第参話:双子
・弐・
~椿の章~
決して太陽の昇らない世界。
地獄なんてものは、人それぞれ想像の仕方が違うものだろうと思っていた。実際にあるのかと問われれば、誰も答えることはできない。あの時代(頃)ならともかく、現世(げんせ)では、地獄の話など、好んでするものでもない。
「空明(くうめい)! やめろ! …閻魔(えんま)、頼む! 頼む、止めてくれ! お願いだから…!」
閻魔直属の門番に羽交い締めにされ、両手を取られ身動きできず、眼前の光景に何度も叫んだ。鞍馬(くらま)の舞姫が、閻魔の目の前に中腰になり、祈るように手を組んで目を瞑っていた。
そうすることが、あたかも当然であるかのように。
『誰が好き好んで、地獄まで降りてくる女(ヤツ)がいる…! 彼女は。空明は、俺だけのために…!』
…何百年、経っていたのかは分からない。
柵(しがらみ)から逃れて我に返り、目に入った光景には妙に納得した。
地獄に落ちた――――。
当然だ、それだけのことをしてきた。笑いが込み上げてきて、腹を抱えた次の刹那、
「巌勝(みちかつ)様……」
彼女の声が聞こえた。
「!? 空明…?」
「…はい」
「空明…!」
手を伸ばし、触れる。
針の筵(むしろ)の脇で血の池がねっとりと泡を吹く大地だ。色気も何もない。だが、にこりと微笑んだ彼女の顔は、まるでそこだけ光が差すように艶やかだった。抱き締めた時、現実だ、と思ったのと、現実って何だ、と、訳の分からない疑問が脳裏を掠めて、涙が溢れてきた。
「よかった…元のお姿に、戻れたのですね」
背中に彼女の腕の温もりを感じる。耳に届いた言葉にはまた驚いて、思わず、身を離して自身を省みた。
顔にも触れて、頬を確かめる。
『継国巌勝』が、そこには、いた。
「俺…は…」
「巌勝様。お帰りなさい」
頽れる。心が震えた。止まらなかった。
空明が膝を突いて、手を伸ばしてくれる。
「もう、いいのよ。誰よりも。…頑張ってきたよね」
「空明……!」
地獄の片隅で、ただ、泣いた。抱き締められる腕に縋った。包まれる温もりに、心底、感謝した。止まっていた時間が、彼女の優しさに解けていく気がした。
「頼む、閻魔…。残りの年数はいくらでも、自分で払う。それだけのことをしてきた、理解している」
『それでもお前の罪は、消えん』
くぐもった声が、耳を通して直接脳に響いた。不思議な感覚だった。
「それならそれでいい。この地で灰になるまで、償うだけだ」
「巌勝様…それはなりませんわ。魂まで、消えてしまいます」
「空明…」
「縁壱(よりいち)様とお話をすべきです。現世で最期に思ったこと…覚えてらっしゃいますか?」
『私は一体、何のために生まれてきたのだ――――
教えてくれ。 縁壱』
「答えは巌勝様自身が見つけるものではあるけれど、縁壱様もまた、苦しんでおられます。今度こそ、しっかり話をしてほしい…。それに。ね?」
空明の表情が、舞姫から少女のそれになった。くすりと微笑んで、
「兄様が。待ってるって。戻ってこられたら、伝えて欲しいって頼まれたのです。ぶん殴りたいから待ってるって、伝えてくれって」
「義政(よしまさ)…!」
「もう一つ頼まれたけど…。それは、巌勝様から兄様に直接聞いて欲しいから。今は…言わないわ」
『どうするのだ、私はどちらでも、一向に構わんが』
閻魔の苛立った声が響いて、彼女が天を仰ぐように地獄の王を見た。
「いくらでも、差し上げます。耳でも、口でも。手足でも。だからどうか…巌勝様を現世に。縁壱様達がいる、現世に。魂をお導き下さい」
「空明!」
『良いのだな? お前は転生しても、また、不自由な思いをするだけだぞ』
