第四話:鬼灯
・弐・
~躑躅の章~
縁壱はエンジンを掛けた。隣で兄がシステムの立ち上がるのを待つ。画面を見つめている間に、ドアのサイドポケットから姉妹自慢の旅のしおりを取り出すと、旅館が載っているページを開いた。
電話番号を告げると、巌勝が入力をしてくれる。
一緒になって画面を見て、彼が検索のボタンを押すと、
『該当なし』
「「ん?」」
二人お互いがいる方向に首を傾げて、頭で山を作った。
後ろから姉妹の笑う声が聞こえる。身を乗り出してきて、カナエが言った。
「どうしたの?」
「あ、いや。電話番号では検索できないみたいです。伝え間違えましたかね?」
「縁壱、もう一度」
「ええ」
一緒になって確認するが、誤りはない。
「今時珍しいですね」
「仕方ない。住所入れるか」
「あ、はい。ええとですね…」
巌勝が画面のタブを幾つか戻すのを待つ。県名を選択してくれたところで、続きを告げようとした時、
「きゃあ!」
カナエが声を上げた。
「どうしました?」
瞬時に振り返る。ほぼほぼ同時に巌勝も後ろを見、縁壱は、顔面蒼白になって震えているカナエを見た。しのぶも血相を変えて、姉を抱き締めている。
「今、フロントガラスに、目が。…映ったような、気がしたの」
「気がした、んじゃなくて、見たの。あれは、あの時の、目」
「あの時の?」
巌勝が繰り返す。語尾の調子が上がっていた。
しのぶが頷いて巌勝を見た。
「継国山(つぎくにさん)でね、見たの。夏飾りの風鈴を外した時。でもその時は、目だけじゃなくて、人の姿を見てるから」
「縁壱」
責めるような口調と眼差しで、こちらを見られる。
「これも、」
と巌勝が自身で自分の手首を二三叩き、
「そのための物か」
胡蝶姉妹の手首を指しているのだろうと、すぐに分かる。観念したように、頷いて見せた。
『あれから二週間…何事もなければ、旅行後に外そうと思っていましたが』
どうやらそういうわけにもいかないと、思うに至る。
『説明するしかありませんかね…』
「兄上…」
「とにかく、旅館に向かおう。向こうも困るだろう、ディナーの時間があるからな」
「あ、うん、そうよね。ごめんなさい」
咄嗟に謝ったカナエに、巌勝は少し苛立った様子で、
「お前のせいじゃない、悪いのは縁壱だ。気にするな」
「兄上…すみません」
「お前な…まあいい、とにかく、住所」
「あ、はい」
慌てて、住所を読み始めた。
その脇で、巌勝が操作しようと指を伸ばしたのを見、二人、動きが固まる。
何気なく巌勝は身じろいで、前の座席の隙間を身体で埋めた。画面を隠したのだ。後ろの姉妹に気付かれないように、反射的に動いたのだと縁壱にも分かる。鼓動が早くなるのを抑えながら、
「兄上…」
何とも言えず小声で呟いた。
もう一度、画面を確かめる。
『 よ う こ そ 』
カーソルは、検索ボタンを点滅させていた。
『上等だ』
思ったのはどちらだったか。
巌勝が、検索ボタンを押した。
画面に目的地が表示される。目指している旅館、『鬼灯旅館』が画面に現れ矢印(ピン)が示された。
瞬時に、巌勝が呟く。
「縁壱、運転に集中しろよ?」
「…はい、兄上。では、向かいますね」
「任せたぞ」
「ええ!」
二人はシートに座り直す。
どちらからともなく長い息が漏れて、縁壱は、車を発進させた。
走り出した車に、ナビゲーション・システムが反応する。左上の方に目的地までの距離が算出表示される。その下に、ローディングを表す円が描かれ、到着時刻を計算し始めた。
車は滑らかに、城の駐車場を出、左折して、大通りの車の流れに乗った。
