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​第壱話:白詰草


・弐・

 ~躑躅の章~

 林立する杉の木の合間に朝日が差し込む。大気の塵が光に照らされ輝き舞って、光の帯に華やかさを添えていた。

 凜と張り詰めた参道の空気も、気温の上昇と共に和らいでいくのだろう。

 ふと、

「朝のお散歩は気持ちいいわね~」

 カナエが隣を歩くしのぶに声を掛けた。

 朝は冷えて心地よい風が、時折彼女の長い髪を攫う。

「姉さん。状況分かってる?」

 二人きりになると、割とツン。としがちな妹が、口を尖らせて言った。カナエは小さく笑みを零して、

「分かってるけどぉ。折角の参詣じゃない、楽しまないと」

 語尾が弾んだ。

 しのぶが一言言ってやろうと口を開きかけたとき、

「おはようございます」

 カナエが、前からやってくる人影に気付いて声を掛けた。

 すれ違い様、男が静かに頭を下げる。

「…」

 覇気のない体にしのぶは声を失って、横目で彼を見ながら頭を下げた。

『死相が出てる…』

 無言で歩いて距離を置く。暫くして、一歩先を行くカナエが立ち止まり振り返った。しのぶも続く。

 男の姿はもう、見えなかった。

「継国神社に泊まったのかしら?」

 カナエが言う。

「そうでしょうね」

 吐き捨てるようにしのぶが言った。含まれた感情に、カナエが苦い笑みを零す。

「もう。そんなに怒らないでよ~、夏休みはまだ長いんだから。いいじゃない。ね?」

「今日はバイトお休みじゃない。映画に行く約束してたでしょ! それにね」

 再び歩き出しながら、しのぶは言った。

「古書堂。絶対一回寄った方が良かったと思うわよ!」

「しのぶぅ~」

「語尾を強調しないでよっ」

「ふふ!」

 口元に手を当て笑う姉をほっぽって、しのぶは足早に残る参道を登り始めた。

 やがて、規則的な音が耳に響いてくる。境内を箒で掃く、それだ。

「相変わらず朝早いわね~」

『人のこと言えないと思うけど』

 向こうだって迷惑でしょうよ、と、しのぶが再び毒づきそうになったとき、視界が開けた。

 山の更に高い嶺に向かって、急な石段が現れる。最後の難所だ。登り切るまでは、お社は見えない。

 石畳を掃いているであろう、竹箒の音だけが、自然の音に溶け込んでいた。

「姉さん。先行くね!」

 人気(ひとけ)のない早朝の神社は、静謐で心地いい。聞こえるのは鳥の囀り、風の音。擦れ合う杉の葉、朝露の落ちる音。

 まさかこんな朝早くに人とすれ違うとは思ってもみなかったが、きっと、今日の参詣は自分たちが一番乗りのはずだ。何しろ夜明け前の、ロープウェイの始発に乗ってきたのである。偶々今日は、自分たち以外に人は乗っていなかった。

