第四話:鬼灯
・参・
~椿の章~
巌勝は縁壱の顔を見たまま、手元の冊子を強引に閉じた。
「あ」
縁壱が視線を落とす。もの言いたげにゆっくりと面を上げた弟に、
『今見たことは言うなよ?』
無言の圧力はしっかり伝わりはしたようで、こくこく。と、彼は二度ほど頭を縦に振った。しおりを脇に抱えた様を見届けて、巌勝は、足早に姉妹の後を追った。
その目に、二つの違和感が映る。
建物を正面に捉えた時は、出入り口を中心に、左右対称の長方形をしているのかと思っていた。だが、脇の駐車場から建物を横に見ると、――おそらく、出入り口からは正面に当たるであろう場所が、後ろに引っ込んでいるように感じられた。建物が緩やかにくの字に曲がり、背面には増築が見られるのだ。
もう一つは、
『あの方は』
『依頼主』だ。
うっすらと輪郭だけが仄白く光り、柔らかな笑みを湛えている。
『この旅館の関係者…で、もう、間違いはないようだな』
見えない縁壱は置いておいたとしても、気配の隠し方が絶妙だと思った。姉妹が建物脇の木立にひっそりと佇む、彼に気付く様子はない。二人は真っ直ぐ、出入り口に向かっていた。
巌勝も軽く頭を下げる。恐らく、何か物事に行き詰まったとしても、彼が導いてくれるような気すらした。
「兄上?」
縁壱が、隣に並んで話しかけてくる。
見えない彼には不思議でならなかったのだろう。
姉妹には聞こえないように、
「あそこに『依頼主』がいる。この旅館が舞台なのは、間違いないな」
「では…後は、真実が何か。相手は誰か…ですね」
「だな」
「カナエさんの様子も気になりますが…」
「まあ。まずはチェックインだ。第一幕が始まるぞ」
縁壱は生唾を奥へ押しやった。
「悲劇にならないといいのですが」
「縁起でもないことを言うな。必ず四人で継国に帰る。そうだろう?」
「ええ。そうです。必ず」
やがて四人は、旅館の出入りの扉に手を掛けた。蝶番(ちょうつがい)を軋ませ、重々しい音を立てて、両開きの扉がゆっくりと開き、一行を飲み込む。
一気に煌びやかな光に包まれた。姉妹も縁壱も、感嘆の声を上げた。背後で扉が音を立てて閉まったのにも気付かないほど、眼前の光景に目を奪われる。
フロント脇にあるクラシックレコードが蓄音機から音楽を奏で、現代のスピーカーを通して人々の耳に届けてくれていた。
『まるで一昔前の社交場だな…』
巌勝が思う横で、
「本当ですね…とても大きなシャンデリアです」
隣で縁壱が天井を見上げて、ほぅ…と溜息を漏らした。初めて見る照明なのだろう、目が輝いている。シャンデリアは見事に、四階まで吹き抜けた宙に浮いていた。
『よくできてるな』
巌勝は感心した。
支えるコードは恐らくファイバーなのだろう。景観を損なわないように配慮された様が見事だった。
控えめに、
「継国様」
声を掛けてきたのはこの旅館の女将(おかみ)だろう。一際華やかな着物を身に纏(まと)い、物腰が嫋(たお)やかだ。
「お待ちしておりました。鬼灯旅館へようこそ。長旅お疲れ様でした」
「あ、はい。お世話になります。宜しくお願いしますね」
縁壱が穏やかな声色で答える。女将が流れるような所作で腰を折った。
彼らが女将の、「このシャンデリアは当館の目玉で…」と、話に耳を傾ける傍らで、
「受付を済ませてくる」
巌勝が縁壱に耳打ちする。
「あ、はい、兄上。ありがとうございます」
女将に軽く会釈をして、その場を離れた。
『凄い人出だな…』
旅行者はひっきりなしに訪れ、エントランスだけでも人が一杯だ。受付に並ぶ人の列も大したものだが、少なくとも、その二倍から三倍は連れがいるわけで、一度見失うと、合流するのにも一苦労なように思えた。
女将の挨拶も終わったのだろう、荷物もポーターに預けたらしく、身軽になった縁壱達が寄ってくる。
巌勝はフロントに帰りの荷物の件も依頼して、耳は半分縁壱達に傾けながら、フロントの説明を聞いた。
「凄い人ね…!」
しのぶが姉につつ…と身を寄せて言った。
「うん。びっくり! 町内会も、よくこんな凄いところ用意したね」
「旅館がただになるから旅程は自分たちで、って事だったんじゃない? 広告に確か、『優雅なひとときを家族で』って、書いてあった気がする」
「なるほど! そうかも! しのぶ、頭いい!」
「えへへ!」
「温泉楽しみね~、つるつる美肌もっちもち!」
「つるつる美肌もっちもち! ふふ!」
