第四話:鬼灯
・壱・
~椿の章~
夏場はひっきりなしに外へ出ていて休みのなかった巌勝は、ようやく、
『やっと…一息ついたな』
サボテンの側から高い空を見上げて、溜息をついた。
日差しはまだ強いが、空はうっすらと白い。強烈な青い空は、もう、見られなかった。
古書堂を吹き渡る涼しい風に、残暑も和らぐようだ。
『久々に豆を挽くか』
いつもなら機械に任せてしまうことも、今日は、ゆったりとこの手でできそうだった。
風の後を追うようにしてカウンターを回り、冷蔵庫へと向かう。時折古紙が風で捲れる音がして、一層穏やかな面持ちになった。
『そう言えば、煙草は止めて三月経ったな。これなら何とか。止められそうだ』
満足。と綻んだ顔が、
「!」
届いた涼しげな音で歪んだ。
音のした方に思い切り見向いて、
「縁壱…!」
苦々しく呟く。
「兄上!」
軽やかに響いた風鈴の音が、彼の心持ちを告げるようだった。
こちらの事などお構いなしで、カウンターまで寄ってくる。何を薦めずとも、丸椅子(ハイスツール)に腰を降ろした。袴(はかま)が広がり、すっぽりと椅子を包む。
手にしていた小さめの紙袋を卓上に置く様を見ながら、
「俺が山へ登らないと、お前が降りてくるな…」
「今日は特に、用がありましたからね」
さらりと躱され、紙袋の中から長方形の箱を取り出した。
「見て下さい。私の携帯電話です!」
じゃーん! と音でもつきそうな勢いで、縁壱が箱を開けそれを手にした。巌勝はますます険しい顔になって、
「何世代前のスマホだ…」
取り出された機種が見たことの無いもので、言葉を失う。
「ええと。それは分からないのですが、シニア向けだそうで」
「は!?」
縁壱は、真新しい白いスマートフォンを両手で包むと、頬擦りするように顔を寄せた。
「私はネットは見ませんし。電話ができればそれでいいので、できるだけシンプルな物を、とお願いしたんです」
巌勝は言葉がない。
「そうしたら、カナエさんが、『シニア向けでいいんじゃない?』って」
『一緒に行ったのか。と言うか。二人にとっての縁壱って、お爺ちゃん的存在か!? 分からなくもないが…っ』
思わず吹き出しそうになって、巌勝は慌てて顔を逸らした。
口元を押さえ笑いを堪えると、縁壱が続けた。
「しのぶさんも、『スマホデビューだから、ひとまずわかりやすいのがいいね』と後押ししてくれまして」
『後押し…そういうの、後押しって言うのか? 縁壱…お前』
「で、店員さんも一緒になって選んでくれて、これに決めました!」
一点の曇りもない爽やかな眼差し。
巌勝はしばし無言を貫いた。笑いが込み上げてくる。
『まあ…まあまあ。縁壱が納得してるなら、いいか…。嬉しそうだしな』
自身は納得いかん。と言うやるせなさが残るが、弟がほくほくと眺めているのを見ると、何とも言えない複雑な気になる。
巌勝は優しい瞳になって、
「俺の連絡先は入れたか? 古書堂と、古書堂裏の自宅と、俺自身の携帯と」
「あ。それです、兄上!」
縁壱は身を乗り出して、
「カナエさんが入れようとしてくれたんですが、断りました」
「? なんで」
「兄上に教えて頂きたかったので」
「…お前は」
『また、恥ずかしいことを。臆面もなく』
思いはしたものの、悪い気はしない。
「…仕方ないな」
呟くと、カウンターを回り隣の席に腰を落ち着けた。少し尻を持ち上げてスラックスからスマートフォンを取り出すと、
「一度掛けるから、お前の番号教えてくれるか?」
「…何処で見ればいいんですかね?」
