第参話:双子
・弐・
~躑躅の章~
桜町(さくらまち)から三輪町(みわまち)の外れを少し掠めるように抜けて、大きな市街地に入る。新胡桃市(しんくるみし)だ。
胡桃総合病院まで軽トラックを走らせた時には、空は茜色に染まっていた。もう、闇は、そこまで迫ってきている。
エントランスのロータリーを半周して入り口前に停めて、縁壱(よりいち)は言った。
「先に降りますか?」
無一郎(むいちろう)は、首を横に振った。
「縁壱さんと一緒に行く」
「分かりました」
ゆっくりと発進し、もう半周して駐車場に向かった。
時間帯が丁度仕事上がりに重なったのだろう、ほぼ埋まっている。少し時間をかけて場所を探すと、停めて、
「行きましょうか」
縁壱は、とことん傍にいようと思った。
運転席を降りると助手席側に回る。出てこない無一郎を急かす形にはなってしまうが、ドアを開けた。
一歩後ろに下がって、じっと待つ。
やがて、段差をゆっくりと降りた彼に、縁壱はなるべく静かにドアを閉めた。
目を合せようとしない彼は、ただ、ぴた。と身を寄せてくる。縁壱は、無言で手を差し出した。
一度、彼が見上げてきた。ゆっくりと頷いて見せた。
「ありがとう」
小さな声が聞こえた。
握ってきた手を握り返す。歩き出した。
時間外の出入り口から中へと入る。途端、外とは違う空気の流れと匂いを感じた。長く真っ直ぐ続く廊下を見た時、縁壱は、深い闇色と非常灯のグリーンライトに少したじろいだ。
「こっち」
手を引かれ、少し歩く。エレベーターホールに着いた。
無一郎が上のボタンを押して一歩後退する。
到着の音に続いて、大きな開閉音が響く。たまたまなのであろうが、他に乗り合わせる者もおらず、縁壱達は、一気に病室への階に向かった。
六階だった。
一息に辺りが明るくなった。とは言え、差し込むのは茜色に染まった夕闇前の光だ。夜の足音が近付くにつれ、光は、廊下の蛍光灯の色に移ろいで行くのだろう。
まだ暖かな光に包まれて、縁壱達は、一つの扉の前に辿り着いた。病室のナンバーを確認した下に、
『時透(ときとう)有一郎(ゆういちろう)』
名前があった。
無一郎が俯き加減で扉を開ける。
目に飛び込んできた光景に、縁壱は面食らった。
西日の差し込む個室は、カーテンもベッドも戸棚も、白一色だ。その中に、長身の、黒い影があった。
「…兄上」
「兄上?」
無一郎が振り返る。呟いてから病室を眺めた時、知らない大人がいることに気付いた。思わず、縁壱の後ろに隠れる。恐る恐る首を出すと、相手が、椅子に深く座り有一郎(兄)を見つめる母親の隣に佇んでいるのを、確認した。
「兄上? 縁壱さんのお兄さんなの?」
「ええ。貴方と同じ。双子の兄です」
「!」
勢いよく、もう一度、無一郎が巌勝(みちかつ)を見る。
彼もこちらを見向いたが、特に何を言うでもない。啖呵を切ったのは、無一郎の方だった。
「僕…どこかで貴方に逢ってますか? なんだか…不思議な感じがする」
「気のせいだ。初めまして。無一郎くん。継国巌勝だ」
「僕の、名前…」
「そりゃ、教えて貰ったからな」
「あ…初めまして。時透無一郎です」
無一郎は、縁壱の影から姿を現した。両手を前に揃えて腰を折ると、彼も、軽く頭を下げた。
面を上げてじっと見つめると、彼が微かに肩を竦めて、苦笑った。まるで、そんなに見るな、と言っているかのようだった。
彼は母の方を向いて、
「では、私はこれで」
失礼します、と頭を下げると、母は立ち上がり、
「ええ、ええ…ありがとうございます、継国さん」
何やら感謝をした。
怪訝に思う。
『何があったの…』
駆け寄って、巌勝を押しのけるように二人の間に割り込んだ。母を背中に護り彼を見上げると、
「…むい、ち、ろ」
「!?」
脇から、くぐもった声が聞こえた。酸素マスクを付けた下から、確かに。
「兄さん!」
視界はすぐに、ベッドに横たわる兄で埋まる。
沢山の管に繋がれ、無機質な機械の音が、兄の心臓の音(時)を刻んでいる。兄と同じ時間を紡ぐため伸ばした髪が、
「兄さん…兄さん!」
呼ぶ度に、振り乱れた。
『もう二度と、目を覚まさないと思っていたのに…!』
「兄さん!」
声を振り上げる。
兄が、顔を歪めた。笑ったように思えた。
「兄さん…!」
膝から崩れ落ちる。
ベッドの脇で、彼の手を両手に包み、額を付けた。肩が震えた。
「無一郎…」
母の手が肩(そこ)に乗った。些々たる重さしか感じないのに、ずしりと響いた。奇跡を知った。
そっと離れていく黒い影に、顔を上げた。振り返り彼を見たが、巌勝は、縁壱の元まで行くと、並んでこちらを見守るだけだった。
何も、言わなかった。
駐車場に停めたトラックへ、肩を並べて向かう。途中で、縁壱が言った。
「何をしたんです? 兄上」
「…何も。強いて言うなら、喧嘩だな」
「喧嘩??」
意味が分からない、と言った声色に、巌勝が笑った。
二人、それぞれのドアから乗り込むと、
