに』
俯いて、涙を拭った。
井戸の縁で痛めた腹は、痣(あざ)が残っていた。無理心中をしようとしたあの日から、まだ、数日しか経っていない。
柚木が言った。
「お腹の赤ちゃんは残念でしたが、そのためにも、黒岩城がよろしいかと思いますよ」
眼前に回り込み、片膝を付いて、両手を取ってくれる。その温もりに、また、涙が溢れてきた。
「あそこは一族代々使えてきた殿様のおわした城です。今はもう、黒岩様も帝都へ越され、新政府の軍服を纏うようになってしまいましたが…、管理は我々が任されていますから」
「そうね」
カナエは面を上げて、柚木を見つめた。
「きっとご先祖様も、許して下さるわよね」
「ええ、ええ。きっと」
柚木の顔に、微かな笑みが戻った。
カナエも小さく、笑みを零してみせる。
「地蔵様は、十四体お納めになりますか?」
「ん、ゆっくりでいいわ」
「清司郎様の四十九日に合わせるつもりで?」
「逆。清司郎さんをちゃんと送ってから納めたいの。だから、急かさなくていいわ。二ヶ月も経ってからで十分」
「畏(かしこ)まりました。では、手配して参ります」
「うん。お願いね」
「は」
柚木は立ち上がると、片手を鳩尾(みぞおち)辺りに掲げて腰を折った。優雅な物腰で踵を返すと、部屋を出る。燕尾服の裾が翻る様を何気なく目に収めながら、カナエは、扉の閉まる音を耳にした。
彼が部屋を出ると、静寂が辺りを埋める。
立ち上がり、そっと窓辺に寄った。縁に片手を突いて、瞼を伏せる。目を閉じてもなお、庭の真白い噴水や、裏庭の白樺の木立や井戸が、そっくりそのまま見えるようだった。
「ごめんね、柚木。嘘吐いて」
瞼を押し上げる。
絶え間なく水が循環する白い噴水を、何気なく目にした。淀んだ井戸の水とは大違いだ。あの瞬間を思い出すと、耐え難い怒りに苛まれる。
「十四体目は清司郎さんじゃないわ…!」
吐き捨てるように言った。痛切な叫びだった。
「私の赤子よ! 許さない…どうして! どうして信じてくれなかったの、清司郎さん…!」
両手が窓の縁にかかり、膝が頽れた。壁に額を当てて突っ伏すと、涙が溢れた。
「信じてたのに。私は貴方を、ずっと…変わらず愛してたのよ?」
共に死ぬことはできなかったけれど。
『どちらかを選べと言われたら』
「姉さん」
ふと、柔らかく、耳に心地よい声が響いてくる。
心配そうな声色に、はっとして面を上げた。泣き顔を向けると、声の主は、中腰になって抱き締めようと手を伸ばしてくれた。
「しのぶ…!」
「姉さん…! 大丈夫!?」
彼女の懐の暖かさに、心底ありがたいと思う。肩に顔を埋めて激しく泣いた。
「急に崩れて泣くから! もう、びっくりして。怖かった? 大丈夫、大丈夫よ、巌勝さんが追い払ってくれたし!」
『え? え…え?』
咄嗟には言っている意味が分からなくて、カナエは頭を上げた。
涙を拭いながら見つめた視線に、「どういうこと?」と疑問が含まれる。
その間に、心配したのだろう、巌勝と縁壱が、傍に寄ってくれた。
しのぶが答える前に、縁壱が膝を付き、
「カナエさん、大丈夫ですか? お夕飯、部屋に運んで貰いますか?」
手に手を取ってくれる。
「え? あ? 大丈夫。うん、大丈夫よ」
縁壱に引っ張られるような形で、カナエは立ち上がった。手を離すと、未だ濡れる頬を、強く腕で拭う。肩を上下させて大きく息を吐くと、巌勝が、
「本当に、大丈夫か」
厳しい声色を発した。
『巌勝さんはやっぱり巌勝さんなのね。いつも冷静』
「ええ、大丈夫」
カナエは真剣な顔付きになって、彼を見据えた。
「私、分かったような気がするわ」