「そこからか…!」
『そりゃまあ。買ったばかりだし覚えていないのも分かるが』
巌勝は彼の横顔を見た。
遠い昔。
凧糸に絡まり呆然と立ち竦んだ弟の姿が、脳裏を過ぎる。
「ああもう。手がかかるのは、今も昔も変わらんな」
「兄上っ」
「じゃあ逆。お前、俺の番号は覚えているだろう? それから掛けろ」
「あ、なるほど。ええと…」
双子は肩を寄せ合い、スマートフォンの画面を見ながら、あーでもない。こーでもない、と、等しく流れる時間を共有した。
ゆっくりと、古書堂に西日が差し始める。
やがて、連絡先がいつものメンバーで埋まったのを、縁壱が、瞳を輝かせて見つめた。
『すっごい嬉しそうだな…』
巌勝は、肘を突いて眺める。
縁壱が眼差しに気付いてこちらを向くと、案の定、嬉しそうに微笑んだ。
「すっかり昏(くら)くなってしまいましたね」
「季節の巡るのは早いな」
「本当に」
縁壱が外に視線を投げたのを、同じく見る。
『縁壱(こいつ)のことだから、これくらいならまだ登りそうだ』
「今日は泊まっていくか? 社(やしろ)に電話を入れればいいだろう」
足元が危ないからな、と付け加えた。
縁壱が押し黙る。
一も二もなく喜ぶかと思えた顔がそうはならなくて、こちらが驚いた。
やがて縁壱が言った。
「今日は他にも、電話をしなければならないところがありまして」
「スマホだって俺の家からだって掛けられるだろう。何を今更」
「いえそれは…」
口を噤んだ縁壱が、「どうしましょう」という顔付きになった。
『これは何か企んでるな…。姉妹が絡んでるぞ、きっと』
思い描いたことは果たして、
「実は…」
と、縁壱が能面のように感情を押し殺して言う。
少しずつ惚(とぼ)け方も巧くなってきた弟に、巌勝は内心でまた笑うが、
「町内会のくじ引きで、温泉旅行が当たりまして」
「え?」
顔は即座に色を失った。
縁壱が続ける。
「あ。正確には、二等の掃除機が当たったんですけど、自分たちより後に引いたカップルが、一等の旅行券より掃除機狙いだったみたいで。…なんて言うんですかね、棚からぼた餅?」
「いやそこじゃないだろう、重要なのは。旅行だって?」
巌勝の問いに、縁壱が「こくん」と首を縦に振る。仕草は可愛らしいが、巌勝には嫌な予感しかなかった。
「はい…。で、旅館にその確認と予約の電話を入れなくてはいけなくて。カナエさん達はまだ未成年ですし、私にその役目が…」
「ちょっと待て」
「ええそうです」
『まだ何も言っていないが』
『言いたいことは分かります』
「……」
「……」
しばし双子は顔を見合わせたまま、固まった。
「俺も行くのか」
「兄上も一緒に」
『やっぱりか…!』
『他に選択肢があるとお思いで?』
「……」
「……」
開いた口が疑問と答えを紡いで、また、二人は固まった。
「あ~~~もう! お前は」
声を上げて短髪を乱した巌勝に、縁壱は「勝ちました!」と笑った。
「家族四人招待という旅行なんです。一泊二日ですけど、折角ですから」
「黙って俺も人数に入れようとしただろうが」
「まあ、そうですね」
「確信犯だろう。断られるのが分かっていたから」
「早い話がそうなります」
「お前な…!」
「と言うことで、予約しますので。電話しますね?」
開き直った縁壱が、紙袋からくじ引き大会の概要が書かれた広告を取り出し広げ置いた。
携帯の画面を見ながら番号を打ち始めた弟に、巌勝が慌てて、
「待て待て待て待て」
広告を取ろうと手を伸ばす。が、一瞬早く、縁壱が掴んで掲げた。競技カルタの手業並だ。
