第壱話:白詰草
・弐・
~椿の章~
あの頃、家庭は崩壊寸前だった。
口を開けばお互い罵るばかりで、それならと口を噤んでいたものだが。何が気にくわないのか、妻は文句ばかり言う。
夜ならまだしも、朝、そんな風に突っかかって来られると最悪だ。娘がいる前でも罵声は当たり前のように続いて、登校前だというのに、娘が、泣き出すこともしばしばだった。
大体、浮気の何が悪い。
お前のように顔を合わせれば文句ばかり言う女じゃ、家が遠ざかるのも当然だろう。俺をどうこう言う前に、お前は自分を省みたことがあるのか。
話は、いつも、堂々巡りだった。
間の悪いときと言うのは続くものだ。
家庭が先だったか、会社が先だったかは分からない。
だが、うだつが上がらないのは別に、俺のせいじゃない。運だったり、周りが凄かったり、…そう。あいつはどんどん出世していたっけ。そいつに全部いいとこを持って行かれるせいだったんだよ。なんで俺ばっかりそんな風に、罵倒されなくちゃいけないんだ…。全くもって、理解できなかった。
それが、あんなことがあってからだ。
一気に風向きが変わった。
確か、初めの一歩はプロジェクトリーダーの話だったと思う。本当はあいつがなるはずだった担当だけど、大変なことがあって仕事に集中できなくなったんだ。それで、役目が回ってきた。あいつが後押ししてくれたと聞いた。
そりゃ、無我夢中で頑張ったよ。あいつの代わりなんだし。準備していたのはあいつなんだ、推薦してくれた以上役目を果たさないと、沽券に関わる。いつ、あいつが戻ってきてもいいように、それはもう…必死だった。
すると。まるで憑き物が落ちたように、運が巡ってきた。
窓際にいた俺の立場は見る間に変わっていった。会社が上手くいけば自然と胸も張る。笑顔にもなる。夢中で仕事をしていれば、女のことなど頭を過ぎることもない。
家庭も少しずつ、まともになっていった。長い年月がかかりはしたが、元の鞘とはこのことだ。会社でも、今では部長だ。人事もほぼ思う通りに動かせるし、実家も改築して今じゃ立派なマイホーム。妻の文句も消えるというもんだよ。ったく、現金なものだよな。
ただ、庭だけはそのままにした。娘の要望で。祖母と遊んだ優しい記憶が残っているからなのか…それとも。
まあ、気の回しすぎだろう。
あんな惨めな子供時代を過ごしたんだ、今の裕福さを思えば、何も言えないはずだ。
ほーらな?
俺は悪くない。世の中、そういうもんなんだよ。
若草色のフレアスカートが、足取りに合わせて揺れる。後ろ手に組んだ指はまるで祈るようだった。
巌勝は溜息をついた。
漏れた吐息に彼女が気付いて振り返る。小首を傾げて微笑んだ姿に、若干うんざりした。徹夜明けで更に睡魔と戦うこちらの気など、我関せずといった感じだ。
やがて、通りに重たい空気が流れ始めた。
『…葬式か』
こういった場所へ導かれるのは、過去何度か経験している。
『果たして。今回はどっちだ…』
迷わず会館へ足を運んだ。こんなこともあろうかと、スーツで訪れて良かったと改めて思った。
前を行く彼女が突然立ち止まった。駐車場向こうの会館を見上げ、真顔になった横顔を見る。
何気なくその脇を通り過ぎて、一歩会館の敷地へ入ったとき、はっとした。軽く身を捩り彼女を見ると、
「これ以上は来られないか」
彼女が頷いた。
「分かった。中を見てくる。どれだけ時間がかかるかは分からないから、待たなくていい」
今朝方の仕打ちを思い出して、巌勝は苦笑った。
あの時。
話し終えた彼女は、満足して元いた場所に帰ったのだと思った。調べるのは一息ついてから、と、古書堂の扉に鍵を掛けようと歩み寄り、手を掛けたときだ。
『行けますか?』
出入りの扉の外に佇む彼女を見た。
「っ…」
心底たまげた。
『強引な奴だな…』
大きく息を吐いて、観念したのだ。
「待たなくて、いい。いいな?」
二度目は強めに言った。確認の問いかけもしてはみたものの、相手が頷く様子はなかった。
『まあ、消えたと見せかけて待たれているよりは、マシだが』
巌勝は踵を返し、会館へ向かった。
出入りに掲げられた看板に目をやる。
『故 竹井紗栄子 儀 葬儀式場』
式までは、まだ時間があるようだった。行き交う沈痛な面持ちの関係者達を眺め、さりげなく式場へ足を運ぶ。
「…」
旦那だろうか。膝に指を組んで俯いたままの男がいた。白髪交じりの黒髪の、痩せこけた男…随分、疲れ切った様子だと思った。
軽く辞儀をして、歩を進める。線香を上げて手を合わせ、遺影に目をやると、疑問符が浮かんだ。
『んん?』
風に靡く黒髪が美しい。
純白のブラウスに、若草色のフレアスカートだ。眩い笑顔。真っ直ぐな眼差しがカメラのレンズを捉えていた。のだが…、面差しは似ているものの、ここまで導いてきたあの女性ではない。
何しろ、三つ編みがどうにも幼さを際立たせていた彼女だ。写真とは、別人のように見える。
『と言うことは、今回は関係者か…ん? 関係者なら、彼女は何故、この敷地に入れない?』
巌勝は小さな息を吐いて、式場を後にしようかと身を翻した。
不意に、
「あの。よろしければ受付をお願いできますか」
初老の男性に話しかけられた。
「あ、はい。すみません」