「何がだ。まさか…依頼の答えか? お前が?」
「依頼の内容は、聞いてないもの」
「…」
「なんで私がここに来たか。その答えは何となく、分かった気がする」
巌勝は、縁壱と顔を見合わせた。
カナエが微笑む。腑に落ちたのか、さっぱりとした表情だった。
「もう、怖くないわ。…ディナー、行きましょう? 折角楽しみにしてたんだし」
「姉さん…本当に? 大丈夫?」
しのぶがもう一度、念を押した。
カナエは確かに首を縦に振って、縁壱の言葉を聞く。
「カナエさん…貴女はやっぱり、強い女性(ひと)ですね」
「だてに継国神社の巫女してないわよ。私も、しのぶも」
「姉さん…!」
しのぶの顔色も明るくなった。
「…じゃ、」
と、巌勝が腰に手を当て何とも言えない笑みを浮かべる。
「とりあえず着替えてディナーに行こう。腹が減ってはなんとやら、と言うしな」
「うん。きちんと片を着けて、継国に帰るわ。きっと!」
四人は顔を見合わせ、強く頷いた。
各々、部屋に籠もり着替え始める。しばらくして、正装した縁壱を見た姉妹がどんな反応をしたかは…四人のみぞ知る。
夕食を頂く大広間は、元はサロンだったようだ。
天井から吊り下げられた幾つものシャンデリアが煌々と光を放ち、磨き上げられたダンスフロアがまるで星を散らすように煌めいている。
サロンの手前にはグランドピアノがあり、マーメイドドレスに身を包んだピアニストが、優雅なひとときを提供していた。
「すごい…」
あちこちから感嘆の溜息が聞こえるが、胡蝶姉妹も例に漏れず、入り口付近で立ち止まり中を見渡した。
沢山の旅行者が席について、思い思いに食事を楽しんでいた。その誰もが笑顔だ。大半が家族連れだが、何度もここを訪れているのであろう、年配の夫婦や、しっかり予習してきたと思われるカップルは、ドレスアップにも気合いが入っていた。きっとそれぞれに、大切な夜になるに違いない。
「継国様」
年嵩のウェイターが声をかけてくる。
一目でフロア責任者だと分かる優雅な物腰に、巌勝が笑顔になった。軽く頷き、四人の先頭に立つ。
隣に並んだ縁壱が、こちらに視線を投げてきた。「慣れてますね?」という瞳の問いかけに、笑声が零れそうになる。
席に着くと、巌勝は、ワインリストとドリンクメニューをマネージャーに頼んだ。こんな時ではあるが、マナーを優先させた。周りは何もこちらの事は分からないのだ。
奥へ戻る彼の姿を黙って見送ってから、矢庭に胡蝶姉妹が口を開いた。
「びっくりしたあ! こう言うの、初めて!」
「フロアの雰囲気荘厳で見とれちゃった! すごいね…」
「兄上だけですよ、動じないの」
縁壱が言うと、姉妹もうんうんと首を何度も縦に振った。
ウェイターが運んで来たリストを受け取って、メニューの方は姉妹に渡す。
「縁壱、ワインは? 普段あまり飲まないだろう」
「ええ。兄上にお任せします、分からないので…。折角ですから頂きたいですね」
「そうこなくちゃな、日本酒なら部屋でもゆっくり飲める」
「兄上ザルですから…程々にして下さいよ?」
呆れたように言った縁壱に、姉妹が小さな笑声を立てた。
三人の食事風景に、さりげなく、巌勝はサポートを入れる。ド緊張で始めは固まっていた三人も、見目華やかで味は繊細なオードブルに、
「美味しい!」
舌鼓を打つと、一気に会話に花が咲いた。
ポタージュが運ばれてくる頃にはすっかり緊張も解けて、絶え間ない談笑が四人を包む。
巌勝は、何気なく指を組むとフロアを眺めて、あっという間に満席になった室内に目を丸くした。
『立派な旅館だな…和洋折衷って、こういうことを言うのか』
