久遠の笛の音よ
・弐・
夢の狭間に
巌勝は、使い切った懐紙を脇へ置くと日輪刀を掲げた。握った柄が目線の高さまで上り、手首を返す。刃が室内の光を拾って二度ほど反射すると、
「…」
眼差しが満足そうに揺らいだ。表情は、大して変わらなかった。
鞘に収め、立ち上がると刀置きに向かう。手元から離れた時小さな音がしたが、刀が、ほっと一息ついたように見えた。
「…」
格子を開け放った狭い一室に風が通る。
庭の楓の葉擦れの音が耳に届き、青葉が一枚、軒下に流れてきた。
後れ毛が戦いで誘われるようにそちらを向くと、ひだまりが、まだ若く散った葉を包むように照らしていた。
何気なく縁側まで寄って――だが、部屋の敷居は跨がなかった――陰と陽の境目近くに腰を落ち着ける。
仄かな光が隣から漏れ出てくるが、闇色の姿はそのまま変わらず、巌勝は、対照的な青葉をじっと見つめた。
風がまた吹いた。
今度は肌身にまで感じるそれを、受け止めるように天を仰ぐ。
自然と瞼が閉じて滔々と流れていく時間を感じると、巌勝の面は、微かに穏やかになった。
ふ…と、胡座をかいた膝元に、重みを感じる。袴を通してじんわりと温もりが伝わって来、
『……』
微かに目を丸くして視線を落とすと、
「…ねこ」
思わず呟いた。
『野良か?』
その割には、ふてぶてしい。
見ず知らずの人間の足の輪に入ってくるとは、いい度胸だ。
野良猫が、顔が歪むほどに大きなあくびを一つ、かいた。
『このまま寝る気か?』
思うが、嫌な気はしない。
どこからこの鬼狩りの里へ迷い込んできたのか、皆目見当もつかない。だが、何となく似たような境遇を思って、巌勝は、ふ…と口の端を上げるとまた蒼穹を見上げた。
ゆったりと流れていく皐月の薄い雲。
戦ぐ風に前髪が揺れて、心地よかった。
野良猫の静かな吐息が聞こえて、知らず、手が、丸い背に伸びる。そっと尻の方まで撫でて、
「にゃ」
濁声で見上げられた面に、視線を合わせた。
「あ」
『嫌だったか?』
思ったが、それきり、また、丸くなる。
尻尾が大きく揺れて、それがなんだか催促されているようで、巌勝は、小さく笑うとまた撫でた。
満足そうな、二度目のあくびに顔が綻ぶ。
撫でる動作だけはゆったりと途切れず、また、天を仰いだ。
鬼になる、あの運命の日。
その、一月前のことだった。
・弐・ 完