たった二言話しただけだったが、俯いていたあの男が面を上げた。何気なく、目が合う。
だが、彼は程なくして、また、俯いた。
案内されるがまま受付に辿り着く。
『書く気はなかったが。…仕方ない、試すか』
巌勝は、山の上の神社の住所と、己が名前を草書体で流暢に描いた。見る間にその場に居た者達の顔色が変わる。
「継国さん…!」
かなりの小声だが、呟き、息を飲んだ一人がいた。
少しだけ面を上げて、その方をちらりと上目で見る。
小柄な女性だった。隣町の高校の制服を着ている。目が合って、彼女は俄に青ざめていった。継国の名に驚くことはあっても、怯えるなど、ただ事ではない。
巌勝は、作り笑顔になって、軽く辞儀をした。
知り合い? と、周りの者が彼女に話しかけたからだ。所作は十分功を奏したようで、彼女が首を横に振る暇を奪った。
「少し話をしたいのですが、彼女を借りても?」
巌勝が言う。
何をどう読み取ったのか、居並んだ女性陣が顔を赤らめひそひそと話を始めた。
『葬式だぞ。そんな艶っぽい話な訳あるか』
それに。と、ある女性が脳裏を過ぎる。
慌ててそれは脳内の隅にやった。周りの反応に内心で呆れながらも笑顔は絶やさず、観念したように口を噤んだ彼女を、受付から連れ出すことには成功した。
式場の脇の扉を抜けると、その先は、中庭だった。
日差しが強い。流石にその中へ連れ出すのは気が引けて、木陰になっているベンチを選んだ。
あまり大股にならないように気を付けて、前を行く。
黙って付いてくるところを見ると、息を飲んだ割には、それほどやましいことはないのかも知れないと思う。
巌勝は、先にベンチに腰を落ち着けると足を組んで、彼女を見上げた。
眼差しの意図を察したのか、隣に大人しく座る。早速、切り出した。
「俺の姓に聞き覚えがあるようだったが?」
大きく震える彼女を横目に見た。
「迎えが来たのかと…思いました」
「迎え?」
「昨夜、紅葉のお父さんが継国神社(つぎくにさん)へ行ったので…」
「!」
『縁壱の所にも話が行ったのか…それも、生きた人間の方が』
長い息を吐くと、彼女がこちらに視線を向けた。
「継国神社へお参りすると、罪を犯した人間はあの世へ引きずり込まれるのでしょう?」
「…なんだ、それは」
流石の巌勝も、苦い笑みを零して内容を質した。
「手鞠唄。この地方に伝わる…」
「ああ。あれは、継国の知らぬ話だ」
「え…?」
『本当に。あの手鞠唄はどこの誰が浸透させたんだ…。俺たちの正体を知ってるのか…?』
「それで? お前が罪を犯したとでも? 継国の祟りか何かでも降りてくると思ったのか」
多少冷淡な口調になった。
元より意識しないとそんな風になってしまうのだが、手鞠唄の事を考えれば考えるほど、冷たくなるのは致し方ない。己の関知せぬところで噂話を立てられることほど、気味の悪いものはないのだ。
「そういうことではなくて…。紅葉のお父さんが…」
「それは聞いた」
「……」
『うーん。いまいち話が見えてこないな…』
「名前を聞いてなかったな。俺は、継国巌勝。古書堂の店主だ」
今更ながら伝える。
彼女は少し驚いた様子ながら、一呼吸置いて、微かな笑みを浮かべた。優しいそれだった。
『彼女が何か、直接手を下したようには思えんが…』
「私は、紫里。松下紫里です」
「紅葉というのは?」
「同い年の女の子。竹井紅葉。もう…十年も行方不明ですけど」
「竹井…。もしかして、今日の葬式は」
「ええ。紅葉のお母さん」
「そうだったのか…」
「紅葉…とても仲が良かったの。桃色のランドセルがお揃いでね。嬉しくて…!」
途端、彼女が泣き出した。
ぎょっとする。思い出して泣くにしても、十年前のことだ。
『どれだけ思ってたんだ…』
これは。と、巌勝は思った。
その時、
「紫里!」
扉を開け庭へ飛び込むようにして、男性が現れた。
自分より二十も上だろうか、精悍な顔つきが逞しく、頼もしく思える。ただ、雰囲気は苦味が効いていた。
「お父さん」
隣の彼女が立ち上がった。心なしか、声が震えているように思えた。何となく引っかかって、立ち上がる。
腰を折り丁寧に頭を下げると、
「初めまして。継国巌勝と申します」
「…なんだ、娘に何か用か」
「少し昔話を」
「昔話?」
話せば話すほど、相手は、猜疑心が強くなる人間のようだ。あまり気分のよいものではない。
「もう終わりましたので。失礼いたしました」
父親(こちら)には、深くは関わらない方がいい。
そう、感じた。
二人の脇をすれ違い、数歩進んだところで、
「…継国さん!」
彼女に呼ばれた。叫び声だった。
疑念が脳内を飛んで、振り返る。彼女の顔色を見たとき、
『助けを呼んでる…? 何故…』
表情を理解はした。
だが、この父親の前では駄目だ。古本屋の店主にどうこうできる問題ではない。直感がそう働く。
「…また。紫里さん」
ゆっくり頷いて微笑んで見せ、その場を去った。
扉を開けて閉めるとき、僅かな間を置く。その隙間から、見た。
何事かを言い争い、娘の横面を思い切り叩く、父親の姿。
『なるほど』
己が取った行動も軽率だったと思う。
だが、流石にあれはない。
巌勝はそっと扉を閉めた。そのまま会館を後にした。