第壱話:白詰草
・参・
~椿の章~
あれは、蝉時雨が耳を劈くほど五月蠅かった、夏の暑い日。
紅葉(もみじ)にとっては、初めての夏休み、初めての登校日だった。授業は午前中だけで、昼には帰宅するはずだった。
前の日の夜に、お気に入りの桃色のランドセルを磨いたらしい。余程お気に入りなんだなと思いもしたが、よくよく考えると、遊んでいる間は無造作に地面に転がっている。なかなかどうして、子供というのは不思議な生き物だ。
昼前であったし、その日は、まっすぐ帰るのだろうと思っていた。
だが、紅葉は、久々に会えた友達と思う存分遊びたかったみたいだ。学童でもよく散歩に行くという、三輪(みわ)神社へ、仲のいい友達と学校帰りに寄っていた。
そこは丁度、地区を跨ぐ神社だ。
紫里(ゆかり)の小学校の児童と、紅葉の小学校の児童と、どちらが境内をより広く使うかで、しょっちゅう揉めていたらしい。だが、紅葉が一言、
「一緒に遊ぼうよ! 人数多い方が楽しいじゃん」
と、あれよあれよと周りを巻き込んで遊び始めた。面白くないのは上級生だろう。力でねじ伏せることもできただろうが、結託した数が多ければ弱い方が強くもなる。結局、梅雨が明ける頃には、みんなで仲良く、なんて事になっていたそうだ。
こんな所も、父親そっくりだな。
って、思ったものだよ。頼もしいことと言ったら。
だから、話を聞いたときは本当に驚いたんだ。あんなに沢山の子供の目のある場所で、姿を眩ますなんて。誰も想像などしないだろう。思いもよらなかった。
子供達の話によれば、その日は、かくれんぼをしていたらしい。じゃんけんで、たまたま紅葉が鬼になった。
軽快に数を数えていた声が、突然止んだそうだ。
暫くして不思議に思った子供達が、各々顔を出してみたら…もう、姿はなかった。
忽然と、消えた。
誰も、何も、その空白の数十秒…いや、数分かも知れないな。子供達の話からではその辺は全く要領を得なかったが、とにかく、誰も、何も、見てはいなかった。
興醒めした子供達は、そのままその日は帰ったらしい。丁度お昼時だったし、お腹も空いていたからって、話していたっけ。紅葉もそんな理由で先に帰っちゃったんじゃないか、という話(こと)になっていた。
だが、そうではなかった。いつまで経っても帰ってこない紅葉を不審に思って、紗栄子(さえこ)が慌て始めた。電話を掛けたしかかってきたし。とにかく、手当たり次第思いつく場所を当たったらしい。
夕方には、紅葉がいた学区は、騒然となった。
血の気が引いた。まさか…そんな。紅葉が。本当に、紅葉が。
何もかもが、崩れ落ちていくようだった。今更瓦解するものなど、ありはしなかったはずなのに…。
式場を出ると、続々と人が集まる時間帯に当たってしまった。どうやらそろそろ、始まるらしい。
式場に向かう人混みに逆らう姿が奇妙に思えたのだろう、あちらこちらの視線を奪う。
『まあ、仕方ない』
奇異な眼差しを極力気にせず歩いて、会館の前のだだ広い駐車場を過ぎると、巌勝(みちかつ)は、敷地を公道側へ跨いだ。
『…いないな。今度こそ本当に、還ったか』
古書堂への道を歩き始める。少し距離があるため、バスでも使った方が早いかも知れないと、道路を挟んだ向こうにあったバス停を見て思った。
こちら側のバス停までもう少しと、歩きながら、会館への道すがら彼女と話したことを思い出していた。行き着いても、考えは纏まらない。
『死人というのは、肝心なことを話せないからな…』
無念を晴らしたいなら、その相手が誰なのか直接言ってくれれば簡単なのに、それができないのだ。
紅葉も、現れて依頼してきたのはただ二言。
『お父さんを、助けて下さい。お母さんに、会わせて下さい』
正直、これだけでは本当に意味が分からない。
その後の会話は、楽しかった思い出話になった。お蔭でどれだけ両親のことが好きなのかは分かったが、名前すら口には出せないのだ。
だから、お父さんには会わせてもらえるか? と尋ねたところ、会館へ連れてこられたという始末だ。
『さて。名字は分かった。母親の名前もな…。だが、会いたいと言った母親。敷地を跨げればまだこの辺りを泳いでる霊魂に会えるだろうに。…と言うか、母親が会いに来れば良かったろうが。折角娘が近くまで来たのに』
何故?
