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​第四話:鬼灯

・参・
 ~躑躅の章~

 話を聞き終えた兄が、納得したように一度長い息を吐いた。

 車はもう、疎らに家が建つ郊外をも抜けて、山間部に入り込んでいる。奥へ行くほどに夕闇も色が深くなるようで、寝床に帰る烏の声が聞こえた。

 縁壱は、緩やかに連なるカーブを滑らかに追っていく。車体が揺らぐこともなく、兄たちは、会話を続けた。

「他に、何か変わったことはなかったか? 二週間もあったんだろう?」

「それが…」

 口を開いたのはカナエだった。心なしか、申し訳なさそうな声色だった。

「なんだ、言ってみろ」

「夢を、見たの。継国山(つぎくにさん)を登る前日」

 しのぶがはっとしたようで、

「一緒に寝た時?」

「そう、しのぶが来てくれた時」

「どんな夢だった?」

「井戸に引きずり込まれて、死にかける夢」

 車内が、静まり返った。

 カナエは片手を頭に添え、蝶飾りを弄りながら自嘲気味な笑みを零す。

「ごめん、そうよね。関係ないわよね。あれから見ないし。でも…」

「でも、なんだ」

 巌勝が低い声で問う。急かすような声色に聞こえて、カナエは胸の辺りで拳を握った。

「あの時見た目、私を井戸に引きずり込んだ人の目と、同じような、気が、して…」

「はっきりとは分からないのか」

「狂ったような顔をしてたもの! 怖くて、思い出したく、なくて」

「姉さん…!」

 震える身を、しのぶにそっと抱き締められた。唾を奥に押しやる音が大きく響く。

 巌勝が、厳しい口調で告げた。

「どうやら狙いは、お前だな」

「!?」

「理由は分からん。はっきりしてるのは、それきり夢を見ないのは、縁壱が手首に組紐を巻いてくれたからだろう」

「あ…」

「それはな、ただの紐じゃない。幽世(かくりよ)と現世(うつしよ)の門番をしている、京(みやこ)の統括の…舞姫としては日本の頂点にいる女性が作った物だ」

「なんか、凄そう…」

「凄いんだ!」

 巌勝が苦笑う。

「お前に取り憑こうと徘徊しだしたが、祓えの紐が邪魔でそれきり姿を現せないんだろう。だが…」

「巌勝さん、ちょっと待って」

 しのぶが察した。

 言わないで、を言い換えた感は彼にも分かったようだが、巌勝は言った。

「これから行く旅館はそいつの本拠地かも知れん。覚悟はしとけ。…で、旅行を楽しむといい」

「え???」

「意味がわかんない…」

「何があっても、継国の名にかけてお前達二人は俺たちが守る。そうだな? 縁壱」

「もちろんです」

「だから、お前達は飲まれるな、って事だ。無関心でいることはできんだろうが、『そちらに行く気はない。今が楽しい』この心持ち一つで、悪霊(鬼)ってのは、大抵祓える」

「そう言うモノなの…?」

「いつも明るい人の周りには、そう言う気がないだろう?」

「あ…」

「生まれ持って関わらざるを得ない奴もいるが、わざわざ呼び寄せる必要はないんだ。お前達はいつも通り、笑っていればいい」

「うん…!」

 カナエが両手で顔を覆った。しのぶが「姉さん…」と肩に手を添え身を寄せるのを気配で感じる。

 縁壱は、ちらと兄を横目で見た。

 巌勝もこちらを向いて、一つ頷く。その様に、縁壱は、兄が受けた依頼のことを考えた。


『ある人に、真実を、明らかにして欲しい』


『それは、もしや、悪鬼になった相手に対してであるかも知れませんね…。救いたいのかも知れません…』

 例え、もう、間に合わなかったのだとしても…。

 縁壱は、少しスピードを上げた。辺りはすっかり昏くなっている。遠く西の空はまだ茜が覗いているところを見ると、山間(やまあい)はやっぱり、時の流れが早いものだと思った。

