第壱話:白詰草
・壱・
~椿の章~
継国さん 継国さん
陽の見櫓の神楽舞 お困りでしたらおいでませ
南の躑躅の山奥に 鬼の屍踏み越えて
継国さん 継国さん
月の見櫓の剣舞唄 泡沫の夢に紡ぎます
北の椿の山奥に ぽとりと首を落としませ
継国さん 継国さん
継国さん 継国さん……
・壱・
~椿の章~
一人娘は確か、六歳だったか。
小学校に上がったばかりで、友達百人なんて、歌を歌いながら桃色のランドセルを背負っていたのを覚えている。
いつも笑顔で、誰にでも明るく挨拶をしていた娘。名前は紅葉と言った。五月生まれのはずだが、産気づいた妻が入った病室から、青い楓が見えていたのだそうだ。
「楓でいいだろ」
と話したが、
「それじゃ男の子だ。女の子だから赤がいい、紅葉にしよう」
となった。
小学校に上がると、紅葉は学童に入った。共働きだったから、まあ、仕方ない。
一つ二つ学年が上の子供らとも、何の違和感もなく遊んでいたっけ。独特な高い声が楽しそうに行き交って、迎えに行っても、後五分。後十分。まるで寝起き宛ら駄々を捏ねられた。弾ける笑顔が堪らなく可愛くて、
「仕方ないなあ」
と下駄箱の段差に腰を下ろして待った。
学童では先生方がいろんな遊びを教えてくれていたが、その身一つで駆けずり回ることが、子供達には、一番楽しかったみたいだ。
その足で。
その手で。
子供というものは、全身を使って色々と学んでいくのだと知った。果たして自分が、そのように育っていたかというと…まあ、遠い昔のことで思い出したくもないが。皆そんな時期が、確かにあったはずなのだよなあ。
毎朝、紅葉のために時間を作る妻、紗栄子。
二つに結んだおさげが肩の上で跳ねて揺れていた。ランドセルを背負って飛び上がる度に中の文具が音を立てて、一緒に踊るようだった。
紗栄子が手を振り、紅葉が登校する。ゴミを片手に鞄を脇に抱え、紅葉の手をもう片方の手で引く。いや…引かれるようにして、バス停まで一緒に歩いていた。
「お父さ~ん! 早く! 早くぅ!」
そんなに学校が楽しいか? 毎日同じ事を聞いたそうだ。何気ない一日の始まりが、ずっと、続くものだと思っていた。
そう。もう。
ああ。もう。
あの笑顔は、見られない……。
そろそろ夜も明けようとしている。爪切りで切った欠片のような、薄い三日月が、白む空に溶け込もうとしていた。星々の灯りはもう、見えない。
『前に店を開けたのは、いつだったか…』
真鍮のドアノブに錆びた鍵を差し込む。疲れからか、溜息が一つ漏れた。
そこかしこから、雀たちの囀りが響き始めた。二度目の溜息に鍵を回す音が混ざり込む。ノブを回してゆっくり扉を押すと、蝶番まで錆びてしまったのだろうか、軋んだ音を立てた。苦笑った。
身を滑り込ませるほどの隙間を作っていくと、数度、上の方から軽やかな音が響いた。
扉の上方に銅の風鈴が備えてあるのだ。澄んだ音が、朝靄の路地に広がっていく。思わず外を一度眺めてから、店内に入った。
『埃っぽいな』
ふう、と息を一つ吐く。
『今日は一日、掃除で終わりそうだぞ…』
顔に影を落とした前髪を掻き上げる。少し伸びた短髪をぐしゃっとすると、仕方ない、と諦めが入った。
乱雑に置かれた古本の平台の間をすり抜ける。奥のカウンターへ向かった。
カウンター端にあるシンクから、乾ききった雑巾を手に取り水を通す。絞り、卓を手早く拭くと、背後の棚から珈琲メーカーを取り出した。軽くそれも磨いて、コンセントを入れた後、壁際の控えの扉を開く。
その向こうは、キッチンになっていた。
通路は奥へ吹き抜けており、更に扉がある。キッチン脇の業務用の冷蔵・冷凍庫に寄ると、開き、並んだ豆の袋を暫く眺めた。
一つを手に取る。
