久遠の笛の音よ
「本当に、よろしいのですか? 母上」
正座をした縁壱(よりいち)は、少し目を丸くして母・朱乃(あけの)を見上げた。
瞬きをするように、朱乃がゆっくりと頷く。縁壱は、己でも驚くほどの勢いで立ち上がり、
「兄上!」
部屋を出る前から大声で呼ばわり、普段、兄が手習いをしている部屋へと足を運びながら声は更に、続いたのだった。
「騒々しいぞ、縁壱」
幼いながら凜とした声色で、兄が答えた。部屋から長い廊下を伝って聞こえる声は、多少怒気が含まれてはいたものの、離れていてさえ返ってくる。
全くもって、足取りが弾まないことがあろうか。
「兄上…! 申し訳ありません」
引き戸を小姓(こしょう)達が引いて、片膝を付いて廊下で控えた。
頭(こうべ)を垂れて言葉を待つが、ちらりと上目遣いに室内の兄を見る。
流暢に流れる筆と、真剣な眼差しで半紙を眺める兄の横顔は、到底同じ六歳とは思えなかった。
じっと控えて待つ間、心臓が高鳴るように鼓動を刻み始めた。
『兄上はなんと答えてくれるだろう。喜んでくれるだろうか』
そうでなかったらどうしよう。
これまでも、そんな事は度々あった。
兄の瞳は、いつでも、剣の道を見据えて真っ直ぐ前しか見ていないからだ。
「縁壱」
『!』
何度か瞬きしながら、慌てて畳に視線を落とした。
加えて頭も若干下がり、下知(げち)を待つ仕草になる。
兄は、もう、継国家の立派な跡取としてその道を歩んでいた。とても誇らしくて、胸の高鳴りを抑えきれなかった。
「どうした。慌てて」
「はい、あの…」
急に、恥ずかしくなった。
こんな立派な兄を目の前にして、自分は今、勝手なことを口走ろうとしている。
兄上の邪魔になるだけではないか。
手習いが終われば今度は稽古じゃないか。
稽古が終わっても、馬術の復習がある。
それが終われば今度は歌や舞など作法を…。
何も、言えなくなった。
「用がないなら下がれ。着替えねばならん」
「…はい」
扉の脇へ寄り、道を空けた。
滑る廊下に自身の顔が映り込んで、胸奥に水滴の落ちた音を聞いた。
真白い足袋(たび)を履いた兄の足が廊下に降りて、軋む音を奏でようとしたとき、
「あの…!」
「…」
ん? と言うように、兄が振り返った。
見下げる表情は厳しかったが、伝わる雰囲気は柔らかかった。家臣の手前、そう言う顔になったのだと思った。…否、思いたかった。
『だって。兄上の心臓。早鐘を打っているもの!』
ここまで来れば、兄の鼓動がはっきりと視える。
何を言われるのか緊張もし、自分の心配もしてくれ、それでも、「何か」と問うような複雑な鼓動。
『兄上。兄上、ごめんなさい。でも…今日は』
「あの」
縁壱は、面(おもて)を上げた。
両膝を突いて、叩かれる準備はした。兄にはその権限がある。家臣達の前でもあるのだ、無礼であれば、如何(いか)な弟であろうと始末はしなければならない。
「許可を…許可を頂いたのです、母上に。一緒に…一緒に、豆を…」
「…豆?」
「は、はい…。歳の数だけ、食べるのだそうで…」
兄の表情が、きょとん。となった。
何を言ってるんだ? と疑問が浮かんでもいるようだ。
「母上が、炒(い)ってくれているのです。兄上の分も」
「……」
思えば、そう言う祝い事がために、父上も、領内を見回っているのだった。民の幸せは継国家の力の象徴でもある。当主が姿を見せ、声を掛けるだけで、結束は強まる。
『父上がいないからこそ母上も、お赦し下された…』
『父上は、今宵は遅くなるかもと仰って…』
二人、似たようなことを思いながら、視線が交錯した。
だが、弟は、それ以上は言えないようだった。
巌勝(みちかつ)は、なんとも言えない笑みが零れるのをすんでで堪(こら)えた。取り繕うように咳払いをして、
