第壱話:白詰草
・壱・
~躑躅の章~
爪切りで切った欠片のような三日月が、天の頂を越えて西に傾き始めていた。薄紫のガスを滲ませた天の川が空を裂き、静かな夜半を照らす。
縁壱は、本殿の四隅に吊り下げられたガス燈の灯りのみ残して、後は消して回った。
梟の鳴き声が夜風に乗って響く。一つに束ねた長い黒髪がそれに靡くと、吹いてきた方を向いた。
本殿の渡り廊下から拝殿を望み、その向こうに広がる境内を見る。
遠く神社の出入りである山門を眺めると、黒い影がこちらに近付いてきていた。
日付が変わった頃合いだ。
こんな夜更けに、人が、継国神社(ここ)を訪れる理由は決まっている。
何しろここは、霊峰。継国。
標高二千メートル級の継国山(つぎくにさん)の、八合目にある神社だ。ロープウェイは日没前に止まる。後はもう、数時間掛けて麓から足で登るしかない。
『余程ですね…』
思うが、縁壱は、淡々と消灯して回るに留めた。
やがて本殿から拝殿へと足を伸ばす。こちらは全ての炎を消して回っている内に、室内から、賽銭箱の向こうに人影を見た。先程山を登ってきた者だ。頭を下げて、熱心に祈りを捧げている。
もう、齢は五十近いだろうか。過ぎているかも知れない。胡麻塩のようになった顎髭と、白髪交じりの乱れた黒髪に疲れが見える。山を登ってきたそればかりではないように思われた。死人のように目が窪んで、痩せこけた筋肉が痛々しい。死相が出ていた。
祈りの邪魔にならないように、足音を忍ばせながら室内の灯籠をも火を消した。視線に気付く。そちらを向いた。
ぺこり。
頭を下げられ、ゆっくりと下げ返す。
と。彼は慌てたように残る階(きざはし)を数段上がり、敷居の外で両膝を折ると、
「どうか…! 話を」
手を突いて痛切な声色を発した。
「…」
「お願いします…!」
縁壱は、そっと歩を進めた。足袋が畳を擦る乾いた音が静寂に響く。
中腰になると、垂れた頭に手を差し出して、
「どうか、面を」
言われるままに動作を返した彼の僅かな動きで、香りが風に乗った。線香の匂いだった。
「お通夜でしたか」
「…はい」
今日は夕刻より、縁壱は、麓の町の一角に、飛び交う青白い炎の塊を幾つか見ていた。きっと、彼に縁のある人物だったのだろう。
『あの時見た魂魄は…』
踊るように舞っていた炎に、ほっと胸を撫で下ろしたものだ。だから、彼が何故ここまで消沈しているのか分からない。
「亡くなられた方は、さぞ素敵な御方だったのでしょう」
天の川を見上げて、縁壱は呟いた。
「沢山のご先祖様方が、迎えにいらしてましたよ」
「うっ…」
きっと天国へ逝くはず、と、彼は理解したようだった。溢れる涙を流すに任せ、俯いて肩を震わせる。
縁壱は、時がただ過ぎるのも構わず、じっと、彼の傍らに付き添った。やがて彼が、胸ポケットから一枚の写真を取り出した。
差し出されたそれを、受け取り眺める。もう何年も大切に身につけていた物だろうか、縁は所々すり切れ、だいぶ色褪せていた。
写真の中央に、桃色のランドセルを背負った女の子がいた。満面の笑みだ。両親が後ろに立っている。きっと通う小学校なのだろう。校門前で撮られた写真だった。
二つに分けて結ばれた三つ編みは、きっと、毎朝母親が手間を掛けてくれるに違いない。リボンはもしかしたら、毎日違う物かも知れない。二人で楽しそうに選んでいる様子が、容易に目に浮かぶようだ。
母親は、肩まで流した艶やかな髪を、…風が少し強い日だったのだろうか、軽く手で押さえ微笑んでいる。元は、真白いブラウスに若草色のフレアスカートだったのだろう。雰囲気によく似合い、爽やかな笑顔が印象的だ。
父親は、恐らく今…隣にいる彼だと思われた。すっかり別人のようになってしまったが、この写真が撮られたときは、仕事も充実していたに違いない。胸を張り瞳は爛々と輝いて、自信に漲っている。がたいもなかなかいい。アメフトか水泳か…きっと何か、スポーツをやっていたに違いない。