かつての自身を思えば、こんな風景を見られること自体不思議なことだ。だが、何より、こうして弟たちと豪華な食事を囲んでいることが、とても奇妙に感じる。
『これもひとえに…』
と、想いがあるところへ飛びそうになった時、
「ね?」
カナエが割と大きな声で問いを投げかけて来、思考が中断された。
「巌勝さんって、好きな人いるの?」
「は!?」
素っ頓狂な声が上がった。
傍のテーブルから視線を奪う。
柄にもなく耳朶まで赤くなって、巌勝は視線を逸らした。直球どころか想像しかけた事を射貫かれて、心臓が思いもよらぬ速さで脈打つ。
『食事時(今ここで)そう言うこと話題にするか!?』
三人の視線を感じ、俯き加減になる。
『巌勝って誰だ!』
『巌勝って誰だ!』
と、まるで犯人捜しのように話題の中心人物を探す周りの声まで聞こえるようだ。耐えきれず、噎(む)せ込んだ。
無言が正解。と、巌勝は気を鎮めるように瞼を伏せて、ワインを口に含む。
が、首を傾げた縁壱が真顔で、
「兄上? カナエさんが聞いていますよ?」
『とどめを刺すな! 馬鹿者!』
危うく喀血するところだった。
「お前な…!」
味わう間もなく喉奥へ押しやる。額に青筋が浮かぶが、
「ねえねえ」
「ねえねえ」
と、姉妹が笑いながら身を乗り出してくる。
周りの視線を一身に浴びた巌勝は、もう一口、割と多い量を飲み込むと、
「悪いか」
途端、姉妹の黄色い声が上がった。
ウェイターが慌てて飛ぶように寄ってくる。
謝りながら丁寧に対応する脇で、縁壱がカナエに言った。
「カナエさんは、どうしてそんなことを思ったんです?」
「ちょっとね、考えさせられるようなことがここ最近あって」
カナエは人差し指を顎に当てた。
「気になってたのよね」
「何をです?」
「ほら、ちょっと前。東雲(しののめ)かすみの事件で巌勝さんから電話がかかってきたじゃない?」
「ああ、やっぱり、あの時に…」
何かあったのですね、と顔が物語り、カナエが頷く。
「その時ね、巌勝さんがさらりと凄いことを言ったものだから」
「姉さん、あの時呆然としてたよね? 何かあったのかなって、こっちはこっちで心配したのよ?」
「うん~、びっくりしすぎて唖然としちゃったのお!」
ころころとカナエが笑う。
メインの肉料理(ヴィアンド)が運ばれてきて、四人の意識は一旦そちらに向く。が、カナエが続けた。
「だって巌勝さん、『プライベートで女性の名前を呼ぶのは一人だけ』って」
「!」
縮こまった巌勝とは対照的に、残る二人は驚いて声が出ない様子だった。縁壱に至っては、普段の真顔に目がカッと見開いて、怖いくらいだ。
「もういいだろ。聞いてるこっちの身にもなってくれ」
「兄上…」
縁壱がこちらに首を回す。ディナーを楽しむために手にしたナイフとフォークが凶器だ。
『肉用だぞ。せめてそれを置いてくれ』
刀の扱いには慣れている彼が真顔でこちらを向くと、怖い。捌かれる、と息を吐き出した時、
「まあ、自由に逢いに行けない方ですからね。想いも募ろうというものです」
「え~!? そうなの? かわいそう」
「と言うより、縁壱さん、知ってるんだ?」
しのぶも両手に凶器を掴み、身を乗り出した。
『もう、いい。どうとでもなれ』
三人が自由に憶測するのを時に青ざめて聴きながら、巌勝は、メインの肉を一口含んだ。
「…美味い」
素直な一言が漏れた。
え? と、三人が真下を見る。それぞれが口に運びながら、
「ホントだ!」
「蕩けそう!」
『花より団子か…』
即座に話題が食卓に移ったのを聞いて、巌勝は、なんとも言えない顔で姉妹を見、次いで、縁壱の方を向いた。