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第壱話:白詰草

・伍・
 ~躑躅の章~


 強い日差しから逃げるように、参道は隅の木陰を歩いた。不思議と境内に近付くにつれ、蝉時雨が大きく響くようだった。

 三の鳥居こと、境内の潜り門を越えて敷地を跨ぐと、


『継国(つぎくに)さん 継国さん…』


 手鞠唄が聞こえた。

 刹那、カナエが悲鳴を上げてしのぶに抱きつく。

「暑いから!」

 無情にも、妹は姉を引っぺがして長々と溜息をついた。

 縁壱(よりいち)が姉妹を見て微笑んだ。肝が据わっているのか鈍感なのか、表情からは、しのぶには読み取れない。

 縁壱が言う。

「見えますかね? 手鞠唄の子供」

「ええ」

 しのぶは頷いた。

 カナエもしのぶの視線の先を追った。残念ながら彼女にも、見えてしまうのだ。

 二人は順に告げた。

「真白い髪の毛の男の子…。内巻きの、少し癖のある髪…」

「蜘蛛の巣のような柄の青白い着物を着てる。顔には赤紫色の斑点があるわ」

「…こっち向いた」

「見ないでえ!! ごめんなさい!」

 カナエが叫んで何度も頭を下げる。

 姉の姿に呆れて言葉を失った妹を見ながら、縁壱は、

『なんで私には見えないのでしょう…』

 いつも思うことをまた、思った。

「こっちに来いって」

 しのぶが言う。

「カナエさん」

 縁壱は優しく言って、カナエの手を引いた。

 こうなると、歩かないわけには行かないのだろう。引かれるままに後を付いてくるカナエを少し見つめて、縁壱は、急いでしのぶの後を追った。

 足早に、境内を抜けていく。踏みしめる砂利の音が蝉時雨に重なった。汗が噴き出るようだった。

 しのぶの背中を追いながら、

『迷いがないですね…』

 恐らく、手鞠唄の子供が誘導しているのだろう。神社の本殿の脇をも抜けた。裏山は少し薄暗い、林道の中に分け入っていく。このまま行くと、三輪山(さんりんざん)の登山道に合流してしまう。

 が、登山道(そこ)までは行き着かず、道を逸れた。瞬く間に鬱蒼と藪が生い茂る山林に飲み込まれた。時折背の高い杉の木立を抜けて、蝉の大合唱が響く深淵まで分け入る。

 どれだけ歩いただろう。強い日差しを跳ね返す鮮やかな緑が、風に揺れて葉擦れの音を響かせていた。

 突如、前を行くしのぶの足が止まった。

「…消えたわ」

 言って、彼女は、決意したように踏み出した。二三、藪を両腕で強引に掻き分けて歩を進める。麗しい白い肌に、朱く滲む擦り傷が幾つもできた。

「しのぶ!」

 心配になったのだろう、カナエが繋いでいた手を放した。迷いなく、しのぶの後を追った。

 縁壱も、勿論後に続く。

 纏わり付く背の高い葉を押しのけて視界を得る。と、間を開けて佇立しこちらを見ている二人の足元に、二畳分ほど敷き詰められた、クローバーを見た。白詰草が、微かに揺れている。まるで白い波のようだった。

