第四話:鬼灯
・壱・
~躑躅の章~
月の美しい晩だった。
満月に向かってふっくらと膨れてきた様が己の腹に似ていて、よく覚えている。遮る物のない裏庭には、月光が降り注いでいた。足元の芝生が照らされて、歩く度に、夜露が小さな光を弾かせた。
敷き詰められた芝生は、年中緑だった。庭師が毎日点検に来て、伸びた草を刈り込む。何時でも丈がきっちり整ったここは、旅館にとっても自慢の庭の一つだった。
庭の外れは木立になっていた。白樺だった。
木目の美しい白樺は、自然のままの景観が保たれていた。宿泊者達が散策に出られるようにだけ、木道が敷かれ、竹藪を間引いていた。
それほど広くはない樺の並木だが、厳冬を迎えると、降り積もった真白い雪に白樺の幹がよく映えて、これもまた、旅行者達には人気だった。
木道を外れ、白樺の林を抜けると、川がある。割と幅の広い川だ。降りるには不向きな崖があるため、木道はさりげなく、木立を一巡りできるようにだけ作られていた。
裏庭からも白樺の木立からも、川は見えない。せせらぎが聞こえるだけだ。だが客室からは、山間(やまあい)を辿る川が滔々と流れてくる様がよく見える。冬場になると、川の方が温度が高いのだろう、川面から湯気が立ち上って、白い朝をより幻想的に演出してくれるのだった。
旅館のある場所は、それほど標高は高くない。しかし、この川のお蔭で、夏場は逆に、とても涼しかった。
秋の羽虫が囁くように、輪唱するのが聞こえる。
まだ旅館が小さな旅籠(はたご)であった頃は、白樺の木立の中に、水源があった。井戸だ。川の真水を地下から引いてきたそれは、冷たくて美味しいと評判だった。
旅籠の暖簾(のれん)の下に、丸太を半円に割り、中をくり抜いて作った桶を置く。絶えず水を流し、底におはじきを敷くと、子供達が感嘆の声を上げて立ち止まった。ゆらゆらと揺らめくおはじきの燦めきに、魅入っていた。
畑で取れた夏野菜をそこに入れ、浸して冷やす。これもまた、飛ぶように売れた。子供達が、野菜を買うとおまけでついてくるおはじきを欲しがるからだ。
傍では、当時はまだ珍しかったびいどろの瓶に、井戸の水を入れて売った。光に翳すと凹凸のあるびいどろは七色に煌めいて、不思議な飲み物に変えて魅せた。
暖簾にかかる風鈴が軽やかに鳴ると、五感を刺激されるのだろう。軒下の小さな店は、一層鮮やかに輝いて見えるようで、人々の足を止めさせた。いつしか旅籠は、城下では、一番の心の拠り所となった。
今は昔。
その井戸はもう、使われてはいない。
歴史を紡ぎ見守って来た井戸は、今の彼女には、恐怖の対象でしかなかった。
「お願い! お願いだから…岩に足を掛けて! 登るのよ! 登ってきて!」
井戸に落ちた彼を助けたくて、必死で叫ぶ。
片手は彼の腕を掴み、片手は井戸の縁に突いて踏ん張る。鳩尾(みぞおち)が彼の重さで少しずつ縁に食い込んでいった。足を掛けてくれさえすれば、全体重がこちらにかかるはずはなかった。
『腕が、抜け、そ…!』
肺が潰れそうな気がした。息が苦しい。
何より、膨らんだ腹が気になって仕方がなかった。このままでは、自分より先にもう一つの命が失われてしまう。そう、思った。
『何とか、何とかしないと…!』
「お願い…! お願い、清司郎(せいしろう)さん!」
悲痛な声で叫んだ。
祈りにも似たそれは、だが…彼には届かなかった。
