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第参話:双子

・壱・
 ~椿の章~

 抱えた紙袋からフランスパンが頭を出して、存在を主張していた。時折鼻を近づけて、香りを嗅ぐ度に巌勝(みちかつ)の顔が穏やかになる。

『帰ったら、早速煮詰めないとな。オレンジ』

 時間のある時でないと、こだわりの物は作れない。もう、一年も前から季節の果物を使って作り続けていることだ。手作りのジャムなら添加物も入っていないし、彼女も喜んでくれる。

『何がきっかけになるかなんて、分からないものだな』

 意外と料理が性に合ってると気付いたのは、その頃だ。かつても生きるために余儀なくされた状況にあって、料理はよくしたものだが…必要だからやっていたのだと思っていた。

 それが今や、だ。

 紙袋の中を覗き込んで、足取りはまた、軽くなった。久々にゆったりとした休日だった。

 古書堂の近くまで来る。

『さて。と…』

 鍵をポケットから取り出そうとした時、一切の動きが止まった。

 佇む人影に小さな溜息が漏れる。『依頼主』と言うものは、全くこちらの予定など気にかけてはくれない。

『作るのは今度か…』

 諦めかけたが、そのなりを見て小首を傾げた。まだ十前後の子供だが、

『随分綺麗な身体だな…』

 病院で亡くなったのだろうか、真白いパジャマだ。汚れ一つない。半袖長ズボンに裸足だが、その顔も含めて、傷一つなかった。

『あの顔…あの髪、どこかで』

 長い黒髪。裾が少し、蒼い。横顔をまじまじと見て、記憶が引っかかった。どういう訳か、余り好ましくは無い感情が湧いた。

『初めて悲鳴嶼(ひめじま)や玄弥(げんや)に逢った時と…同じような感覚…』

 喉が渇く。

 鼓動が早くなって、努めて気を鎮めた。

 覚えた感情を繙(ひもと)くために、もう一度、よく見る。

「…」

 その面差しも確かに見覚えのあるものだった。が、しっかり見ると、少し何かが…違う気がした。

 それが雰囲気だったのか、表情だったのか、或いはそもそも他人のそら似なのか。分からない。ただ、違和感だけが渦を巻いた。

 見るからに、大切に育てられた感じもした。

『満たされて、亡くなったんじゃないのか…』

 気持ちが整うと、依頼のことを考えた。

 何らかの病のせいだろう、痩せこけてはいるが、顔付きは十二分に幸せそうだった。一体何をそれ以上望むのか、疑問が湧いた。

『年齢を盾にされたら最後だな…』

 頭を掻く。

 仕方なく歩を進めると、相手も気付いた。

 こちらを向いて、腰を折ってしっかりと辞儀をする。

「…」

 礼儀正しさに驚いて、また足が止まった。

『こんにちは』

「!」

 しっかりとした発音だ。耳にちゃんと聞こえる、歯切れの良い声。まるで生きているようだ。

『俺の名前は時透(ときとう)有一郎(ゆういちろう)。十一歳です』

『! 名乗った!?』

 大きく心臓が波打った。死人に。そんなはずはない、と、二言三言が脳裏に浮かぶ。ところが、

『ん? 時透? 時透…あれ。誰だったか…』

 聞き慣れたような名字を反芻した時、早鐘を打つように鼓動が脈を刻んだ。

『時透…有一郎。有一郎……あ!』

 何度か名前の方を繰り返して、思い出した。

 現世でこそ繋がりなどもうないだろうが、あの頃は。確かに。見てすぐに分かったものだ。

 己が末裔(まつえい)と――――。

『死者が名乗るだけでも罪深いのに、面倒に巻き込まんでくれ』

『何? 無視?』

 固まったまま動かなくなった自分に、相手が口の端を上げた。おおよそ、子供がする表情ではない。

「随分、ませてるな」