姉妹のはしゃぐ姿に、巌勝は微かに顔を赤らめた。フロントに立つ者達の眼差しはとても優しいものだったが、くすり。と笑みを零されると、流石に少し恥ずかしい。
だが、腕を組んだ姉妹は、気分も上々だ。
説明が終わる頃には若旦那が駆けよって来、
「部屋へ案内致します」
満面の笑みで、「こちらへ」と腰を屈めた。
と。
「…貴女は!」
カナエを見て言葉を呑んだ。
見つめられた彼女は、「ん?」と首を傾げる。残された三人は、揃って彼女を見た。
「あの…?」
どぎまぎした様子で、カナエが問いかける。
若旦那は頭を掻きながら照れた様子で、
「いやあ~、すみません! よく似ていらっしゃる…、本物は美人さんですね!」
「え? あ、やだ! もう!」
瞬時に顔が熟れた林檎のようになって、カナエが思いきり若旦那の背中を叩いた。
彼もまた、快活な声で笑う。
しのぶは思わず、
「ねえねえ、誰に似てるの?」
問いかけた。
若旦那は歩き出しながら、
「明治第二期の女将にです。奏愛(かなえ)さんと言いましてね、若い頃は色々と苦労もなさったんですが」
「わお。姉さんと名前がおんなじ!」
しのぶが両手を合わせた横で、巌勝は縁壱と顔を見合わせた。
姉妹がそれに気付くことはなく、若旦那の話に夢中だ。
巌勝達は先導されるままにエントランス中央の階段を登ると、踊り場で足を止めた。
「ほら、彼女です」
と、壁に掛かる大きな肖像画を見上げて、
「女将になる直前の肖像画ですよ」
「ホントだ…! 髪型は違うけど、姉さんそっくり!」
「いやあ~、惚れ惚れするなあ。きっと当時の奏愛さんも、相当美しい人だったんだろうなあ」
「もうっ、止めてよ~!」
言いながら、カナエがまた彼の背中を二度ほど大きく叩いた。
流石に巌勝は小さく笑みを零す。ちらりとこちらを見た縁壱に、
「笑うところ、でっ、…か?」
『しーっ!』
言ってる途中で、慌てて彼の口を押さえた。
ギロ、とカナエに凄い形相で振り向かれ、戯(たわむ)れの一切を見られたが、巌勝は、顎(あご)で若旦那を二度ほどちょいちょいと示した。
左手階段を登り、二階の広場で螺旋を描いて今度は右側の階段を登る。旅館の景色が逆向きになって、見えるモノが反転すると、粋な計らいに姉妹が階下を覗き込みながら吐息を漏らした。
「まるで鏡に映したみたい」
「景色が逆になったね、面白い!」
若旦那も嬉しそうになる。
先の肖像画の話を続けた。
「彼女、婚約していた恋人に先に死なれましてね…神前式の前日だったそうで」
「え!?」
「その当時、軍服さんの一人が、それはもう奏愛さんに惚れ込んでたとかで。横恋慕したとかその死に関わったとか…でも、奏愛さんは気丈にもこの旅館を盛り立てて、今に続く基礎を作った方なんですよ」
「大変だったんですね…」
縁壱の言葉に、若旦那は頷き、洋館は右側の通路を行く。
巌勝はさりげなく廊下は隅の窓際に寄って、進行方向と後方の外の景色を、順に確認した。
外は結構な暗さだが、廊下の明かりに照らされて近場までは見える。
『やはり、ただの長方形ではないんだ。こちらから見ると、中央部分に向かってくの字になってる。山側に出っ張りがあるのだとすると、客室からは見えるはず…旅館を上から見たら、一片が短いテトラポットのような形かも知れんな』
巌勝は旅館の構造を頭の中で俯瞰(ふかん)した。
顎に手をやり考え込んで、皆の後に続く。
『スタッフルームがそこだと仮定すると…入り口はどこだ? エントランスからは当然見えないだろうし見えなかった。そういや、フロントの後ろにもなかったな。珍しい。螺旋階段、踊り場、肖像画…扉らしきものは見当たらなかったが。…いや。一階。フロント脇の上り階段の下は確認してないな』
ふと、若旦那が階段のある吹き抜けの方に手を差し出して、
「こちら側は菖蒲(あやめ)館。先の様子でお気づきになられたかと思いますが、この建物は左右対称でしてね。あ、明治に入って立て直した時に、そうしたんですが」
「知ってるわ。左側は秋桜(こすもす)館よね? 最上階が鬼灯館で、その階だけが通し番号だって」
「ええ。菖蒲は当時の女将、奏愛さんの育ての親をイメージしたもので、秋桜は奏愛さんのイメージだそうですよ。二人、とても仲がよろしかったようで」
「鬼灯市(ほおずきいち)に一緒に行ってたもの!」
「あはは。まるで見てきたようですね! まあ、私らには、二人がこの旅館を盛り立ててくれたって事の方が重要でして。悲恋の井戸や地蔵やら、この付近の土地には結構残っているので、巡ってみるのも楽しいかも知れませんよ」