「カナエ! 一緒に死ぬって、約束しただろ!」
出てきた言葉に、耳を疑った。
咄嗟にどう返していいのか分からずに、身が固まった。
と。
「!!」
両手で片腕を掴まれ、両足を井戸の岩に掛けたのを見た、のも束の間。ぐい。と、尻を振って腕を引っ張られた。
「うそ…!」
『お、ち…る……!』
「いやあ! いや、やあああああ!」
ずる、と、身が引き摺られ、井戸に飲み込まれた。
どれだけ顔が青ざめていたかは分からない。だが、彼の歪んだ口角が醸した、にたり。と笑った顔を見た時、怖気どころか全身の毛が抜けるかと思うほど鳥肌が立った。文字通り、血の気が引いた。
先に彼が水に落ち、耳にその音が聞こえ、眼前に昏(くら)く狭い水面が迫る。掴まれた腕から引き込まれ、足の先まで飲み込まれ濡れて、着物が纏わり付いて重くのし掛かった。
『ああ、死ぬ…!』
理解した時、もう一人の自分が、
『嫌よ! 死にたくない! 死にたくないったら…!』
大きく主張した。
生きる本能だったと思う。
相手に決して組み敷かれないように、掴まれた腕以外を懸命に水面に寄せて、上を取った。彼からとにかく離れた。そうして勢いよく、身を折る。
腕を掴まれているのなら、足だ。足しかないのだ。
思い切り、彼の顔を蹴飛ばした。
「ぐ、ぼ!」
一度。
二度。
反動を付けて、掴まれた腕を引っ張りながら、彼の顔を。腕を。肩を。脳天を。
肺から空気が逃げたが、諦めたらダメだ。死ぬ。それは、嫌だ。
もう、息が続かない。
そう、感じた時だった。
彼の頭を強く踏みしだいた時、腕が、離れた。
自由だ…!
もう一度、彼を踏みつける。反動で、水面に上がる。
「っはあ!」
息を継いで、張った水から顔を出す。もう、相手に意識はないようだったが、確認などできない。なおも足踏みをして彼を水底へ追いやった。
生きたい。
ただ、それだけだった。
見上げる。遠く円形にくり抜かれた空に、月が見えた。
「誰か! 誰か…!」
『お願い、助けて…!』
「お嬢様!」
「柚木(ゆのき)!」
顔を出したのは、傍に仕える年嵩の執事だ。
「柚木、柚木…!」
顔に深く刻まれた皺の数が、滲んで、いつもより多く見えた。彼を呼ぶ声色が、次第に明るくなった。
「すぐに梯子(はしご)を! もう少し、もう少し頑張って下され!」
「うん、うん…!」
こちらを気に掛けながら、後ろを何度も振り返る。その度に指示を出して、足音が聞こえた。
「柚木…!」
後から後から溢れ出る涙を、両手で拭う。
程なくして、防災用の長く丈夫な梯子を複数人が持ってくると、井戸を囲み縁に登り、梯子を降ろしてくれた。
「お嬢様!」
執事の声に応えるように、梯子に手を掛け足を掛け、一段一段踏みしめて登る。
登り切って荒い息をつきながら井戸の脇に座り込むと、
「お嬢様、お嬢様…! ご無事で…! 本当に、良かった、本当に…!」
抱き締められ、抱き締めて、タオルを掛けられ、包まれて。
「柚木ぃ…!」
一度に感情が溢れて、大声で泣いた。
「柚木…! ありがとう…! 気に掛けていてくれて。本当に、ありがとう…!」
「お嬢様…!」
やがて、旅館は従業員用の控え室に戻った。お義母様がホットミルクを入れてくれ、その温もりにまた、涙する。お義母様だって、深い悲しみの淵にいるだろうに…。
ごめんなさい。
ごめんなさい。
貴女の息子、私が殺しました。
ごめんなさい。
死にたくなかったの…!
