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​第参話:双子

・壱・
 ~躑躅の章~

「二人がいないと閑散としますね…社務所(しゃむしょ)も」

 胡蝶(こちょう)姉妹も学校が始まり、神社へ来るのは週末だけとなった初秋。

 本堂へ向かう縁壱(よりいち)の足は心なしか、抑揚がないように思えた。

「あなた」

「…うた!」

 本堂は隅の方、登ってきた参詣者達が拝殿(はいでん)で祈りを捧げる場所からは見えない死角(ところ)に、彼女がいた。まだ一歳になったばかりの息子をあやす、妻の姿だ。

 思わず駆け出した己に、息子を抱えた腕はそのままに、手だけ少し捻ってわざわざ振ってくれる。自然と笑みがこぼれた。

『いつ見ても、うたの瞳は宝石のようです』

 あの頃と変わらない。

 そんなことを思いながら、隣に並んだ。

「よく登ってきましたね…大変だったろうに。いつでも麓まで迎えに行きますよ?」

 寝ている我が子の頬を、つん。と突く。縁壱の人差し指を弾くもっちりとした頬に、彼は思わず、「ふふ!」と笑った。

「七合目過ぎたところの窪地まではね、事務の子に乗せて貰ったの」

「そうでしたか」

「流石にこの子を連れてロープウェイは、まずいと思って」

「ふふ。そうですね。驚かせてしまいますね」

「でも」

 うたは不思議そうな顔になって、

「そこまで来ると、外に出たがるのよね。勝縁(かつより)。泣かないの、山を登る時。木立に『うーうー』って、手を伸ばすのよ」

「あら」

「なんだか楽しそうでね。だから私もついつい、登っちゃうのよね」

 相も変わらぬ朗らかな笑みに、「そうでしたか」と縁壱は頷きながら、うたの頭を撫でる。「お疲れ様でした」と囁いてそっと引き寄せた。頭頂に口付ける。

 心地よさそうに身を寄せてきたうたを我が子ごと抱き締めてから、

「麓はまだ、暑いですか?」

 共に縁側に腰をかけた。

「ん。こっちは寒いくらい。この子には、丁度いいのかしら」

 二人で勝縁を覗き込む。

 穏やかな寝息に顔を見合わせ、くすりと微笑んだ。

「子供は体温が高いですからねえ」

「抱いてみる? 今なら泣かないかも」

「いいですね!」

 声色が弾んで、縁壱は、そわそわしながらうたが我が子を譲るのに手を添える。

 そっとではあったが、母から父へ渡ると、勝縁は顔を顰め、少し身じろいだ。

「!」

 心の臓が一度、跳ねたかと思った。

 が、胸元に寄せていくと、

「あなた、勝縁の耳に心臓、近づけてあげて」

「え? 心臓…ですか?」

「ん。それが子守歌になるから」

「はい」

 首をしっかり安定させて、心の臓が耳に近くなるよう我が子を寄せる。

『どんな音が聞こえているのでしょう…こちらがドキドキしてしまいますよ』

 思うが、勝縁の面立ちは、次第にまた穏やかになっていった。

 音が心地いいのか、頭をこすりつけてくる。より近く、聴こうとしているようだった。

「ふふ!」

 縁壱が思わず笑う。

 うたも笑顔になって、

「いつもと違う音に興味があるのね。…勝縁、お父さんよ」

 ぷに。と丸い手を手で包む。

 話しかける妻を愛おしく見つめながら、ふと、縁壱は言った。

「うた。寂しい思いをさせてすみません」

「あなた…」

「勝縁には、見えているのかも知れませんね…。木立に。継国の神々を。彼が継国山を好いてくれるなら、ここへ。そろそろ来てみますか?」

 うたは一度は嬉しそうに笑みを浮かべたものの、瞼を伏せると俯き加減になって、首を横に振った。

「まだ…怖いわ。もう少しだけ、雑踏の中で」

「…そうですか」

「私の方こそ、ごめんなさい」

「うた?」

「この子の成長を、間近で見せることができなくて…」

 ああ、と、縁壱は何とも言えない顔になった。同じように首を横に振る。

「仕方がありません。継国は、神々もいれば鬼もいます。産まれた時の鬼の仕打ちを思い出すと…流石に、ね」

「ええ…」

「ですが」

 と縁壱の笑顔は違う類いのものになった。

「やっぱり、独り占めは許せませんね」

「あなたったら」

 二人は肩を寄せ合い、小さく笑みを零した。

 うたが言う。

「麓には巌勝(みちかつ)さんもいるし、何かと気に掛けて下さるし。毎月ね、手作りのジャムを届けてくれるの。余ったからとか言うけど…様子を見に来て下さってるのがバレバレで、本当、嬉しいやらおかしいやら。でもね、それがもうとっても美味しくて」