『よく言われる』

 だが、あの頃遭った少年は、『有一郎』ではなかった。それが違和感の答えだろうとは思ったが、目の前の少年とあの頃の彼がどんな関係なのかは、判然としない。

「何か用か」

『違う! 間違えた』

 言ってから、頭の中だけで悶えた。つい、いつもの調子で訊ねてしまった。もう一人の自分が脳裏で頭を抱えて天を仰ぐ。現実はげっそりと、肩を落とした。

 仕方なく、脇に並ぶ。

 古書堂の扉の鍵を開けて、中に入った。

 薦めた覚えはもちろんないが、訊ねた覚えはある。ちゃっかり後に続いて入ってきた彼を、責めることはできなかった。撃沈した。

 さっさとカウンター奥のキッチンへ向かう。買ってきた物を手際よく冷蔵庫等へしまい始めていると、

『累(るい)くんから、ここへ来れば願いが叶うと言われて』

「…意味が分からん」

『手鞠唄(てまりうた)の子供。捜しているんじゃないの?』

「!」

 動きが止まった。

 思わず、彼の方を見る。

 腕を組んでにやりと笑った相手は、かつての記憶も相俟(あいま)ってしまい、心底タチの悪いガキだと思った。

『ねえ、おじさん』

「おじさん…」

 ずしりとくる。

 舌打ちしつつ、開きっぱなしにしていた冷蔵庫への片付けを終える。勢いよく閉めた扉の音は、邪険になった。

『俺の願い、叶えてよ。そうしたら、手鞠唄の子供のこと教えてあげる』

「いい性格してるな、お前」

『だってそうしなきゃ、俺の願いなんて、聞いてもくれないでしょう?』

「…」

『そう言う顔してる、今のおじさん』

 巌勝の目が据わった。

『いっぺん地獄を見てこい! あ、いや、もう死んでるんだったか』

『小さな子供相手にムキになるとか。まだまだだね』

「っ…」

 思った罵声を浴びせそうになって、咄嗟に、巌勝は目を逸らした。

 長い息を吐いて、気を落ち着かせる。流石に、『大人げないな』と思った。

「お前…。生前、いい子ちゃんだったんだろ」

『……』

「俺に当たるな。それと。俺は取引はせん。調べようと思ったら、いくらでも伝(つて)はある。別に答えが欲しいわけじゃないんだ」

『へえ…』

「もう帰れ。俺の方はお前に用はない」

 言って、巌勝は、フランスパンとオレンジだけが残った紙袋を抱えた。厨房を抜けて、中庭に出る。

 有一郎は一度古書堂に入ってしまったのだ、壁などすり抜けることは可能と知りながら、巌勝は、勝手口の戸に鍵をかけた。音が何を意味しているかは、ませたあのガキなら分かるだろうと思えた。

 だがしかし。

 有一郎が後を付いてくる気配はない。

「…」

 ほっとして、気が抜けたような。

『あの一言が効いたか?』

 思い至るが、自宅の鍵を開けて中に入ると、それもどうでも良くなった。

「さて。作るか!」

 古書堂と違って、こちらは対面式の広いキッチンだ。紙袋を傾けて豪快にオレンジを転がすと、フランスパンを紙袋の上に置く。入念に手を洗ってブレッドナイフを取り出すと、端から端までそれは正確に均等に、一センチほどの厚さに斜めに、カットしていった。

 添えてくれたパン用の長い袋に、カットしたそれを丁寧にしまう。輪郭だけなら元の形に戻ったフランスパンを見て、自然と顔が綻んだ。巌勝は、満足げな様子で鍋やら砂糖やらを、用意した。


 煮込んでいる間、溜まった新聞に目を通す。

 古書堂が気にはなったが、こちらに来ようと思えば来られるはずだった。巌勝が、扉を開けて中に招いたからだ。

 古書堂には元々、縁壱(よりいち)が結界を張っている。巌勝が中にいるなら縁壱の結界が選別をしない限り、また、閉まっているなら巌勝が扉を開けて招かない限り、入ることは叶わないようになっているのだ。