 自分たちの車の他にも、ちらり、ちらりとカーブを曲がる度に前の車が見えたりする。流石にこの時間では山を降りてくる対向車は殆どいないが、後ろからも、車が付いてきていた。

 夜の闇が降りてくると、山肌を滑る車の音に加え、鈴虫の大合唱が聞こえてきた。

 穏やかな音色に、姉妹の表情が和らいでいくのをバックミラーに見る。通りは漆黒の帳に包まれ、車のライトが鮮やかに目に入るようになった。

『ひとまず。良かった』

 縁壱の顔にも穏やかな様が戻る。

 遠く脇の方から、赫(あか)い光が滲む様子が見えてきた。

「温泉街?」

 しのぶの声が弾む。

「ええ。見えてきましたね」

 車は、鬼灯の形の提灯(ちょうちん)が街灯代わりにぶら下がる、宿場町に差し掛かった。他の車はどうやら、更に奥の温泉街へ行くようだ。縁壱達の車だけが、左折して、手前の温泉街へ入っていった。

 縁壱はスピードを落とし、旧い町並の通りに入る。

 建物はどれも、木造だ。漆張りの梁を表に出し、連なる屋敷に個性が見える。漆喰の真白い壁は何処も手入れが行き届いていて、提灯の暖かな光をやんわりと滲ませていた。

 大きな鳥居の下を潜ると、車が小刻みに揺れ始めた。旧い石畳が車体を歓迎するように踊らせていた。姉妹が思わず、「ふふ」と笑う。その様子に、縁壱は、ほっとした。

 しばらくの間、永い歴史の中で刻まれていったのであろう轍(わだち)に、タイヤが取られる。

 どこからか祭り囃子も聞こえてきた。通りに面した土産物屋が、あちこちで、同じ囃子を流しているのだろう。

 両脇の歩道には、沢山の人出が行き交っていた。殆どが同じような浴衣姿だが、よく見ると、柄は同じでも文字がそれぞれに違う。「○○屋」と書かれたそれが、どこに泊まるのかを顕わにしていた。

 皆、笑顔だ。

 きっと、夕飯前の穏やかなひとときを散歩しに出てきたに違いない。提灯の紅蓮の色味が微かな風に揺れて、浴衣姿の行き交う人々を、温かく迎え照らしていた。

「綺麗ね…」

 カナエが感嘆の息を漏らした。

「まだ、こんな場所が残っているのね」

 しのぶも窓に張り付いて、外を眺める。

「宿はもうすぐ?」

「ああ。もう少し奥だったか?」

 兄の問いに、

「はい。そろそろですよ」

 答えながら、通りは最奥まで進む。豪奢な建物が突き当たりに聳え、姉妹が喫驚した。

「「すご!」」

 四階建ての、ここも、木造の建物だ。

 創業は江戸の頃らしいが、明治に一度建て替えられている。色物が神戸やら横濱やらから流れてくるのに伴い、モダンな造りに変えたらしかった。

 アーチ型の窓はステンドガラスだ。廊下のデコレーション洋燈(ランプ)から漏れ出る橙色の光が、紋様を艶めかしく浮き立たせている。

 建物の梁は先端が釣鐘草(つりがねそう)を模したようにくるりと巻かれ、意匠が施されていた。

 出入りの扉は黒檀(こくたん)のようだった。取っ手や縁、蝶番までもが金でできており、細やかな彫刻が彫られている。

 洋館というには、梁や漆喰が和の風味を残し、不思議な景観を保っていた。姉妹のしおりによれば、建物はもちろん、内装も洋風の燈台やらテーブルやらを取り入れ、当時のそれをそのまま残しているのが売りらしい。今では和洋折衷の独特な雰囲気で、この辺りでも一二を争う人気の宿だそうだ。

