第壱話:白詰草
・肆・
~椿の章~
それは、突然のことだった。
よく覚えている…。
プロジェクトリーダーを任されたのが八月も末のことだった。下半期の目玉だからと、九月の決算は気にしなくていいと言われたんだ。
一月掛けて準備を進め、十月から本格的にプロジェクトが始動した。あいつは…その一ヶ月の間に自分に仕事の全てを引き継ぐと、退職したのだった。
原因は分かっている。引き留めたかったが、できなかった。だってそうだろう。もし…! って、誰でも考えるはずだ。
そして、突然。それは、話しかけてきた。
「一番得したのって、貴方ですよね?」
心臓が文字通り跳ね上がった。
会社帰り、呼び出された先の喫茶店で、前触れも無くそう言われた。何が言いたいのか…何を指しているのかは、確認するまでもない。心当たりがありすぎた。しかし、頷いてしまっては相手の思うつぼだろう。
黙り込んだ。
気を紛らわそうとティーカップに伸ばした手が、震えていた。思わず、出した手(それ)を引っ込めた。
「僕、来年度転勤するんですよ。これ、預かってもらえます?」
小さめの紙袋が、卓上に置かれた。
何が入っているのか、分かった気がした。
『受け取れるわけがない』
思うが、相手の底知れぬ微笑みに身の毛がよだつ。ここで断ったら…と恐怖に怯えた。
「ありがとうございます」
彼は、心底嬉しそうに笑った。
立ち上がり、
「じゃ。余計なことをしなければ、もう、一生、逢うこともないでしょう」
そう言った。
確かに、そう言った。
『これさえ始末すれば』
そう思った。早鐘を打ったように鳴り響く鼓動を、紙袋を見つめながら耳に聞く。合間に、相手の遠ざかる靴音が響いた。
次第に俯いて、動けなくなった。流れ落ちる冷や汗を拭うこともできず、どれだけの時間が経ったのか分からない。
矢庭に、紙袋を掴んで席を立った。
鋭い動作に周りが視線を投げてきたが、構っていられなかった。足早に店を出た。
途中、手にしたそれを、棄ててしまおうかと思った。
『だけど。もしこれが…』
思ったら、また、動けなくなった。
「竹井……」
親友だった。
かつては。
高校時代から続けていたラグビーを、同じ大学に進学しても、同じ会社に入っても、一緒に続けた。その頃はもう趣味の範囲だったが、…うだつが上がらずいじけて心がひねくれるまで…共に。フィールドを駆け巡った。
「竹井…!」
地に突っ伏した。
涙が止まらなかった。
十二時(午の刻)を少し回ったところで、古書堂に着いた。鍵を取り出そうとスラックスに手を伸ばしたとき、スマートフォンがけたたましく鳴った。
画面を確認し、「あ」と一言漏れる。通話状態にしてから、鍵を回し受け答えた。
「どうだった?」
『その前に。お前…縁壱(よりいち)と話してないだろう』
「なんだ、あっちに先に掛けたのか」
『先に電話があったのは向こうだからな』
「ふうん」
対して興味もなさそうに言って、店内に滑り込む。
窓を開けて回りながら、
「で?」
と催促すると、それはそれは長い溜息の後で、行冥(ぎょうめい)が話し始めた。
『ったく…。まず、縁壱の方は父親の竹井(たけい)諒太(りょうた)から依頼があって動き出した。お前は…件(くだん)の通りか』
「ああ。娘の紅葉(もみじ)。…だと、思われる」
『なんだ、釈然としないな』
「ちょっと腑に落ちないんだ。もしかしたら、紅葉ではないのかも知れん」
『そんなことあるのか』
「だからお前に事件の内容を聞きたいんだ」
『なるほどな』
電話の向こうで、行冥の紙を捲る音が聞こえた。資料を纏めたか、必要な部分を手元に置いてあるのだろう。
『当時、重要参考人だった松下(まつした)駿介(しゅんすけ)は、何度か素直に事情聴取に応じていてな。だが、会社の関係者も彼も、アリバイがあったしそれを証明してたし。何より、一切証拠が挙がらなくて、結局未解決になったんだ』
言葉少なく頷いて、カウンターに寄る。席に着くと、じっと耳を傾けた。
『で、お前が気にした娘の紫里(ゆかり)だが。当時六歳で、親友の紅葉が消えたことに相当動揺していた様子でな。話ができるような状況じゃなかった』
「やっぱり、何も話してないのか」
『なんだ、十年経って何か出たか』
「いや、まだ何も。ただ、会ってきたんだ、あの電話の前に。で、お前に掛けたんだが…」
『分かった分かった! 俺が悪かった』
言い様に、巌勝(みちかつ)はくすくすと小さな笑みを零す。
巌勝は続けた。
「あの子。何か知ってるぞ」
『確かか』
「継国(つぎくに)の名前に怯(おび)えていてな。最初は不審に思って話を聞きに近付いたんだが…そうじゃなかった。あれは、もっと複雑な感情だ」
『…話を聞きに行け、と』
「俺も行く。あの子の父親がどうも曲者なんだ。でも、事件当時はアリバイがあったんだよな?」
『そうだ。丁寧な記録が残ってる。口裏を合わせるにしても…聴取に応じた人数が多いしな。まず、問題ないと思う』
「じゃ、やっぱり彼女が何を隠しているのか知るべきだと思う。話を聞いてほしそうだった」
『今古書堂か?』
「ああ」
『分かった、すぐに車をそっちに回す』
「待ってる」
『それにしても…因果だな。事件があったのは十年前の昨日だぞ。縁壱も、そこまで辿り着いてた』
「お前ら警察がもっとしっかり調査してれば、死人も動かないし、俺も今日眠れたんだ。お前のせいだぞ」
『お前なあ…』
呆れた行冥に、ふと、
「そう言えば」
巌勝が尋ねる。
「当の縁壱は何してるんだ。事件を追ってるんだろうが」
『縁壱の方は、胡蝶(こちょう)姉妹(しまい)が付いてる。そういや今どこにいるのかまでは、聞き損ねたな』
「あの姉妹もよく巻き込まれるな。毎度毎度」
『それも決まって縁壱の方にな。なんでなんだ?』
「分からん……」
『まあいい。寝るなよ? すぐ行くぞ!』
「分かった。店を開けておく」
『その言い草は…寝るな。本当、お前ら双子はマイペースだよ!』
ラストはもう、巌勝は聞いてはいなかった。
かかってきたのをいいことに、カウンターにスマートフォンを置くと腕を組んで目を閉じる。
あっという間に、眠りに落ちた。
ほんの、十五分ほどだ。
行冥に揺さぶられて目を覚ました巌勝は、眉間に皺を寄せて彼の後に続いた。二度目の外出は、行冥がイニシアティブを取ってくれる。行き先を告げた後、彼はまた、車の中で眠りを満喫したのだった。