酸味が強く、カフェインがガツンと腹に響くケニアの豆。味は好みではないが、眠気を取るには最高の豆だ。
やがて、ミルの音と共に香りが店内に燻り始めた。空気を孕んだドリップ音が響き始める頃には、店内の窓を拭き終えて、開ききった。
最後に、カウンターの脇の出窓に寄る。所狭しと並べられたサボテンが、じっと自分を見つめてくるようだった。
「観葉植物? ダメダメ。たまにしか寄らない趣味の店だろ? 置いてちゃ枯らしちまうよ、いくら巌勝でもさ。サボテンにしろ」
「サボテン……」
友の言に、こいつは何を言ってるんだ、とその時は思った。だが、この、『我関せず。元気でござる』的なフォルムを見ていると、正解だったんだなあと思ってしまう。
認めるのも癪だが、まあ、何もないよりはいい。
「…」
両手を腰に当てて、今日何度目かの溜息をつくと、巌勝は、グラスに水を注いで戻った。少しずつ、均等に、鉢に分けて注いだ。
朝日が昇ったようだ。
出窓から陽が差し込んでくる。爽やかな風が窓から窓を渡り歩いて、埃を払ってくれるようだった。
『古書の手入れは一息ついてから集中するか…』
止んだドリップ音に表情が柔らんだ。カウンターに戻り、大きめのマグカップを手にする。
音を立てて注がれる珈琲の香りが鼻腔を擽る。両手で包んだマグカップからじんわりと熱が伝わって、心が解けるようだった。眼鏡があっという間に曇っては、すぐに視界が戻る。
一口含んだ。心地良さに目を閉じた。疲れが飛ぶようだった。
「!」
不意に、出入りの扉が開いた。耳に届く風鈴の音が憎らしい。
『まだ早朝だぞ』
眉間に皺が寄り、音のした方を見る。凝視した後、マグカップを卓上に置いた。
「今日は勘弁してくれないか?」
嘆願すると言うよりは、宥めるような口調だった。
現れたのは、落ち着いた感じの女性だ。
二つに結んだ三つ編みが幼げに見せて、年齢を惑わせる。純白のブラウスに若草色のフレアスカートが、雰囲気によく似合っていた。首を|傾げて微笑んだ彼女に、巌勝は、
「ったく…」
何とも言えない表情になった。
「帰れ。元いた場所に」
今度はきつめの口調になった。が、彼女は首を横に振る。
その後ろで、扉が閉まってしまった。
『あ!』
入店してしまった。
「ああもう。どこで噂を聞きつけてくるんだ…」
人差し指の関節で、眼鏡を押し上げた。数えるのも嫌になるほどの溜息が、また、漏れた。
致し方なし。と、カウンターの席に手を差し出す。真正面の席だ。
古書堂のあちこちを見遣りながら、ゆっくりと歩を進める彼女から目を離さない。珈琲を口に含んだ。
目の前の椅子に、彼女が腰を掛けた。
「今日は疲れてるんだ。受けるかどうかは内容で決める」
棚からマグカップを取り出しながら、巌勝は言った。
構いません、と小さな声が響く。
珈琲を注ぎながら、
「それで?」
と話を促した。
ぽつり、ぽつり、と話し始めた彼女にカップを差し出す。決して飲みはしないことを知っていながら。巌勝の嫌味を含んだ気遣いに、しかし、彼女はカップを一瞥すると、面を上げ、嬉しそうに微笑んだのだった。
四半刻ほど経っただろうか。
話し終えた彼女は、こちらの反応を見るように見つめてきた。しばしそれを真っ直ぐ受け止めて、
「分かったから。調べよう。ただ、期待はするな」
ありがとう。
彼女の小さな声がまた響き、巌勝は、肩を揺らしながら大きく息を吐いた。
久々の会話だったのだろうか。にこにこと笑みを浮かべる彼女が、ここを去る気配はない。
「…気が済んだら帰れよ」
声を掛けた時だった。
ふ…と彼女の姿は消えた。何かが二三、はらりと舞った。卓に落ちた一枚を手に取る。
『紅葉?』
残った珈琲の水面が揺れて、残り香のように薫りが店内に広がった。
暦はまだ、葉月だった。