 最初の一歩を阻む結界も、一度扉を通って風鈴に認識されると、後は自由なのだった。巌勝自身が余程相手の見極めを違えない限り、そうそう縁壱の力を抑えて勝手に入ることなど、できはしない。

『諦めたか…』

 ちょっと酷だったかな、とは、ちらりと思った。

 だが、決して便利屋をやっているわけでもなければ、名乗りを上げて『お悩み解決します』と言い放っているわけでもない。

『だからこそ、あの手鞠唄がクソむかつくんだ!』

 有一郎との会話の名残か、言葉汚く、巌勝は、そう思った後で自身に腹を立てた。やり場がなくて、立った腹を横にすべく、煮立った鍋をぐるぐるとかき回す。すぐにオレンジの甘酸っぱい薫りが鼻腔を擽(くすぐ)って、

「お」

 顔付きが変わった。腹の虫も、出来映え上々ならまあまあ。収まるというものだ。

 少し離れた食器棚に、瓶を取りに行く。

 きっちり形や素材毎に並べられたそこから、密閉用の円柱の瓶を二つほど取り出す。傍には、色とりどりのメモ紙が積み上げられていた。

 つい、一枚を手に取った。

『いつもありがとう、巌勝さん。

 やっぱり苔桃が一番美味しいわね! ご馳走様でした。  うた』

 顔がにやける。

 そっと、手にしたそれを元の場所に戻した。溜まった紙は、もう、十枚以上に及んでいた。

『縁壱も、なかなかお社(やしろ)から離れられないからな…。とにかく、あれから何事もないし。無事に生まれて良かった』

 ――結局、その日、有一郎が自宅を襲う気配はなかった。

 夜も更ける頃にはすっかり忘れ、眠りに就く。

 だから、明け方、

『重たい…』

 と目を開けた腹の上に、彼が正座をして乗っかっていたのを見た時は、巌勝は、それはもう頓狂な声を上げて、暴れたのだった。



 バターをたっぷりと塗って、こんがりと焼いたフランスパンの一片に、昨日作ったジャムを乗せる。

「食べるか?」

 できたそれを有一郎の眼前に持って行くと、

『嫌味?』

「分かるか。分かればいい」

『あのね、俺、まだ死んでないの。病室にそれ、持ってきてよ』

「あっそ。はいはい。……は? 死んでない?」

 巌勝の手から、パンがゆっくりと落ちた。

「あああっ」

 テーブルにべっとりとジャムが付いて、巌勝が慌てると、有一郎が笑った。

「ったく! お前のせいだぞ、何度も驚かせるな」

『色々凝り固まってるのが悪いんでしょ。歳なんじゃない?』

「お前本当に十一歳か。中身はお前こそ爺(ジジイ)だろ」

『このハリツヤが見えないの? おじさん肌くすんでるでしょ』

「き さ ま…!」

『ほら。早く拭かないと乾燥するよ?』

 震える拳を握り、巌勝はシンクに向かう。背中に有一郎の笑い声と視線を感じたが、もう、無視するのが一番と思えてきた。

 だが、悪意ある笑声はやがて収まり、絞った布巾を手にテーブルに戻った時には、

『謝るよ。ごめん』

「今更」

『もう、死ぬんだ。だから、最期に無一郎(むいちろう)たちに、ありがとうって言いたいんだよ』

「その性格じゃ無理だな」

『分かってるよ。だから、助けて欲しいんじゃないか』

「あのな…!」

 散々こちらを振り回しておいて、とは思った。が、出てきた名前に、

「無一郎…」

『俺の弟だよ。双子の』

「! そうだったのか…通りで」

『何? 無一郎のこと、知ってるの?』

「どうだろうな? 知ってると言えば知ってるし、知らんと言えば知らん」

『よく…分かんない』

「世の中、お前が思うほど単純じゃないってことだ。生きてる人間もな」

 巌勝は、溜息交じりでテーブルを拭いた。

 じっと、有一郎が、その動作を見つめてきていた。

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