久遠の笛の音よ
・参・
記憶の色
『この季節に嵯峨野(さがの)に寄ったのは、間違いだった』
永く続く竹の回廊。
夜風に葉が触れる度、軽やかな音を立てていた。扇の翻る様に似て、裏面が露わになる度、月の光に照らされて銀色に光る。まるで己の技に似た燦めきだった。
『短冊の色に意味があるのだと… 教えてくれたのは…誰だったか…』
遠い昔のことだ。
「巌勝。風鈴も飾りましょう」
「良いですね! 音がとても涼しげです」
見上げた面はとても柔らかく、慈愛に満ちていた。微笑んだそれはとても嬉しそうで、竹をゆうるりと曲げ降ろしてくれた。
風鈴は重たいから、低い場所に付けてはどうかと言われた。その声色が、思い出せない。時の波に攫われて、余韻だけが残っている。まるでその鈴の音が鳴った、後のように。
『その日は確か… 母上が…』
病のために、滅多に逢えない遠い君。
『そうだ… 母上――――』
春の日差しのようだった母の匂いは、いつからか、死の匂いがするようになった。
幼い時分だ。
あの頃は、それと分からなかったものだが、匂いの記憶は強烈に残っている。今この姿であればこそ、それと分かるものでもあった。
父の顔も、
母の顔も、
もう、思い出せない。
だが、出来事だけは覚えているのだ。
あいつが――縁壱が、いたから。
『この痛みを覚えたのは… あの日の前だったか。それとも…後だったか…』
「分からない…」
ただ、その日は母が、墨を立てて準備をしてくれた。
ゆっくりと、硯を引く墨の音と母の手の動きを見つめた。瞳が爛々と輝いて、言葉を交さずじっと見ていた。
そのうちに、母が面を上げて自然と目が合い、にこりと微笑んだ。
そうだ、縁壱に似た、面影で――――。
「っ…」
黒死牟は、胸元を強く押さえた。
深々と息を吐いて、天を見上げる。
その瞳それぞれに、星夜を丸く切り取る、竹林の頂が見えた。
「できましたよ、巌勝」
「これに…願い事を書くのですか?」
「ええ。そして、飾りましょう。そうすると、願いが叶うのだそうです」
そんな、あるわけない。
確か、咄嗟に、そう思った。だから毎日、厳しい鍛錬にも励んでいるのだと。
「巌勝の、願い事は何ですか? 母にも教えてたもれ」
母の問いは柔らかく、どこまでも、深く己を包み込んでくれていた。
「はい! 母上。私の一番の願いは――――」
そうして、この上もなく幸せそうに、母が笑った。
頑張りなさいと、強く抱き締められ、必死に背中に腕を回し…
「そうそう。巌勝。これも…縁壱の分も、飾ってくれますか?」
「…縁壱は?」
「いつものお座敷ですよ」
「……」
短冊を受け取った。
黄色いそれだった。
約束を守る、誠実さを表す、「信」の色。
そしてそこには、
『兄上と、もっと、沢山お話ができますように』
「ああ… アアアアア…!!」
『笑った。俺は… 笑ったのだ… その時…!』
嬉しくて。
頬を染めた。
「縁壱と、一緒に飾りたかったです」
「そうですね。母もそれを望みましたが… 巌勝や」
「はい、母上」
「どうか、仲良う。貴方が当主となったその時は、縁壱と、仲良うこの地を治めて参るのですよ」
「はい! 母上!」
黒死牟は、頽れた。
『もう… いない 縁壱は… もういない…』
胸元にあるそれを強く握って、丸くなった。
慟哭が、辺りに木霊した。
「縁壱…! お前は、何故…!」
笛を取り出し、地に投げつけようと高々と掲げた。
「…っく」
だが、できなかった。
『縁壱…!!』
強く抱き締め、身を折って、声が漏れ出るのを堪えた。
久遠の笛の音よ・参・完