「構いません」
「空明! やめろ! …閻魔、頼む! 頼む、止めてくれ! お願いだから…!」
「巌勝様…ありがとう。私…く、ら…まの…」
それきり、彼女は喋れなくなった。
「空明!」
耳も、聞こえないようだった。
少し驚いた様子で、目を丸くした彼女は、手を翳し足に視線を落とし、全身を見る。
それ以上、奪われたものはなかった。
だが、自身は、納得はできなかった。
「何故だ! 今奪わずとも…!」
『お前の罪がそんなに軽いと思うか!』
「!」
『彼女が望んだ。お前が皆と一緒に転生できるよう、足りない分を払うと。残る数百年も地獄で共に過ごすそうだ』
「空明…空明!」
門番を振り払い、彼女の傍に駆け寄る。その間も、
『それと…これは言うなと語られたが。どうせ聞こえん。伝えておく』
閻魔は言葉を続けた。
「っ…」
彼女を抱き締め、歯軋りをして王を睨む。
『今度はその目で、お前を見ていたいそうだ』
「!」
『声は覚えている。きっと巌勝様も自分の声は覚えてくれている。だから、耳も声も要らない。四肢も必要なら奪って構わない、温もりも覚えている。だけど、目だけは』
「空明…!」
『今度はしっかり、巌勝様を見つめていたいから、と』
涙が、止まらなかった。
強く抱き締め、一つの感情を知る。
出会ったあの頃よりも、もっと確かな、愛――――。
『彼女に免じて、お前の転生を許す。ただの人間から天女にまでなった女だ、羽衣(はごろも)を棄てた代償は大きい』
「…っ…」
『感謝するんだな』
縁壱が後から禊(みそ)ぎの間へ向かうのを見て、巌勝は、久々に黒袴(くろばかま)に身を通した。
袴帯(はかまおび)の乾いた音には心地良さを感じつつ、締めながら思う。
『縁壱とこうして話せるようになったんだ。それが全てだ』
自嘲気味な笑みがこぼれ、息が漏れ出た。
姿見の鏡の前まで進み、烏帽子(えぼし)を被る。顎に紐を持って行き、位置を調整する。仕上がる己の姿に、胸が痛烈に締め付けられた。
『あの頃…無一郎(むいちろう)達にした仕打ちが、これで許されるとも思ってはおらん。だが…気持ちは分かる。無一郎。…有一郎(ゆういちろう)』
「すまなかった」
ぼそりと呟くと、脳裏に、京(みやこ)にいる彼女の姿が浮かんだ。
『私は一体、何のために生まれてきたのだ――――
教えてくれ。 縁壱』
その答えを、いつかきっと、己自身で確かめられるようにと。
『空明…お前はまた、許してくれるか? まだ…待っていて、くれているだろうか…。必ず、迎えに行くから――』
「兄上」
「…ああ」
はっとして、踵を返した。
縁壱から日輪刀を受け取り、
「兄上の日輪刀も、産屋敷家(うぶやしきけ)に問いに行かねばなりませんね」
「…俺が月の剣舞唄(けんぶうた)を舞うのは余程の時だけだ。もう、…いいんだ」
『あの答えは、分かったから。そうだろ? 空明』
「ですが、退魔(たいま)は本来、兄上の仕事です。私には…荷が重い」
「縁壱…」
今はいいから。
そんな表情(かお)になった。それを彼も察しはしたようで、小さく、「すみません」と呟く。
「行こう」
「はい。兄上」
二人、足早に社を出る。
夜は肌寒い風が流れる継国山(つぎくにさん)の頂(いただき)を目指して、二人は駆けた。躑躅(き)の宮(みや)は、すぐそこだ。
やがて、双子の玲瓏な歌声が、星夜に響く。
数ヶ月後――――。
縁壱は、社務所(しゃむしょ)の雨戸を開けて回り、境内(けいだい)に降り積もった相当量の雪に目を細めた。
「道理で寒いわけです」