 縁壱は案内に従って、建物の前のT字を右折する。暫くするとパーキングの入り口が見えて、左折して入った。鬼灯のランタンが出迎えてくれた。

「こんなところに泊まれるなんて、夢みたい!」

「縁壱さんのくじ運に感謝よお」

「ホント~!!」

「「ありがとう、縁壱さん」」

 すっかり機嫌の直った姉妹に隣の巌勝も顔を綻ばせ、縁壱は駐車スペースに車を停めた。

「ん~~!」

 外に出ると、カナエが大きく伸びをした。

「運転ありがとう、縁壱さん」

「いいえ。長旅お疲れ様でした。のんびりしましょうかね」

「「うん!」」

 車の後ろに駆けて寄り、二人は順に荷物を降ろす。胸を撫で下ろした縁壱は、巌勝と顔を見合わせると、ひとまず笑顔になった。

 しのぶが兄弟二人分の着替えの入ったトランクを出してくれる。

「疲れたろう、俺が持つ」

「兄上。ありがとうございます」

「さて。行くか」

 兄の声色は何処か緊張が走ったが、気付いたのは自分だけのようだった。周囲をあちこち見遣りながらはしゃぐ姉妹の姿に、覚悟を決める。

 兄が先導し姉妹が後を続くのを、縁壱はさりげなく見送った。最後に、歩を進める。

 建物までの通りを照らす鬼灯が、「ジ…」と数度、瞬いた。


 建物までの通りを照らす鬼灯が、「ジ…」と数度、瞬いた。

 車は、鬼灯の形の提灯がぶら下がる、土産通りに差し掛かった。

 鬼灯の花弁が開く様に、提灯の光が辺りを温かく滲ませる。

 沢山の人出が行き交っていた。殆どが同じような浴衣姿だが、よく見ると、柄は同じでも文字がそれぞれに違う。「○○屋」と書かれたそれが、何処に泊まるのかを顕わにしていた。