だが、到着時刻は出ない。
「ちょっと…」
震える声で、カナエが声を漏らした。
「姉さん。座って。ね?」
しのぶが姉に手を添えて、深く腰を落ち着けるよう促した。
「しのぶ…」と呟きながら言うことを聞いたのを、縁壱は、バックミラーで確認する。
と。
時刻が表示され、カナエの吐息が漏れる。縁壱は、
「少し時間がかかっただけですよ。大丈夫です」
微笑む。
「そうかしら…」
カナエは訝しげだ。意識せず、右手が左手首を弄るのを、しのぶが…また、そんな姉妹を縁壱が、ミラーで確認した。
隣の巌勝も険しい表情で腕を組む。
車が郊外に出る頃には後ろの二人も漸く落ち着き、兄も思案が纏まったのか、
「二人を怖がらせる気はないが」
と、口を開いた。
「継国山で何があった。聞いておきたい。教えてくれないか」
姉妹が顔を見合わせる。
しのぶが少し身を乗り出して、
「巌勝さん…依頼、受けたんですか?」
問うと、彼は一瞬口を閉ざした後、
「ああ」
首を縦に振る。
「分かりました…もう、二週間も前のことなのですけど」
しのぶが語り始めた。
「継国山の夏飾り…風鈴を外し終えた時のことなんです」
「今度はこちら。カナエさん、お願いしますね」
紐を架け渡したもう一方の杉の木に脚立を運び、同じ作業を繰り返す。
カナエも慎重に対応してくれる。縁壱から紐を受け取ると、風鈴を落とさないよう一つずつ回収していくような形で、姉妹がお互いに歩を進めて寄った。
ばらけないよう丁寧に纏めたそれを、姉妹がそっと籐籠に収めてくれる。
「神社に戻って、お昼にしましょうか。今日は私が作りましょう」
縁壱は言った。
「「やった~!」」
「ふふ!」
縁壱は籠を背負い、脚立を肩に乗せ抱えて、朗らかに前を行く二人の後を追った。
杉の木立を少し登るような形で抜けていく。参道にあと少しというところで、
「しのぶっ!」
突然、カナエが悲鳴に近い声を上げた。妹に抱きつき、受け止めた彼女は姉を背中に回すと守るように、盾になる。
「…カナエさん?」
カナエは震えながら、しのぶの肩に顔を埋めていた。
縁壱の声色に答えてくれたのは、しのぶだ。一点を凝視したまま、こちらにだけ聞こえるような声で言った。
「あの木立の向こうに…いるの」
「え!」
思わず、縁壱も、しのぶの視線の先を追った。が、案の定、彼には見えない。
眉間に皺が寄る。
『いつも、大切な時に限って…!』
しのぶが続けた。
「いつの時代だろう…。紺色の着物姿だけれど、ぱりっとしてる。羽織が割と鮮やかな色彩で…不思議な感じ。一重の、清々しい面立ちで…、長い髪を…肩の辺りで一つに纏めて、前に流してる…」
「江戸…ではなさそうですね? 明治、大正…の頃でしょうか」
「どうだろう、ちょっと分からない…けど…。全体を見る限り、現代でないことは…確かだと思うわ…。目を見開いて、じっと…、こちらを見てる。視線が……」
「しのぶさん!」
縁壱は、しのぶの眼前に立った。
「!」
彼女は一度、大きく身を揺らし我に返る。
「縁壱さん…!」
「良かった…! すみません、私が尋ねたから」
「ううん、ううん、ありがとう…!」
人の視線、特にあの世の者の視線は、飲まれると取り返しのつかないことが起きたりする。意図的に遮らないと、戻れなくなることすらあるのだ。
しのぶもそれが分かっていたから礼を言ってはくれたのだろうが、完全に、不覚だった。彼女はしっかりとした、意志の強い少女だ。あの世の者と対峙したところで、そうそう気圧される者ではない。それに少し、甘えていた。
「失礼しますよ」