奥座敷から続く長い廊下を、玄関に向かって進む。途中何度も、ガスストーブの火を点すのに立ち止まった。点けっぱなしにした床暖房やエアコンばかりでは、補えない寒さだった。少しぬくまっては次へと移り、やがて、外気との温度差に、廊下の窓は曇っていった。
玄関に着くと、扉の鍵を開けた。この雪では、社(やしろ)に勤める者達がどれだけ山内(さんだい)できるかは分からない。しばらくすると、電話がひっきりなしにかかってくるかもと思いながら、扉を少し開けた。
朝刊を取るべく、外のポストを開ける。手にした新聞の下にあったはがきが、ひらりと舞った。身を屈めてそれを手にすると、縁壱の顔色が俄に変わった。
「ドナーが…!」
居ても立ってもいられず「兄上!」と叫んだ。が、そんな日に限って兄は麓(ふもと)だ。息せき切って座敷に戻ると、手にした物の内、朝刊は投げ捨てる。
座卓の上で、充電されながら主を待っていた真白いスマートフォンに手を伸ばす。慣れた様子で履歴から、兄の携帯に電話をかけた。
呼び出し音が執拗に鳴る。
留守電になるか、と言ったところで、開口一番怒声が届いた。
『縁壱…朝早いぞ! お前は…! なんだ』
「ドナーが! ドナーが見つかったそうです、有一郎くん」
『! 本当か!? あいてっ! った!』
椅子から転げ落ちるような豪快な音と、空き缶やら瓶やらがドミノ倒しになったかのような音が、耳を劈いた。
『まさか…』
縁壱が目を丸くする。
腰をさするような巌勝の小言に口を開きかけた時、
『…巌勝? なんだ、どうした。ってか、今何時だ…』
『あ、いや、すまん。縁壱から…』
別の声が近く聞こえてきて、兄が、それにすぐ応えていた。
『やっぱり!』
はっとする。
「ちょっと。兄上。また呑んでたんですか、遅くまで。それもその声…悲鳴嶼(ひめじま)さんですね?」
『年末だぞ。それくらい許されるだろう』
「程々にして下さいよ! 二人(ザル)が揃うと止まらないんですから」
『大きな声出すな…! 頭に響く』
「兄上…!」
『分かったから…で? 手術は? いつだって?』
「年明けすぐだそうです。本当に…良かった!」
『そうか…!』
何やら、兄の声音が考え込むようになった気がした。
思わず、
「兄上?」
問いかけると、苦い笑みに続いて、言われる。
『いや…なんかあいつ。あ、兄の有一郎の方な? また逢う気がする…あのクソガキ…!』
「兄上…天敵ですか?」
『やめろ。そういうのはお前一人で十分だ』
「あ。ひどい」
受話器を通して、互いの笑声が響く。
――――簡単なことだったのだ、
巌勝は、縁壱の笑い声を聞いて思った。
『あの頃、縁壱が言っていた。
『私たちは、それほど大層なものではない。
長い長い人の歴史の、ほんの一欠片』
今ならそれが…分かる。縁壱…』
「ま。何はともあれ」
巌勝が言った。
「年の瀬最後にいい話が聞けた。本当、良かった。縁壱、わざわざすまんな」
『いえ。こちらこそ。兄上…どうか、お体労って下さいね』
「ああ。じゃ、また後でな。年越しはそっちに行く」
『! 分かりました。お待ちしています』
「ん」
二人笑顔で、互いの受話器の…押したのは、巌勝だった。
どちらかが押すだろうと思った間がなんだか愛おしく、巌勝は、しばらく画面を眺める。
「年越しは、神社だって?」
行冥(ぎょうめい)が二度寝をしそうな勢いであくびをしつつ、言った。
「ああ。雪山登らないとな。面倒だな…やっぱり縁壱に麓まで迎えに来させるか」
「お前ら双子は本当、自由だな。継国神社(さん)は今日も平和だよ」
「概ね、な」
「確かに」
こちらも小さな笑いに包まれる。
「起きるか」と、行冥の珍しく面倒くさそうな声が響いて、巌勝は、また笑いながら、頷いた。
継国さん。第参話:双子・完