『それでも。もう夏休みだから、すぐに人でごった返すわね』

 寺社の気配は人が行き交い始めると、宵闇を迎えるまでに少しずつ穢れていく。掃き清めても、神楽鈴の音を通しても、一日の雑踏をリセットするには夜の闇が必要になる。

 その営みを終えた、一番の、澄んだ空気。

 体中に取り込むことが、どれほど気持ちのいいことか。

 しのぶは階段を駆け上がる。大きな、朽ちかけた木造の焦げ茶色の鳥居を潜ると、

「縁壱さん!」

 さらには山門の向こう、境内を掃き清める神主に声を掛けた。

 明るい声色に、

「しのぶさん。おはようございます」

 ゆったりと、穏やかな声が返ってくる。

 動きが止まり佇むと、彼の傍らには雀らが寄ってきた。毛先が赫灼の長い髪に、雀が隠れて遊ぶ。

「おはよう」

 自分が側に寄れば、彼らは飛び立ってしまう。知ってはいるが、彼女はそっと、彼に寄った。

 飛び立つ小さな者達を、縁壱が見上げる。柔和な面だった。

『いつも穏やかだなあ…縁壱さん』

 傍にいるだけで、安らぐ気がした。

「早いですね。何か用ですか?」

「あ。うん。巌勝さんも。いる?」

「しのぶ~~~!」

 と、カナエが漸く登り切ったようだ。

 本題を切り出しちゃおう、と思っていた矢先だった。独占できず少し残念に思う。姉を振り返ったしのぶの耳に、

「折角ここまでお越し頂いたのに…。兄上なら今日は、町ですよ」

「えええっ!?」

 声を上げたのはカナエだ。膝に両手をついて息を整えていた彼女の顔が、反射で上がった。

「ほうら、だから言ったじゃない」

「行き違いにならないように、日が昇る前に登り始めたのに~」

 よりはっきりと、縁壱の顔が申し訳なくなった。

「昨日、麓で用事があって。終えたときには夜半でしたので、そのまま店の方に向かったのです。申し訳ないです…」

「縁壱さんは悪くないよ。姉さんいっつも私の言うこと聞いてくれないんだもん」

 しのぶが頬を膨らませて言うと、

「長男長女はそういうものです」

 縁壱が困ったように笑った。

「縁壱さんも苦労してるのね!」

 しのぶの言葉に、カナエの顔が何とも言えないものになった。

 次男次女は顔を見合わせ、くすりと笑う。

「話だけでも伺いましょう。…まだ少し時間ありますし」

「あ。忙しかった?」

「いえ…、大丈夫ですよ。時間になったら電話を入れたいだけなので」

 縁壱は微かに首を傾けて微笑むと、社務所に向かって歩き出した。

 姉妹が一歩遅れて後を追う。

 今日も一日、暑くなりそうだった。山頂近いここの日差しは、朝から既に強い。姉妹は何気なく、一度、東の空に太陽を拝んだのだった。





 とん しゃんしゃん。


 とん しゃんしゃん。



 手鞠が大地に当たる度に、鈴の音が響いた。

 幾度となく繰り返される音。

 弾む高さからして子供だろうと思われたが、ついている人の姿はない。

 ただ、そんな手鞠を眺めている子供は、いた。



 とん しゃんしゃん。


 とん しゃんしゃん。



 蝉時雨が耳を劈く。じんわりと汗が滲んだ。

 風鈴が鳴る。暑さが和らぐ気がした。

 手鞠だけが、目の前で、弾む。



 とん しゃんしゃん。


 とん しゃん……



 ころころ…と、地に、手鞠が転がった。

 あれほど五月蠅く鳴いていた蝉も、風鈴の音も、ぱたり。と止んだ。

 見ていたその子も、…消えた。



 話を聞き終えた縁壱は、

「で。誰がその光景を目撃したんです?」

「町の子。一緒にかくれんぼをしていて、鬼役の子が消えたみたいで」

 しのぶが言う。

「神社の賽銭箱の後ろに他の子と隠れていたらしいんです。友達と数を数えるのを聞いていたけど、声が止んだから不思議に思ったらしくて。こっそりみんなで覗いたら、手鞠が弾んでて」

「…」

「鬼役の子がそれをじぃっと見つめてて、ふ…と」

「まるきり、神隠しですね…」

 カナエが頬に手を当てて、

「麓の警察は誘拐事件として扱っているけれど、子供達は他には誰も見てないって言ってるようだし」

「内容が内容だったから、念のため継国神社(つぎくにさん)に話を通そうって町内会で決まったらしくて。うちに大人達が話に来たの」

「その…消えた子はどんな格好でした? 服とか髪型とか。子供達は見たのですよね?」

「ええと…しのぶ、覚えてる?」

「うん。確か、空色のワンピースって言ってたよ。白い花柄の」

「ああ、そうそう!」

 縁壱の顔色が微かに変わる。

 二人はそれには気付かず、彼の二つ目の質問を聞いた。

「鬼役で、数を数えていた声を子供達は聞いたのですね?」

「うん。いつもその神社で待ち合わせて遊んでるんだって」

 しのぶの言葉に、カナエが片手を頬に添えて首を傾ける。

「地区が違うのかしらねぇ。学校帰りにそこでって。その女の子、桃色のランドセルで結構目立ってたみたいで」

「桃色…」

「縁壱さん?」

 やっとしのぶが縁壱の微妙な変化に気付いた。

 縁壱は胸元に挟んでおいた、一枚の写真を取り出す。

 姉妹に渡しながら、

「この子では?」

「「あ!」」

 二人の反応が重なった。

「多分そう!」

 カナエが手を合わせて音を響かせる。

「三つ編みって言ってたわ」

「でも…姉さん。この写真、相当古いわよ?」

「え…」

 しのぶは真顔になっただけだったが、カナエの顔からは血の気が引いた。

「縁壱さん…?」

 確認するように写真から視線を外した彼女に、縁壱が何とも言えない顔で微笑む。

「十年前の写真です」

「「!!」」

「さて…困りましたね」

 縁壱の呟きに、カナエが悲鳴を上げてしのぶに抱きついた。

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