「古書堂。寄ってくか? 緑茶はないから…お前は、紅茶が良かったんだったな」
「…淹れてくれるんですか? いつもは無言で珈琲でしょう」
「たまにはな」
「私は今日は、珈琲の気分だったんですが」
顔を見合わせる。ふ…と、笑みが重なった。
縁壱はゆっくりとトラックを走らせた。辺りはもう、すっかり暗い。人出の多い駐車場内を目を凝らして進み、料金を払って大通りへ出ると、巌勝が、
「じゃ、珈琲にするかな」
「…やっぱり、紅茶にします」
「おい。縁壱」
「嫌です。紅茶」
「分かった分かった」
困ったように笑い手を振って外を眺めた兄に、縁壱は「ふふ」と笑みを零した。
「兄上。大好きですよ」
「……そんなこと、とうの昔から知ってる。余計だ、一言」
視線を合わせることはなかったが、また、小さな笑みが重なった。
大きな市街地の信号に捕まることもなくスムーズに走るトラックに、何気なく「こんな日もあるんだな」と巌勝が呟く。車は、三輪町の外れに入った。
「兄上」
「ん」
流れていく町の灯りを眼の隅に止めながら、
「真っ直ぐ、神社へ向かいませんか?」
「…俺も今、そんなこと考えてた」
「兄上も一緒に、久々に…舞ってくれます?」
「…ああ」
「今からだと、夜明けまでかかるかも知れませんが」
「ああ」
「寿命。縮みますよ? 本当に、構いませんか?」
「構わない。元々、生まれ変わることができたのも空明(くうめい)のお蔭だ」
「兄上…」
桜町に入ると、直接継国山(つぎくにさん)へと向かうルートを辿った。
通りに何回か『継国山ロープウェイ』の案内用看板を見、脇を過ぎる。登山口前の十字路を右に逸れてしばらく走らせ、林道に入ると、辺りは漆黒の闇に包まれた。
山門の前でトラックを停めた縁壱は、懐中電灯を手に降りて、いつもの調子で施錠を解く。抜けた後も同じ事を逆の順序で繰り返して、戻ると、巌勝が言った。
「有一郎。生き霊だったんだ」
「え」
声色は跳ねたが、運転には支障は出なかった。
巌勝が続ける。
「あの病院。市の中学や高校からボランティアが来ているらしくてな。その中の一人に、手鞠唄(てまりうた)の子供がいるらしい」
「…手鞠唄の子供って、幽体(ゆうたい)じゃないんですか?」
「その辺がよく分からない。ただ、有一郎は、もう死に絶える自分の身体に戻る決心が付かない上に、戻る方法も分からなかったらしくてな、その子に聞いて俺に会いに来たらしい。ったく、阿呆か」
最後の一言に縁壱は微かに目を丸くしつつ、
「と言うことは、手鞠唄の子供も、幽世に関わることができる…?」
「そのようだ」
「おかしいですね…しのぶさん達が見た時は、てっきり幽体かと」
「見たのか。そう言えば、前に話が途中になったな」
「そう言えば、そうですね」
眼下に、あたかも星空が広がったように見えた。二人はしばし、息を飲む。林道は標高を上がると背の高い木々も疎らになり、桜町や三輪町の、色とりどりの灯りが見えるのだった。
「山は寒いな…」
「すぐに冬がやってきますよ」
「そうだな…」
最後のカーブを抜けると、山肌を少しくりぬいた広場に出る。まだ幾つか車が残っているのを目に留めて、縁壱は、それらの列の隣にトラックを停めた。
降りると、砂利の音が耳に届く。扉を閉める音は、山に響き渡った。
二人、砂利を踏みしめながら足早に神社に向かう。縁壱は、
「しのぶさん達の話によると、」
話し始めた。
「癖のある髪に、蜘蛛の巣のような柄の着物を召していたとかで。顔には紫色の斑点があったようです」
「!」
巌勝の反応に、縁壱がちらりと視線を投げた。
兄は顎に手をやり何歩か行く間だけ考えに耽ると、
「確か…そんな鬼が、かつて、いたような」
「鬼」
「下層の鬼まで知るわけもないが…興味もなかったしな。あの頃は。だが、確か…あの方の…いや、始祖の、お気に入りでそんな鬼がいたような。贔屓だって、だいぶ噂になっていたからな」
「…」
「ただ、聞いた武器は手鞠じゃなかったぞ…?」
「手鞠を使う鬼とか。いるんですか」
「いや、例えばだが。執着物として考えた場合、武器と見るのが手っ取り早いだろう。だがその鬼は、確かあやとりを模していたはず…」
話している内に、社務所の裏近くまで到達した。
道は石畳に代わり、両脇に灯籠が一定間隔で並ぶ。闇にぼやけた赫い光は、風に揺れるとまるで狐火のように揺らぎ、闇奥のお社(やしろ)へと、点々と続いていた。
巌勝は一層歩を早めながら、
「ひとまず、その話はまた今度だ。今は有一郎の命を繋ぐことだけ考えよう」
「そうですね。一年、二年…ドナーが見つかるまで。祈りも込めて」
「ああ。…縁壱」
ふと、兄がこちらに視線を投げた。
はい、と声をかけて同じように見ると、彼はまた前を向いて、
「お前はうたがいるんだ。寿命を分けるのは、俺だけでいい」
「兄上!」
「分かったな? お前は祈りに集中しろ。閻魔(えんま)には、俺が話す」
「兄上…!」
「返事は」
「………分かりました」
社務所に着く。
二人は無言で、準備に入った。