ごめんなさい。
真実を、言わなかった。
助かった安堵だけが、今は、胸に広がっていた。
だが、ほっとしたのはその夜だけだった。
翌日には、腹が痛んだ。必死で守ろうとしたもう一つの命は、失われていたことを知った。流産だった。
「!?」
カナエは飛び起きた。
全身から汗が噴き出し、荒い呼吸が耳につく。
肩で息をしながら、ゆっくりと視線を下に降ろした。引きちぎりそうなほど強く、両手で握りしめていたタオルケットを、指を一本一本剥がすように開いて離す。震える腕を持ち上げ、見た。
「!!」
手跡がついている。
くっきりと。赤黒く。
「っ!!!」
声にならない。
叫びたいのに驚きすぎて、声の出し方を忘れた。心臓が縮み上がって、夏場の犬のように大口を開けて息をする。
『夢…夢じゃないの!?』
ようやく思考が巡った。
『いいえ、夢よね! だってここ、私んち!』
見慣れた部屋は、確かに自室だった。薄暗いが、カーテンの隙間から月光が届いて、お気に入りの小物の数々を照らしている。
『月光…!』
先の裏庭が、フラッシュバックした。
白樺の木立。
木道。
井戸。
彼の、顔。
「いやあ…っ!」
全身を触る。あちこちに視線をやって、自分で自分を抱くようにして腕を回した。濡れてはいない。
頭も叩くようにして確認する。髪も絞るように掴む。こちらも、何ともない。冷や汗が滲むだけだ。
頭を振って映像を脳裏から追い出すと、
「っはあ…はぁ…!」
自らの呼吸を感じられるほどには現実が近付いてきた。
恐る恐る、もう一度、腕を見る。
「え…!?」
跡がない。
困惑した。
見た夢は思い出したくもない。ほんの少し意識を傾けるだけで、死に際の彼(あ)の顔が蘇ってくる。
はっとして、立ち上がった。
勢いよく身を立てたせいで、ベッドのバネに身が揺れ倒れた。動揺がそのまま現れているようで、巧く立てない。
仕方なく、足を伸ばして見る。
何ともない。
腹部も摩ってみるが、鳩尾も、肺も、痛まない。
「夢…? 本当に、ただの、夢…?」
全身の無事を知ると、落ち着いてくる。
『大体、あれは、自分だった?』
思考回路も正常に戻るようで、考えが巡り始めた。
『夢を見ていたから自分の名前を呼ばれただけで、自分が呼ばれたわけじゃない?』
ややこしさに頭を抱えて悶える。
「そうよ、夢。夢だったのよ…!」
『だからこうして何事もなく、目が覚めたんじゃない』
はっとした。
――もし、目が覚めなかったら?
「だめだめだめだめ…!」
『深く考えてはダメ!』
過呼吸になりそうなところを、すんでで言い聞かせる。
「落ち着いて! 落ち着くのよ、私!」
「…姉さん…?」
ふ、と、部屋の扉が開いた。
「さっきからどしたの…? 今何時だと思ってるのよ…」
目を擦りながら、ベッドに寄ってくる彼女に、心底安堵した。
目頭が熱くなる。
手を伸ばせばすぐそこにいる妹に、思わず、
「しのぶ…!」
呼び掛け引き寄せ抱き締めた。
「なになになになに?」
ぎょっとして目が覚めた妹に、
「ありがと…!」
言うと、彼女は何とも言えない溜息をついて、
「怖い夢でも見たの? 仕方ないなあ。一緒に寝てあげよっか?」
「うん…!」
ベッドに潜り込んできた。
手に手を繋ぐ。しのぶの肩に顔を埋めてくっつくと、身も心も落ち着くのを感じた。
「どちらがお姉さんか分からないね」
「今日は妹でいいわ。ありがと…しのぶ!」
「ふふ!」
『しのぶ…大好き』
どっと疲れて、そのままぐっすりと、カナエは、二度目の眠りについたのだった。
「縁壱さ~ん! 音のする方へ行けばいいの?」
「ええ。止まって欲しい時は声を掛けますよ」
「分かったわ!」
胡蝶姉妹は踊るように、囀(さえず)るように、談笑しながら継国山中を駆けた。時折立ち止まっては、二人背中合わせに佇んで耳を澄ます。
「こっちからにする?」
「こっちの方が近くない?」
必ず一度はこんなやり取りをする二人に、縁壱は、穏やかな笑みを浮かべた。
彼は背丈ほどもある脚立を肩に掛けて抱え、跡を追う。背中には、籐の籠を背負っていた。
杉の木立の参道を少しずつ降りる。姉妹の声に応えるように道を外れては、二人の姿を探した。