『白詰草…?』

 春の野の花だ。目に見えると言うことは、これは現実なのだろう。

 立ち止まった縁壱に、しのぶが口を開いた。

「小さな女の子が真ん中で蹲って泣いてる」

「あの、鬼役の子だわ。…縁壱さん」

 カナエが続いた。が、

「あ。待って。もう一人…老婆?」

「お婆さんが…こちらを見て深々とお辞儀をしてる…」

「女の子の頭を撫でてる…なんか…。もう大丈夫だよって。言ってるみたい…」

 矢庭に、カナエの携帯が鳴り響いた。

「ひぃぃいいい!」

 あるまじき声を上げて、カナエが飛び上がる。

「心臓! 心臓止まるかと思ったわ!!」

 画面を見ながら毒づいて、「もしもし!」と怒声を森に響かせた。

『あ。胡蝶・姉か』

「なによその言い方! 死ぬかと思ったのよ!」

『知るか。縁壱はいるか』

「ああもう!」

 カナエは文句を飲み込んで、腕をブンと振り回すと携帯を縁壱に向けて渡した。

「巌勝(みちかつ)さんからっ!」

 少し目を丸くして彼女の一連の動作を見ていた縁壱は、受け取ると、嬉しそうな表情になった。

「兄上」

『縁壱か。…どうやら『死渡(しと)』の案件みたいだな?』

「そのようです。少し、途方に暮れてしまいそうなところでした」

『タイミングが良かったか。どんな状況なんだ』

 縁壱は、今目の前の状況のみを伝えた。兄のことだ。これまでの経験上、いつも、こちらの進展よりも先を進んでいる。ともすると、答えに行き着いていることもあるのだ。

 果たして、

『その老婆が、今回の俺の『依頼主』だ』

「鬼役の子の方ではなくて…?」

『ああ。実は今、松下家(まつしたけ)に向かっている』

「松下家…確か、紅葉(もみじ)さんの親友の」

『紫里(ゆかり)だな。今隣にいる。パトカーに乗ってるんだ』

「! 犯人は、まさか、父上…?」

『まだ分からん』

「どういうことですか…」

『悪いが縁壱、今少しこのまま待てるか』

「あ、はい」

『松下家に着いた。庭を確認してくる』

「?」

 通話の先に、巌勝の高級そうな靴音が聞こえた。後に響いてくるのは複数の足音だが、やや雰囲気の重いそれがある。恐らくそれが、紫里なのだろう。

 先に行冥(ぎょうめい)が来ていたのだろうか、巌勝が話しかける声が聞こえた。そのまま会話が続くのかと懸念したが、杞憂だったようだ。紫里を引き渡すと彼はまた、携帯に意識を向けてきた。

『確認した。…そこに咲いているのは、間違いなく、白詰草だな?』

「ええ…」

『松下家(こっち)の花壇もだ。白詰草が咲いてる。花壇一杯に』

「……」

『紫里の話によれば、幼い頃紅葉と一緒に遊んだ想い出の野の花だそうだ。花の冠を作って貰ったらしい』

「白詰草の…」

『ああ。白詰草の花言葉。知ってるか』

「花言葉?」

 縁壱は思わず、胡蝶姉妹に視線を投げた。

 携帯の口元もそのままに、

「白詰草の花言葉、ご存じですか?」

 問いかける。

 しのぶがすぐに答えた。

「約束。…転じて、復讐」

「兄上。…聞こえました?」

『聞こえた。約束は恐らく、老婆と紫里、或いは、老婆と紅葉。まあ、いろんな状況が考えられるな。今後、取り調べで分かるかも知れん』

「…復讐は」

『恐らくだが…そこに行き着くまでに、事件は片付いたと見ていいんだと思う』

「蹲って泣いている彼女が、もしかしたら…そのまま復讐の悪鬼に…」

『ん。なっていたかもしれんと言うことだ。だがその前に、老婆が見つけた。ずっと話を聞きながら、傍にいたんだろう。老婆は、紫里の祖母だ』

「!」

『事件があった六年後、亡くなったらしい。老婆と紫里は紅葉が行方不明になってから、約束を一つしててな。それを、紫里はずっと後悔していた』

「その内容って?」

『父の駿介(しゅんすけ)が、庭に埋めた物を忘れる…見なかったことにして幸せになる、という約束だ』

「それは…!」

『庭に咲く白詰草は、抜いても抜いても生えてきたそうだ。除草剤を撒てもだ。年を重ねる毎に、紫里はそれが庭に埋めた物のせいだと思うようになっていった。そうして、どうして自分だけが幸せになれるものかと、紅葉の笑顔が重くのし掛かっていったそうだ。傍で見ていた祖母も、果たして交わした約束は正しかったのかと思うに至ったに違いない』

「そうして、亡くなった後、紅葉さんを捜して…」

『そうだと思う』

「兄上。それでは、この白詰草の下にあるのは…!」

『ん…』

 通話の向こうで、小さく頷き言葉を失った、兄の消沈する様子が窺えた。縁壱も自然と言葉を失った。

 そのうち、巌勝が言った。

『もうそろそろ、着くぞ』

「え…?」

『こっちの庭からは、腐食した血がべっとりと付いた、肉切り包丁が出た』

「…」

『すぐ鑑識に回ったがな』

 その時だった。

 複数の声がする。こっちだ、と、一人が呼び掛けながら真っ直ぐこちらに向かってくる声だった。

 縁壱達は顔を見合わせる。

 藪を掻き分けてきたのは、行冥の同僚達だった。恐らくカナエの携帯のGPSを追跡したのだろう。

「継国さん、お疲れ様です!」

 一人が敬礼する。

 縁壱もぺこりと頭を下げて、携帯に耳を傾ける。

『縁壱。お前の方の依頼は完了。だろ?』

「あ、はい…!」

『実は、俺の方は終わっていない。頼みたいことがある』

「…なんでしょう」

 縁壱は、哀しげではあったが少し安心したように、そうして納得したように、

「分かりました」

 首を縦に、一度振った。

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