 皆、笑顔だ。

 きっと、夕飯前の穏やかなひとときを散歩しに出てきたに違いない。通りを彩る紅蓮の鬼灯が、風に揺れると暖かな光を辺りに散らせる。

「綺麗ね…」

 カナエは感嘆の息を漏らし、うっとりと瞬いた。

 もう一度外の景色を捉えようと瞳が開いた時、耳を劈く蝉時雨がし、金色の日差しが目に飛び込んできた。

『え…?』

 疑問に思った一方で、

「今日も暑いわね…」

 暑さにじんわりと滲む汗を、着物の裾で拭った。そのまま腕を翳して、天を仰ぐ。

 真っ青な空に入道雲が沸き立って、山肌から茸が生えているようだ。思わずカナエは笑った。

「カナエ」

「あ。はい! お義母様」

 空から通りに視線を戻すと、足元にカラン。と音が響いた。木履(ぽっくり)が、石畳を擦った音だ。カナエは一度不思議そうな面持ちで自分の足元を見ると、

「カナエ~? どうしたの? 大丈夫?」

 降ってきた二度目の美しい声色に、「私ったら」と、苦笑いを零した。

 艶やかな振り袖の袂を軽やかに揺らしながら、高さもある木履に躓かないように、気を付けつつ足早に義母の元へ寄る。

 頻繁に、提灯通りの土産物店から、

「お嬢様! ご結婚おめでとう!」

「おめでとう~! カナエちゃん!」

 声がかかる。

 カナエはそのどれもに手を振って答えながら、とびきりの笑顔を見せた。

 街路のあちこちに置かれた鬼灯の鉢たちも、風に実や葉を揺らしながら祝ってくれているようだ。

 義母の傍まで行き着くと隣に並んで歩き出し、

「もうすぐね…神前式。うちの息子を、よろしくね」

「こちらこそ。最後にこんな素敵な振り袖まで着せて貰って…本当にありがとう!」

「いいのよ。なんだか…不思議な気分なの。貴女は娘みたいに思ってきたし。ごめんなさいね、拾って貰った身で」

「とんでもない! 母様がいなかった私たちに、愛情を注いでくれたのはお義母様ですもの。私たちこそ、沢山沢山。ありがとうって、どれだけ言っても足りないくらい!」

 カナエは義母の腕を両手で取ると、暑さも気にせずぴたっと横脇にくっついた。その表情を見、

「カナエ…」

 義母のとても優しい眼差しと頭に乗る手に、「お義母様!」と声が弾む。

 面を上げてどちらからともなく手に手を繋ぐと、

「お義母様、どうか、しのぶをよろしくね。まだまだ、甘えたい年頃だと思うし」

「ふふっ、そうね! しのぶちゃんの嫁ぎ先も決まったら、ようやく私も肩の荷が下りるわ。それまで頑張らないと」

「そうよお。私も女将修行頑張る! お義母様、よろしくね」

「ああもう…泣かせないで。本当にいい子…、幸せになるのよ、カナエ」

「うん!」

 身を寄せ、こつん。と頭を合わせ、二人は笑顔になった。

 旅館に向かって、通りを歩む。少しずつ建物が大きく目に映るようになって、

「カナエと行くこの鬼灯市も、今年が最後になるのね…」

 遠く、提灯通りを眺めた義母の姿に、カナエはきゅ、と、胸元で拳を握った。嬉しそうな、それでいて少し淋しそうな眼差しが、目に染みる。

 夫となる清司郎と、その母親、…彼女は、元は、訳あってこの地にやってきた流れ者だ。彼女の美貌に心を奪われた父が、使用人として家で住み込み働くことを許したのだった。

 それはそれはよく働いて、一族や他の使用人達も、目を見張るほどだった。父の再婚相手としても、一時期は話題を攫い根も葉もない噂が流れたりもしたが…彼女はとにかく、父の求婚を断り続けたのである。

 拾って貰った恩を返すためだけと、幼い頃に母を亡くした自分たち、姉妹の面倒をよく見てくれた。

『本当に、何一つ、見返りを求めることもなく…』

 義母の手を、思わず強く握りしめる。

「ん?」

 と、顔を覗き込まれて目頭が熱くなった。

「ううん。大好き。お義母様」

「あらまあ」

 開いたもう片手で彼女は口元に当てると、くすくすと笑みを零した。

 一緒に育った清司郎も気立てが良く、兄妹のように接していたが、それが淡い恋心に変わったのはいつだったか。

『多分、この、夏の鬼灯市ね。義母様と清司郎さんと一緒に行った夏…よく覚えてるわ』

 手にした土産の飾り用の鬼灯を見つめ、カナエは優しい眼差しになった。

「カナエ」

「はい」

 意識を義母に戻す。

「今すぐにとは行かないだろうけど、落ち着いたら、ちょっと遠出をするといいわ。神戸にまた新しい船が来たでしょう」

「! そうなんだ? わぁ、見たかったなあ…」

「清司郎と一緒に行ってきなさいな。ええと…新婚旅行! の、つもりで」

「新婚旅行?」

「明治の新政府が始まって、まだまだ混沌としているけれど。世の中悪いことばかりじゃないわね。この国にはなかった珍しい文化も、学んでみると嬉しいものがあったりよ」

 まるで乙女のように無邪気に笑った義母に、カナエの瞳も爛々と輝いた。

「お義母様はホント、女将の鏡ね! うちの旅館を兵隊さん達が引き立てて盛り上げてくれるのも、お義母様の教養があったればこそだわ」

「そりゃね! 生き残るのに必死だったもの。根性よ!」

「ふふ! お義母様ったら!」

「その代わり、旅行から帰ってきたらビシバシしごくわよお。覚悟なさい」

「えええ~っ」

 二人は腕を組んで、笑い合った。

 提灯通りを抜け、鬼灯市の祭り囃子も遠くなる頃、山間の温泉街は一番奥の、鬼灯旅館が見えてくる。

 明治政府のお墨付き、と言う、一部建て直し、増築したばかりの木造の洋館だ。漆喰の壁や漆塗りの柱はそのままに、窓をステンドガラスにするなど、特には装飾品を拘って洋物で揃えた。調度品の多くは新政府から格安で譲り受け、一通りが揃っている。その一切を、義母が交渉したのだった。