『まるで天女に惑わされる翁のようですね』
ふらりふらりと付いていく己の姿に、また笑みがこぼれた。
神社を出たのは朝早かったが、太陽はもう、冲天(ちゅうてん)を超えている。
こぼれ落ちる日差しを目映そうに見上げて、
「あっという間にお昼になりました…」
「縁壱さん! こっちこっち!」
すぐ傍で、雲雀(ひばり)のような美しい声が聞こえた。そちらを向いた時、爽やかな秋風が吹き抜けて、近くで、風鈴の合唱が響いた。
姉妹のところまで行き着くと、風に揺れる短冊と青銅の風鈴の影が、参道に連なって落ちているのを見る。杉の木から杉の木へ糸が掛けられ、風鈴が幾つも吊り下がっているのだ。
揺れる黒い影を見ながら、三人は、頭上に降る涼しげな音を聞いた。
「綺麗ね…」
まるで影絵のようだ。
縁壱も優しい眼差しを落としたまま、
「私もね、見上げるよりこちらの揺らめきを見ている方が、好きですよ」
「私も! 毎年…凄いね。付ける時はどうしてるの?」
「兄上や玄弥さんが手伝ってくれます。外すのもそうなんですが、今年は二人とも忙しいみたいで」
「そっか! 付けるのも手伝うのに。ね! 姉さん」
「そうよお。水臭いったら」
「結構な量を木立から木立へ渡すので、大変ですよ? 外すのだって、何日もかかるのですから」
姉妹が驚いて顔を見合わせたのを見て、くすりと笑う。
「でも、ま」
縁壱は脚立を木の側に立てると、
「二人にも声を掛けさせて頂きますね。これからは」
「「うん!」」
「さて。じゃ、これも外しましょうか」
暫く長閑(のどか)な時間を堪能したところで、縁壱が言った。
背負っていた籐籠(とうかご)も降ろすと、脚立に登る。途中、「気を付けて」としのぶの声が届いて、「はい」と返事をした。
一番上まで登ると、腰を掛け、杉の木に巻付けて硬く結わいた一片を解き始める。一月以上風雨に晒されたそれは樹に食い込み、重なる紐同士を絡ませて、なかなかに手強い。
何度か爪で強く扱(しご)いて結び目を緩ませる。振動が紐を伝って、ぶら下がる風鈴達が音を奏でた。
カナエがころころと笑う。
「まるで、外さないでって言ってるみたい」
「確かに。ちょっと強情ですねえ」
「ふふ!」
結び目がやっと解けて、樹に巻付けていた部分をもとくと、
「しのぶさん」
しのぶが両手を伸ばして、受け止めようとしてくれる。
縁壱は、ゆっくりと紐を緩ませて降ろしていった。風鈴は、小さいとは言え青銅製だ。頭に落ちたりでもしたら、怪我をさせてしまう。
やがてしのぶが一番端の風鈴を掴んで紐をもたぐり寄せるのを見ると、
「放しますよ」
「はい!」
返答を聞いて、残りの紐を手放した。
紐は舞うように彼女の肩やら頭やらに落ちて行って、なんだか微笑ましい気持ちになる。
しのぶが丁寧に紐を巻いているのを横目に見ては脚立を降りて、
「今度はこちら。カナエさん、お願いしますね」
「はい!」
紐を架け渡したもう一方の杉の木に脚立を運んだ。
同じ作業を繰り返す。
カナエも慎重に対応してくれる。縁壱から紐を受け取ると、連なる風鈴を落とさないよう一つずつ回収していくような形で、姉妹が歩を進めて寄った。
丁寧に纏めたそれを、籐籠にそっと収めてくれる。
縁壱は脚立を畳みながら、
「神社に戻って、お昼にしましょうか。二人のお蔭で、今日はこんなに回収できましたよ」
三人で籠を覗き込んだ。
脳天を付き合わせるような形になって、笑みが零れると、縁壱とカナエの長い髪が、籠にはらりとかかった。
身を起こしながら、カナエが言う。
「こんなに外しちゃうと、山の神様も淋しそうね」
「来年をまた楽しみにお待ち頂いて、しばらくは我慢ですね」
「継国山は幸せね。沢山の参詣者が訪れて、神主さんも優しくて」
「…おだてても、何も出ませんよ?」
「え!」
ちょこっと目を丸くしたカナエに、しのぶがくすくすと笑った。
縁壱も口元に手を当てて、
「ま。戻ったら、お昼は私が作りましょう」
「「やった~!」」
「ふふ!」
縁壱は籠を背負い、脚立をまた肩に乗せ抱えて、朗らかに前を行く二人の跡を追った。