部屋へ着く。
三階奥の窓際の部屋は、セミスウィートだった。確認の電話を入れた時のすったもんだが、案外功を奏したのかも知れない。
寝室が二つ、カウンターキッチンが一つ、ダイニングが一つ。まるでマンションの一部屋のようだ。もちろん、レストルームもバスルームも付いている。どの家具も焦げ茶色の重厚な物で統一されていて、所々にある鬼灯型の洋燈(ランプ)が、温かみのある色を滲ませてもてなしてくれていた。
若旦那は部屋へ入るようなことはせず、オートロックのキーの取り扱いだけ注意するよう最後に言うと、その場を去ろうと頭を下げた。
「ね、その婚約者って、『清司郎(せいしろう)』って名前だった?」
巌勝がはっとする。微々たる反応だったが、二人の方に見向くと、縁壱が気付いたようだった。己の視線の先を追う。
しのぶはと言えば、姉の横に立って、先程から一緒になって話を聞いていた。
「ほう! よく調べてらっしゃる。ええ、ええ。お城は見に行きました?」
「『鬼灯街道』の先にある、『黒岩城(くろいわじょう)』?」
「そうですそうです。あそこの『数え地蔵』がね、清司郎さんの供養(くよう)のための地蔵で」
「…え?」
カナエの一言は、訝しげだった。まるで、納得できない様子だ。
それが、巌勝には不思議だった。数え地蔵の詳細など、皆で数えた時には出てはいない。知っていれば、彼女のことだ、あの話の流れだと、あれやこれやと披露してくれただろうに。
『大体、街道名や城の名前まであの時確認したか…?』
若旦那が続けた。
「今でこそ『数え地蔵』なんて呼ばれて、数えると数がいっつも違う、なんて言われてますけど」
何気なく、息を潜めて彼の話を聞く。
「元々は、清司郎さんに縁(ゆかり)のある人だけが数え間違えていたらしいんですよ。一つ多く数えてしまうそうなんです。十四だったかな? 清司郎さんが旅館を継いでいれば、十四代目だったらしくて」
「…」
「でも、間違える人が多かったんでしょうねえ。と言いますか、そっちの話の方が迷信だったのかも知れません。今となっては分からないんですが、あっという間に、数えるといつも数が違うって、話が広まったそうですよ」
「そうですか」
巌勝が足早に玄関に出向いて、目を引いた。
愛想の良い若旦那は、こちらを向く。
「色々と面白いお話をありがとうございます」
笑顔になって礼を言うと、若旦那も「いいえ」と頷いて、
「では、もう少ししたら…」
と、腕時計を見た。
「夕飯ですね! 大広間へいらして下さいね」
「はい。ありがとうございます」
若旦那が一礼するのに合わせ、巌勝はさりげなく姉妹の前に立った。二人を背中に隠すように廊下で見送ると、姉妹を室内に押し込む。扉をきっちり閉めて、知らず、長い溜息が漏れた。
室内を振り返る。
思い思いの方向を見つめている三人に、何とも言えず口を噤(つぐ)んだ。その場の空気が重く、淀んでいるようだ。きっと一様に、昼間(あの時)の、数え地蔵の数のことを考えているに違いない。
巌勝ただ一人が、室内へ歩を進め、トランクへ手を掛ける。が、その手の動きが止まった。
『…』
窓の縁(へり)に、五指が見える。息を飲んだ。
親指の位置を確認すれば、外から手を掛けた状態だと分かる。第一関節が折れて、力が入っていくのを見る。
肩幅分広さが開いて、もう片手の指もかかった。見る間に、ぐぐ…と、力が込められていくのを感じる。
登っているのだ。
…誰が?
『ここは、三階だ』
自問自答する間に、頭頂部が見え始めた。
このままでは、部屋を覗かれてしまう。
巌勝は大股で闊歩(かっぽ)すると、窓辺に寄った。眉間に皺(しわ)を寄せ、気を瞳に溜める。目が赫(あか)く、ひび割れたように筋が入った。瞳は金色に輝く。おおよそ、三人が見たこともない形相で真下を見つめると、相手は、驚いた様子で上を向いた。まるで「同族か?」とでも言うように、にやりと、口の端(は)が歪んだ。
カッとなって、
『誰に喧嘩を売ったのか、分かっているのだろうな!』
声にならない声が、覇気となった。
暴風に相手は一瞬顔を顰(しか)めて、手が離れた。あっという間に、深い闇に堕ちていく。
巌勝は、鋭くカーテンを引いた。
気を鎮めて室内に身体を向けた時、部屋の鬼灯洋燈(ランプ)がチカ…と小さく鳴った。星の瞬きにも似た揺らめきに、四人は思わず、目をやった。