「仕方ないな」
殊更威厳を保つように、声色を作る。
「巌勝様」
近侍(きんじ)の心配そうな声が複数届いたが、そちらを向くと、彼らは一斉に片膝を付いて脇へ控えた。強い眼差しで見遣る。
「母上がお呼び立てなさっているのだ。挨拶をしてくる」
「……は」
「父上への報告は無用である。母上から話が行くだろう」
「は」
縁壱の顔が見る間に「兄上…!」と綻んで、内心おかしかった。
必死で笑いを堪えて、縁壱を立たせる。波が引くように廊下の脇に控えた近侍達の前を、巌勝は、縁壱に案内(あない)させ、朱乃の元へと向かった。
館から別の庵(いおり)へと続く渡殿(わたどの)を幾たびか通る。
奥の間へあと少しというところで、巌勝は、渡殿から天を仰いだ。
如月(きさらぎ)にしては蒼穹は色濃く、雲一つない。天道(てんとう)も、まだとても高かった。
「…兄上」
不安そうな縁壱の声が後ろから届いて、巌勝は振り返った。
「日差しが暖かいな? 今日はとてもいい天気だ」
「兄上…! はいっ」
「急ごう。母上がお待ちだ」
自然と顔が綻んだ。辺りには誰もいなかった。
縁壱と二人きり。
心が軽くなる気がした。
奥の間の襖へと辿り着くと、膝を突いて、自ら引き戸を開けた。
「母上。遅くなりました」
「巌勝殿」
柔らかい母の声が耳に届いて、心の奥底まで染み渡る。
「いらっしゃい」
「はい」
室内に足を踏み入れると、後ろで縁壱が戸を閉めるのを聞く。
出入りからの光は閉ざされたが、庭に面した廊下側からは、木漏れ日が燦々(さんさん)と注いでいた。御簾(みす)が時折、乾いた音を奏でて心地いい。
「日々鍛錬を怠らず、嫡男(ちゃくなん)として勤めてらっしゃる…母は、誇りに思いますよ」
「は…!」
「縁壱と、仲良う…。二人きりの兄弟です。何事も、仲良う相談し、継国家を護ってたもれ」
「はい!」
「ささ。丁度弾けてきました。熱いですからね。気を付けるのですよ。ほら、縁壱」
母が手招いて、隅にいた縁壱を呼ぶ。
自身も、
「縁壱!」
思わず、笑顔で振り返った。
「はい!」
縁壱が、この上もなく嬉しそうに、面映ゆそうに、傍に寄り――――
「黒死牟(こくしぼう)殿?」
はっとした。
『そうか… たまには酒風呂でもどうかと… こいつに…誘われたんだった…』
懐(ふところ)に収めた小さな巾着を手にとって、遠い昔を思い出した。
だが。
『こんな…記憶は…… ない…』
黒死牟は、口の端を歪め、上げた。
「興が冷めた……」
懐から手を出して、踵を返した。
「ええっ!? それはないよ~。折角特大の風呂釜に用意したのに!」
「……」
虹色の双眸を持つ上弦の弐は、あの手この手で語りかけてくる。
だがそのどれにも答える価値はなく、根城を後にした。
脳内で鳴女(なきめ)に話しかけては月夜の綺麗な場所へと転送してもらう。配置下へ戻るのは、夜風に当たってからでも良いだろうと願いたかった。
『縁壱が…笑ったのは… あれが… 初めてだ……』
――――兄上の夢は、
この国で一番強い侍になることですか?――――
『初めて…口を… 利いたのも………』
月を見上げ、しばし佇む。
寂寞とした風が、静かに辺りを薙いでいった。
『だが…確かに……』
六つの目が、静かに閉じた。
笛を渡したのは、そのかなり前だ。
三畳の部屋に遊びに出向いていたのも。
覚えていないだけなのか?
『私が…忘れただけなのか………』
「だが… これだけは……」
よくよく、覚えている。
「縁壱………!」
焼け付くような痛みと。悲しみと。
それに遙かに上回る怨嗟と闘争心と。
「戯れ言だ…… すべて……」
黒死牟の姿は、仄暗い宵に紛れ、月明りに滲んで消えた。
記憶も想いも少しずつ。
月明りに解けていった。
久遠の笛の音よ・完