答えの出ない疑問だ。それに、と、巌勝はなおも思う。
『仏になれば地縛霊でもない限り、まあそこそこどこにでも行ける。会いたいなら母親が生きている間に会いに行けば良かったろう。なぜ、そうしなかった…?』
お互い死んでからではあの世の手続きが面倒だ。天国で会えるかなんて、誰にも分からない。
『こっちの話は縁壱(よりいち)の範疇なんだよな…』
巌勝は、片手を内ポケットに伸ばした。
『会えなかったのか? 紅葉は。いや…じゃ、あの服装は? 生前の記憶か? ダメだ、なんかこう…うまく繋がらん』
「仕方ない、先に一本入れとくか。ひょっとすると…」
先程会った、少女の言動が気にかかる。
『ん? そう言えば、彼女は紅葉の幼馴染みだって言ってたな? 六歳で行方不明になって…今日、俺が見たのが紅葉なら、彼女が死んだのはつい最近か? 十年もの間、何処かで監禁でもされていた…?』
取り出したスマートフォンの、履歴を開く。神社ばかりが並んでいるが、その先の相手を押した。
三コール以内に出るのはこの相手の特徴でもある。出ないときは、まず、間違いなく任務中だ。こちらも四コール目で切るようにしていた。
…繋がる。
「あ。もしもし。悲鳴嶼(ひめじま)?」
『なんだ。まだ午前中だぞ。珍しいな』
「一言余計だ。眠気を誘うだろ」
『ははは。…で? 手短に頼む』
「十年前になるんだが。継国(つぎくに)の管轄内で、行方不明になった女の子って、いないか」
『!』
電話の向こうで、息を飲む気配を感じた。
僅かな間を置いた後、
『これは、確定だな』
今度はこちらが、一瞬言葉を失う。
「縁壱か」
『縁壱から』
同じ名前が電話口で重なって、同じく笑声を立てた。
行冥(ぎょうめい)が言った。
『縁壱から朝一で電話があった。その件について、詳しく話を聞けないかって』
「…嫌な方へ向かい始めたな…」
『当時俺はまだ大学でな。さっき資料を漁り始めたところで』
「お前も暇だな」
『それが人にモノを頼む態度か。ったくこれだから継国兄弟は』
軽く笑う。
行冥もふんと鼻で笑うと、
『未解決の案件が幾つかある。多分お前が知りたいのはこれだろう…誘拐事件として捜査されたが、手がかりが全くなくてお蔵入りになった。被害者は竹井紅葉。当時六歳。夏休みの登校日に起きた事件だ。八月八日だな』
「八月八日…。今日、何日だ、確か」
『九日。重要参考人として挙がったのが、当時、彼女の父親の同僚で、名前は松下(まつした)駿介(しゅんすけ)』
「松下…! 娘がいないか? 紫里っていう」
『ああ、いる。それが紅葉と同い年でな』
「娘から話は聞けたのか。その当時」
『ちょっと待ってくれ。そこまでまだこっちは行き着いてない。お前が何を知ってるのかは…経験上聞きたくないが、』
「…ふ。察しの通りだ」
『南無阿弥陀仏…やはりそうか。まあ、少し待て。洗わなければこれ以上は分からん。お前以上にはな』
「分かった。折り返しお願いしてもいいか?」
『お前ら…ホント双子だな。やることなすことみんな一緒』
「…」
巌勝の顔が不機嫌そうになる。口を閉ざしていると、
『いいか、縁壱と話すことを薦める。ま・ず!』
「……」
『は・な・せ。いいな?』
「努力しよう」
『答えになっとらん…一旦切るぞ!』
最後は半ば悋気を感じたものの、あの言い様だと折り返しはくれるのだろう。
『なんだかんだと頼りになる。あの言い方はないけどな!』
何とも言えない顔でスマートフォンを内ポケットに仕舞い込んだとき、
「あ!」
だいぶ遠ざかったバスが目に映った。
話に夢中で、時計も通りも勿論バスも、確認するのを忘れていた。
慈悲はなく通り過ぎたバスの背面をぽつねんと佇んで見つめ、巌勝は、前髪を掻き上げた。
片手をスラックスのポケットに突っ込んで、とぼとぼと歩き出す。