「…うた?」

 彼女の目尻に小さく光るものがあって、縁壱は、軽く首を傾けて憂いた。

「今だから言えるんだけど」

「はい」

「つわり酷くて。ヨーグルトしか食べられなかった時にね、巌勝さんがジャムを作って持ってきてくれたのよ」

「…」

「巌勝さん、何も言わなかったけど。瓶の底に数字が書かれててね。少し食べてから気付いたの。ひっくり返してみたら、携帯の番号で」

「…もしかして、兄上の?」

「多分そう。掛けたことないけど。涙が溢れたわ」

「そうでしたか…なんだか、申し訳ないです…」

「あなたにはあなたの仕事があるもの。分かってる、大丈夫よ」

「うた…」

「素敵なお兄さんね」

「それは! …はい」

 感極まって、一つ咳払いをする。うたが笑って身を寄せたのに、なんだか胸がじんわりと熱くなった。

 彼女は勝縁を見つめながら、

「巌勝おじさんのジャム、早く食べられるようになるといいわね…勝縁。君は、いろいろおじさんにお世話になってるのよ?」

 縁壱も一層眼差しが柔らかくなって、

「一字貰ったって話をした時は、それはそれは目を丸くしていましたね」

「そうね。その後の、」

「「嬉しそうな顔ったら!」」

 思わず笑声が高く響いて、勝縁が、う。と暴れた。小さな手足をゆっくりばたつかせ、身を捩ろうとする。

「あなたっ」

「ええと…」

 ぱち。と目を開けた我が子は、次の瞬間、素っ頓狂な声で泣いた。

「どうしましょう?」

「あは! 私が」

「あ。はい」

 どんな状況でも落ち着いているのは縁壱の得意な(いい)ところだ。

 うたに言わせればおっとりとしているだけのようだが、それでも、慌てず怒らず愛おしく見つめてくれる父親は、有難い。

 再び母親の腕の中に収まった勝縁は、泣き止みはしたものの、む~という顔をして、二人の笑いをまた誘った。

「…赤ちゃん?」

 そんな脇から、子供の声が届いて、心底驚く。

 縁壱はすぐさまそちらに見向くと胸に片手を当てて、一呼吸置いて、

「おやおや。回り込んでしまいましたか」

 きっと拝殿の脇を抜けて入り込んでしまったのだろうと、縁壱が一度、表の方に眼差しを投げる。

「継国神社へようこそ。いらっしゃい。…可愛いでしょう?」

 言いながら、縁壱はまた、少年に視線を戻した。

 臀部まである黒髪は裾が少し青みがかっていて、綺麗だと思った。ちょっとぼんやりとした感じの瞳も、同じ蒼だ。見ているとどこか懐かしい感じがして、

『どこかで逢ったことがありましたか…』

 記憶を弄る。だが、答えが出る気配は一向になかった。

 問いかけには「うん」と頷いた少年に、

「坊や、一人で登ってきたのですか? 親御さんは…」

「父さんは仕事。母さんは、兄さんのところ」

「そう、ですか…」

 彼はまだ、十(とお)位の子のように思えた。

 継国山(つぎくにさん)は六合目までは、ロープウェイがある。そこから先は――手入れをしてはいるものの――割と険しい山中を登ってこなければ、ここへは辿り着けない。

『朝一番にロープウェイに乗ってきたのかも知れませんね…子供の足で休み休み登るなら、それなりに時間がかかるものです』

「よくここまで来ましたね。一緒にお菓子でも食べますか?」

 縁壱の問いかけと表情に、神主のそれを見たうたが、そ…と立ち上がりその場を離れた。

 縁壱もぺこ。と頭を下げて横目で見送って、

「いいの? 神主さんって、暇なの?」

「ええと…そう言われると困ってしまいます」

「あはは」

「まあ、お詣りをして戻るにも、遅い時間になってしまいますからね」