 玄関を入れば豪奢なシャンデリアが迎えてくれ、夜でも、それはもう、昼と見紛う程の明るさに包まれる。当館の自慢の一つだった。

 エントランスは真紅の絨毯が受付まで続き、その脇には上り階段がある。ここにもまた、同じ絨毯を敷いていた。中二階の踊り場で左右に展開し、客室は右と左で同じ番号ながら、「菖蒲(あやめ)館」・「秋桜(こすもす)館」と名前が別れている。

 社交を目的としてここを利用する客も多く、キーナンバーは、会話のきっかけを皆に提供していた。

 無論、政府高官やプライベートを重視する客には、最上階の、通し番号が連なる「鬼灯館」を案内する。そこから一望する景色も、また、格別だ。

「姉さん!」

 妹の声がした。

 いつもエントランスで出迎えてくれるのは、心優しい妹ならでは。

 カナエは「ただいま!」と彼女に駆けよって、

「しのぶ」

 お土産の鬼灯を――

「着いたわ。わあ…ね! すっごい素敵!」

「え? え? え…ええ」

『あれ? 今? 私?』

 右に左に首を傾げると、巌勝が、顔を綻ばせている様が見えた。

 縁壱が駐車スペースに車を停めるのを待つ。

『んんんんん~?』

 今、何を見てたっけ? と、あの夏の暑い日を思い出す。

 どこか懐かしい、鬼灯市。

 じんわりと汗が滲み、山にかかる入道雲を、腕を翳して見上げた。

 とても大切な人が傍にいて、一番幸せだった頃。

『ああ、そう…帰って来たのね』

「ん~~!」

 外に出ると、大きく伸びをした。

「運転ありがとう、縁壱さん」

「いいえ。長旅お疲れ様でした。のんびりしましょうかね」

「「うん!」」

 カナエが兄弟二人分の着替えの入ったトランクを出す。

「はい、清司郎さん」

「…は?」

「ん? 何? どうかした?」

「……いや、」

 巌勝が鞄(トランク)を受け取りながら、怪訝そうな顔付きになる。

「やだ、巌勝さん。怖い顔! 驚かせないでよね」

「そうよう。楽しみなさい、とか言っといて」

「あはは! ホントよね!」

「兄上、大丈夫ですか? 私が

 縁壱は手を伸ばし、巌勝の手からトランクを受け取った。耳に、「…聞き間違いか?」と、呟く声が聞こえる。

「お疲れですね、兄上」

「いや…あ、すまないな、縁壱」

「いえいえ。あまり気を張りすぎないように…兄上は誰より細やかですからね」

「お前が呑気なんだろうが」

「ふふ!」

「ったく…じゃ、行くか」

「ええ」

 二人足早に、姉妹の後を追う。

 カナエがしのぶに、

「本当、素敵ね…。エントランスにはね、とてもおっきなシャンデリアがあるのよ」

「そうなの?」

「うん! 真紅の絨毯がそれはもう、目に鮮やかなんだから」

 わいわいと話す姉妹の後ろで、巌勝が、

「相当楽しみだったんだな。良かったな、縁壱」

「ええ。ま、しおりを作ってくるほどですからね。ほら、ここにもちゃんと…」

 縁壱が、『旅館の見所! 楽しみ処!』のページを片手で開く。

「あら…?」

 首を傾げた縁壱は、もう片手はトランクを引いていて自由が利かない。傍に寄り「どうした」と声を掛けられて、

「旅館の歴史や内装が、書いてあったと思ったんですが」

「ああ、それなら俺も読んだな」

「ページ。捲って頂けます? 兄上」

「あ?」

 意味が分からんと言うように妙な声を出しながら、巌勝は、しおりを捲った。

「…」

 開いたページのタイトルは、確かに、『旅館の見所! 楽しみ処!』ではあった。

 が、白紙だ。

「…」

 巌勝は荒くページを捲った。

 ない。

 文字が、消えた。

 数ページがごっそりと抜け落ちていて、二人は、顔を見合わせた。

・参・~躑躅の章~: テキスト
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