縁壱は二人をそっと抱き締めた。心の中で祓詞(はらえことば)を唱えながら、瞼を伏せる。
「気配が…消えたわ」
しのぶの声に、瞼を押し上げた。
カナエも身を起こし、
「しのぶ。縁壱さん、ありがとう…ごめんなさい、私…」
「いいえ。今日は二人とも、もう、山を降りなさい。夕刻までいてはいけない」
「え、でも…」
もう少し。と言った顔付きになった二人に、縁壱は優しい眼差しを投げて、
「もう学校は始まっているのでしょう? また来週…いえ、来週は、二人が会いたいと思ったら、私が山を降りますから。ね? アルバイトもお休みにしましょう」
「「はい」」
「六合目のロープウェイ乗り場まで送ります。荷物はここに置いていきましょうかね」
言いながら、縁壱は、参道まで降りて、脇に籠と脚立を置いた。悪戯されないことを祈りつつ、
「さ。魔の刻が来る前に。麓へ降りなさい」
「縁壱さん…」
肩を落とした二人であったが、黙って頷くと、山を降り始めた。その背中を守るようにして、縁壱が後に続く。
『二人がこんなに怯えるなんて…あまり良い霊とは』
途中、縁壱は思考を巡らした。
『継国山中に現れるなんて。まだ神無月にもなっていないのに。結界が弱まっているのでしょうか…』
神社へ参詣に訪れる人の波と、時折すれ違う。乗降場は、すぐそこまで来ていた。
『まさか、兄上と間違えてこちらに現れた、なんてことは…。いえ、じっとこちらを見てるとしのぶさんは話していましたね、ということは…』
「着きましたね」
人でごった返す中に紛れて、縁壱は、二人を土産物店隣のオープンカフェで待たせた。
「駅長さんに話してきますから、ここで少し落ち着いて」
「ん…ありがとう、縁壱さん」
「はい」
努めて笑顔を見せて、頷く。
駅長室まで歩む傍ら、
『少し用心しなければなりませんね…。兄上にも、何事もなければ良いのですが』
見えずにいる自分なら、恐怖も薄れる。だが、もしも、二人に。或いはそのどちらかに用でもあって狙いを定めていたのだとしたら、やるせない。次第に腸が煮え返るようだった。
駅長に話を通した縁壱は、彼を伴って姉妹のところに戻る。
下山する人の波は途切れず、長い列がロープウェイを待っていた。だが、この山の神社の主である縁壱の姿は、知らない者ばかりではない。美人姉妹のこともそうだ。何やら青ざめた二人の様子に、人々は、快く順番を譲ってくれたのだった。
登ってくる赤いゴンドラをまだ遠くに確かめて、縁壱は、髪を結わいていた組紐を解いた。
『兄上…すみません』
元は巌勝が、京統括の二人に頼んで特注してくれた、身代わりの守り紐だ。
長い黒髪がさらりと背に流れ、人々がそれに気を取られる。その隙に、縁壱は、懐に忍ばせていた脇差(わきざし)を数センチ抜いて、素早く組紐を半分に切った。
「縁壱さん…」
「何も心配することはありません。二人は私たちが守ります」
「…」
「さ。左手を出して」
「はい…」
カナエ、しのぶの左手首に、縁壱は、しっかりと組紐を巻いて結わいた。それぞれ口元に持って行くと何事かを呟き、息を吹きかける。
「私がいいと言うまで、外してはダメですよ?」
「「はい」」
「さ。丁度来ました。気を付けて帰りなさい」
「はい」
二人の背中に軽く手を当て、ゴンドラにそっと押し出す。
人の波に揉まれて二人はあっという間に前の方へ流されたが、すぐに窓際を伝ってこちら側に来、仰いで来た。
「縁壱さん!」
二人の声が聞こえるようだった。手を振る姉妹に縁壱も振り返す。ゴンドラが豆粒のようになるまで、手を振り見送り続けたのだった。