「え? まだ昼過ぎだよ?」

「ここまで来るのにどれほど時間がかかりましたか?」

「……あ」

 少年も計算はできたようで、その顔が曇った。

 ロープウェイが稼働している時間には到底間に合わないと理解したところで、

「日暮れまでには、麓まで送ってあげますから。ゆっくりするといいですよ。せっかく登ってきたのですから」

「じゃあさ。お詣りに付き合ってよ。神社のお話、聞きたいな」

 縁壱は目を丸くして、少年をしばし見つめた。なかなか、そんなことを言う子供はいない。

『もしかしたら…何か話がしたいのかも知れませんね』

 彼にはまだまだ前途洋々たる気運を感じたが、一人で登ってきたことを考えれば、真意はそこにあるのかもと思えた。

「そうですね…」

『ちょっと、様子を見てみますか』

「僕、時透(ときとう)無一郎(むいちろう)。神主さんは?」

「縁壱。継国縁壱ですよ」

「縁壱さん?」

「はい」

 呼び掛けに微笑みながら頷くと、縁壱は立ち上がった。

「拝殿の方でお待ち頂けますか? すぐに行きます」

「はあい!」

 無一郎が駆け出すのを見送って、縁壱は、足早に出入りへと向かった。


 本殿から正装した縁壱が現れると、観光客達とは違い、桜町(さくらまち)の顔馴染みは笑顔で、「こんにちは」と声を掛けてくれる。

 その誰にも等しく挨拶を返しながら無一郎と合流すると、

「縁壱さんて、やっぱり偉い人なんだ?」

 見上げて言われた事に、苦い笑みを零した。

「それはちょっと…違います。ここの神主なだけで、後は皆さんと同じただの人間ですよ」

「ふうん?」

 余り納得はしていなさそうな顔付きだ。

 詳しく話すにしても説教になりそうで、やんわりと笑顔で躱した。

「ま、いっか」

 果たして無一郎が何をどう収めたかは分からない。歩き出した後ろに付いていくと、

「どこから巡ればいいの?」

 振り向いて尋ねてきた顔は、もう明るかった。

「では拝殿(ここ)で手を合せてから、順番に案内しましょうか」

「うん!」

 賽銭箱(さいせんばこ)の前まで回り込み、二人一緒に両手を合わせる。先に祈り終わった縁壱が隣を見た時、無一郎は、熱心に何事かを祈り続けていた。

『やはり…』

 そっと見守る。

「お待たせ」と言った彼には、「はい」と笑顔で答えた。

 それからは話をしつつ、宝物殿(ほうもつでん)や神楽殿(かぐらでん)、細々としたお社(やしろ)や庵(いおり)などを案内する。

 人気のない、奥の八幡宮(はちまんぐう)まで案内したところで、無一郎が突然言った。

「僕ね、継国神社のお話を聞いて登ってきたの」

「お話、ですか」

「縁壱さん、死んだ人間しか助けられないの?」

 それは余りにも唐突すぎて、縁壱の足が止まった。何となく、その後に続く言葉を想像してしまう。

 無一郎も数歩先で立ち止まり、こちらを向いた。

 無表情だったが、それが返って胸に刺さる。

 側に寄ると、両膝を付いて彼の手をそれぞれに取り、見上げた。

「人には、できることとできないことが、あるものですよ」

「…うん」

「お話を聞くことは、私にもできます」

「うん…」

 無一郎の双眸に涙が溜まった。下唇を噛んで俯く。反動で、大粒の雫が幾つも落ちた。

 縁壱は掴んでいた手を添えるだけにして、ふんわりと包んだ。すると、無一郎の片腕が上がって、強く目元を拭った。

 嗚咽を必死で堪えようとする無一郎を、ただただ見守ると、やがて、包んでいた方の手が開き、指を絡めてきた。小さなその手に胸の奥を貫かれた気がして、縁壱は、そっと、絡み直した。