娘の服や靴からでも、父親の外での頑張りがよく現れている。何一つ不自由しないように、日々、懸命に戦っていたに違いない。白い大きな花柄の空色のワンピースが、泥だらけになって遊ぶ子供には勿体ないくらい、華やかだった。
何より、その、娘の表情。
彼女を見れば一目で分かる。どれだけ幸せか。どれだけ日々が楽しくて、充実しているか。全身から二人のことが大好きな様が伝わってくるようだ。笑顔が眩かった。
「亡くなったのは、妻の…紗栄子です」
小さな声で、彼が言った。
焦らせないように、縁壱は、そっと耳を傾けた。
「十年前、一人娘の紅葉が失踪しました…」
「…」
「誘拐事件として地元の警察も捜してくれましたが、見つかることはなく…」
彼は、長い息を一つ吐いた。
じっと、床を見つめたままだった。
「妻は娘が生きていると信じて、警察が匙を投げた後も活動していたんです。ビラを撒いたり、ネットで情報を集めようとしたり…。けれど、一向に、手がかりはなくて」
縁壱は、写真を彼に返した。
受け取りながら、彼は続ける。
「三日前、とうとう心労で倒れて…そのまま、帰らぬ人となりました」
「…そうでしたか……」
暫くまた、男は無言になった。
一点を見つめたまま微動だにしなかった彼が、突如、面を上げた。
「ここへ来れば、何とかなるかもって…!」
眉尻は下がり、吐く息は死人の香りがした。懸命に訴える眼差しが、心の臓を鋭く突くようだった。
「私はどこか、諦めていました。もう…随分前から。娘のこと。ですが、妻は、死の間際まで諦めてはいなかった。そして最期に、歌うように言ったんです。
『継国さん 継国さん…
お困りでしたらおいでませ…』」
「…」
「何のことか、初めは分かりませんでした。通夜の間、頭の中でその唄が延々と流れてて…妻の遺影を何気なく眺めていたら、思い出したんです」
男の瞳に光が宿った。初めて見る、生気だと感じた。
「この地方に伝わる手鞠唄。継国さんって、この、継国神社のことですよね?」
きっと、藁にも縋る思いでここへ来たのだろう。だが縁壱は、否定も肯定もせず彼を見つめた。
この表情を、相手がどう受け止めたのかは分からない。しかし、階段を駆け下りて這いつくばると深々と頭を下げて、泣きながら叫んだ。
「どうか! どうかお願いします! 娘を捜してください…! 妻の無念を晴らしたい。ただただ、それだけなんです…!」
縁壱は無言で、彼を見下ろした。
捜すと言っても、警察も匙を投げた案件だ。十年も昔のことなど、ただの神主に、今更どうにかなるものでもない。
「顔を上げてください」
縁壱は、申し訳なさそうに言った。
彼は顔を上げたが声色で察したようで、噎び泣く。縁壱は静かに話しかけた。
「紗栄子さん…でしたね。手鞠唄をご存じだったと…」
何度も涙を拭い、こちらの言葉を咀嚼しているようだった。
「彼女は他に、何か言っていましたか?」
「え…?」
『聞いてはいない…では、奥様も見てはいないのですね…』
「それと。その写真。三人家族のようですが、それならどなたが撮ったのです?」
「ああ、これは…」
と、男は一度手元のそれを見る。微かに表情が柔らんで、
「当時、勤めていた会社の同僚が撮ってくれました。子供が同級生で。地区が違うので一緒には通えませんでしたが、休みの日は互いに行ったり来たり…」
「そうでしたか…」
縁壱は、徐ろに立ち上がった。
「今夜はもう、ここでお休みなさい。…ええと?」
「あ…失礼いたしました。竹井諒太と申します」
「竹井さん。深夜に下山は足元が危うい。日の出前にはロープウェイも動きます。明日早くにここを出れば、葬式には十分間に合うでしょう」
「……はい」
縁壱は微かな笑みを浮かべて、戸口を指し示した。彼が玄関に回る間に座敷に布団を用意する。彼を迎え入れると、
「ゆっくり休んで下さいね」
声を掛けて、部屋を後にした。