ちら、と横目で見られ、
「往生際が悪いですよ、兄上。そこは昔から変わりませんね?」
「! 殺すぞ!」
「できるものならどうぞ」
「縁壱~~~~!」
「ふふ!」
かくして、胸の痞(つか)えが下りた縁壱は、堂々とその場でスマートフォンを使い始めた。画面を覗き込むように俯いた縁壱の頭部を見て、
『ん?』
気付く。
『組紐がいつものじゃないな。俺がやったやつ。どうしたんだ』
無くしでもしたか? と小首を傾げて眺めていたが、突如、耳に入ってきた言葉に巌勝は青ざめた。
むんず、と縁壱から白い携帯を奪い取ると、
「すみません。今予約の確認を入れた者の兄なんですが」
言ってる傍から縁壱が身を寄せてきて、耳を携帯に添えようとしてくる。
片手で押しやろうと試みるも、なんの。縁壱は、ぐぐぐ、と両手で押し返してくると、頭をゴツンとぶつけてきて耳を欹(そばだ)てた。
何やらおかしな気配を感じたのであろう、相手は、
『え、あ、はい』
どもりながらも言葉を返す。
「今、一部屋って言いましたか? 弟が、そんなことを口走ったので」
『あ。はい。景品が家族向けなので一部屋ですよ』
「それ、二部屋にできませんか?」
『ええと…別料金がかかりますね…、ちょっと空室確認しないといけないのですが。お待ち頂けますか?』
「はぃ、…あ!」
頷いたところで、縁壱に奪われる。
慌てて耳にスマートフォンを当てた弟は、今は懐かしい『オリーブの首飾り』を聞いて、
「兄上。折角の一等なのに、別料金がかかったら意味がないでしょう」
「だからお前は阿呆なんだ。なんで胡蝶姉妹(あの二人)と一つ部屋を同じくして寝なければならん!」
「は? 布団を離せばそれでいいでしょう」
「良くないわ! お前は何を考えてる…いや、考えてないからそうなるのか! それならいっそ胡蝶一家で行って貰えばいいだろう!」
「私のスマートフォンのレシートなんです!」
「細かい…! 旅行ぐらい俺が何時でも、」
「兄上に言われたくありません! ったくだから兄上は」
と。
巌勝の口癖が縁壱から出て、二人はきょとんと顔を見合わせた。
一瞬後、笑いが炸裂する。
『あのぅ…』
携帯から申し訳なさそうに声が響いて、二人は慌てて口を閉ざした。ぱちくりと目を瞬(しばたた)かせた縁壱に、また巌勝が肩を揺らしつつ、
『申し訳ありません、ご予約の日ですと、空きがなくて』
「そうですか…分かりました。一部屋で」
「!」
『兄上…』
「ええ、ええ…本当に。こちらこそ申し訳ありません。楽しみにしていますので。宜しくお願いいたします」
通話を切り、スマートフォンを縁壱に渡す。仕方がないな、という顔付きに、縁壱が嬉しそうに笑った。
何気なく、
「胡蝶姉妹も気にしませんよ。キャンプもそうでしたし。妹みたいなものですしね」
「は?」
「はい?」
聞いた言葉に巌勝は、また、顔色が悪くなった。
当然縁壱は訳が分からず、首を傾げて兄の言葉を待つ。その様子に、巌勝は、
『狭いテントで一緒に寝たのか…!』
「お前は本当に。最強だよ。いろんな意味で」
溜息交じりでがっくりと肩を落とした。
縁壱が何事か、反論しようと口を開きかけた時だ。
「「!」」
古書堂の風鈴の反応に、二人同時にそちらを見遣る。緊張した面持ちだった。
が、次の双子の反応は、それぞれだ。
姿の見えない縁壱には、兄を見るしかない。
兄の方は――
立ち上がり、背筋を伸ばすと、かつての所作を彷彿とさせるほど優雅で洗練された一礼を、相手にしていた。