 歩き出した彼に最初の一歩は引かれて、縁壱も立ち上がり、歩き出す。繋いだ手の温もりに、何があったのだろうと思い始めた。

「僕の兄さんね、病気なの。心臓病だって」

「…」

「どなーが見つからないんだって。このままだと、死んじゃうって母さんが言われてたの、聞いちゃった」

 無一郎はまた、口を閉ざした。

 ちら、と見ると、また、歯を食いしばっていた。だが、先へ進む歩みが止まることはない。もう少し行くと、関係者のみが通ることを許される神院(しんいん)の前に至る。継国山は頂(いただき)へと向かい、日輪(にちりん)と月輪(がちりん)を拝む、舞殿(まいどの)があるのだ。


 舞殿へは、二つのルートがある。


 継国神社(こちら)から行く場合は南ルートだ。元々は野生だった色とりどりの山躑躅(やまつつじ)を、縁壱が手を入れて、丹精込めて育て仕上げた道だ。

 それまでもそこは、晩春になると一斉に花を咲かせて、神社の者達を喜ばせていた。神社の伝承では、遙か昔から、舞殿は、『躑躅(き)の宮(みや)』と呼ばれていたようだ。

 実のところ、観光客も、継国山の頂を遠巻きには眺め、舞殿を拝することはできる。それが二つ目のルート、北道(ほくどう)だ。

 今では本格的な登山道として知られる道だが、元は修験道(しゅげんどう)だった。険しい岩場が続き、切り立った崖も多く、継国山域…特に北ルートは、登るなら、県警へ計画書を提出することが義務づけられている。

 岩壁の隙間には山椿(やまつばき)が逞しく生え揃い、冬になると、無数の真っ赤な花がぽとりと雪岩(せつがん)に落ち、人々を魅了した。椿の花落ちは昔から首切りに喩えられるが、継国北道では、岩場を登る修験者達の命を数多く奪ってきたことから、こちらから拝する舞殿は『椿(し)の宮(みや)』と呼ばれている。


『関係者以外 立ち入り禁止』


 札と鎖が行く手を阻むところまで来て、無一郎が止まった。

 縁壱も半歩遅れて立ち止まり、手を離して振り返った無一郎を見た。

彼は両手に拳を握り、

「継国神社(さん)なら、兄さんを助けてくれると思ったの。でも…でも!」

 声を震わせた。

「僕まだ、兄さんと外で一度も遊んでない。兄さん…産まれてから、ずっと、病院なんだ。一度も外、出たことないんだよ。そんなのって、ある?」

 次第に熱を帯びてきた口調に、縁壱は、かける言葉がなかった。

 見つめた瞳の奥に、揺らぐ炎が見える。

「不公平だよ!」

 無一郎は、身を軽く折って叫んだ。

「なんで僕はこんなに元気なのに、兄さんは病気なの?」

「無一郎…」

「父さんも母さんも、兄さんのために必死で働いて頑張ってるんだ。なのに、神様は助けてくれないの?」

 縁壱は、ゆっくりとその場にしゃがんだ。誰でも一度は思うことを、もっと底深いところから絞り出すように言った彼に、抱き締めることしかできない。

「無一郎…すみません…」

 蚊の泣くような声になった。

 途端、少年は、声を上げて泣きじゃくる。縋るその身を更に強く抱き締めて、縁壱は、沈痛な面持ちで瞼を伏せた。

 兄がいなくなる辛さは、痛いほどよく分かる。

『どうにかしてあげたい…』

 思うが、死者の魂を導くことはできても、生者のそれは、…禁忌だ。閻魔(えんま)への報告と説得が必要になる。

「無一郎」

 縁壱は、少しずつ身を離して彼の肩を掴み直すと、正面から見つめた。

「兄君のところへ、戻りましょう。少ない命なら、傍にいないといけません」

「やだ…やだよ! 死ぬの、見たくない!」

「ええ。ええ…そうですね。ですが、兄君も同じくらい…きっと、辛いはずですよ」

「!」

「貴方を残して逝くこと。哀しみの深さは、同じなんです」

「縁壱さん…!」

「一分でも、一秒でも、兄君の手を取って、ありがとうって伝えてあげましょう。きっとまた、逢えるように」

 再び泣き崩れた少年を、縁壱もまた、抱き締めた。

 祈るように二人を思った時、漆黒の帳に蛍が一頭、消え入りそうな光を点し、虚空へ舞い上がったように思えた。

 麓と言わず、せめて病院まで送ってあげようと、縁壱は思った。

・壱・~躑躅の章~: テキスト
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