霞の彼方へ
・弐・
目覚めたときは、日が暮れかけていた。
『銀子(ぎんこ)がいないな…今夜は、任務はなしか』
小さな吐息を漏らして、ゆっくりと起き上がる。
彼女は任務があれば、寝ている頭を突いて起こしてくるほどだ。
一度そのことで喧嘩になりかけたこともあるが、それもそのはず、自分の眠りが深いせいだと銀子の主張は硬い。
今ではそれに頼り切りで、一度寝たら無理矢理起こされない限りは、眠りを満喫していた。
『…行くか』
腰に獲物を差すと、室内を見渡した。
あの親子がいない。涼しくなってきたところで、きっと別のお宿へ顔を出しに行ったのだろうと思えた。
皿を持って土間に向かい、洗うと手拭いで拭いて片した。それから戸締まりもそこそこに、家を出る。ここは帝都からも近く、寝泊まりするだけの家だ。取られて困る物もない。
『きっとどこかに、俺の帰る場所があるはず』
今はまだ、分からなくとも――――。
寂寞とした思いは闇より厄介な、まるで霞のようだった。
『何か、大切なことを御館様に言われたはずだが…』
それが、思い出せない。
隊士として一つの儀式を終えたとき。或いは、産屋敷邸を去ることにしたとき。…いや、そもそもその儀式…選別の前、か。
ただ、握る刀が「走れ」と叫ぶ。追い立てるように背中を押してくれる。目的地だけは、はっきりと頭にこびりついていた。
雑踏を抜け、やがて町外れに出る。
人の気配がなくなったところで、無一郎(むいちろう)は立ち止まり、少し腰を落とした。息を深く吸い込んで、吐き出すのと同時に、大地を蹴った。
和太鼓を思い切り叩いたような音が、辺りに鳴り渡った。踏み込んだ足場の砂が舞い地に落ちきる前に、一里を駆ける。華奢な身体のどこからそんな力が出るのか、まるで、一陣の風のようだった。どこまででも、吹き渡っていけるようだった。
県境の山に入る頃に、辺りは漆黒の闇に閉ざされた。
「…」
天を仰いで嘆息が漏れる。いつの間にか曇り空になって、星灯りが閉ざされていた。
それでも、躊躇せずに山に入った。
殆どの鬼狩りの者達が速さを落とさず木々を避けて走るのに対し、無一郎のそれは、不規則に林立する木をすり抜けて、真っ直ぐ走っているように見えた。木にぶつかると思われる寸前、彼の姿は残像になる。あ、と不意を突かれた次の瞬間には、二間先に姿を現すのだ。まるで分身しているようだった。
緩急を付けた独特な足の運びが、それらを可能にしていた。見る者を惑わす技量は、無一郎が、体躯を鍛え抜いたことを意味している。
『僕はまだ小さい。膂力(りょりょく)には恵まれない。戦い方を変化させていかないと。だけど…』
眉間に皺が寄った。それこそが、悩みの種だったからだ。
『風の型は刀に直接力を乗せる。この足の運びでは、踏ん張りが利かなくて呼吸が合わない…』
「風の呼吸も型も、それぞれはできるんだ。だけど…、ああ、そうか…」
霞――――。
「白色…」
御館様が若干目を丸くした。
抜いた、刀の色に。
本陣こと産屋敷邸での修行の際には、気づけなかったことだ。風の型を覚えるのに必死で、あっという間に選別の時は来た。
藤襲山(ふじかさねやま)での一週間を、覚えた呼吸で乗り切った。何体もの鬼を断ち、それでも十分の戦果だと自身でも分かるほどではあったが、
「何か、違う…」
違和感があった。己が剣技に無駄のあることは否めなかった。速さも力も、あの足の運びでは、半減してしまっていた。
御館様が言った。
「ここから北、県を跨いで大きな山を三つ越えた深山幽谷に、名も知れぬ村がある」
「…」
「霞の呼吸の使い手が住む村だよ」
「! 霞の呼吸…」
「気になったら、一度、出向いてみるといい」
『もうすぐ、三つ目を越える…』
位置など、ざっくりとしか聞いていない。
人の気配を探して、無一郎は、一層神経を尖らせた。
大河のうねりの音が、間断なく闇夜を引き裂いた。時折、大岩に当たって波濤が砕ける。
この辺り…上流は、河岸が絶壁だ。標高もそれなりにあるのだろう、夜空もいつの間にか、満天の星が瞬いていた。
「誰だ」
「!」
掛けられた声に反応する。斜め後方を見て、川の直中にある巨岩に、人影を見つけた。凜とした佇まいだが声は嗄れていて、地の底から這いずり出てきたようなそれだった。見た目と声が全くそぐわぬ態だった。ぶるっと、身が震えた。
「…」
刀の柄に手をかけて、片足を後方にずらす。
身構えると、底のない闇を思わせるような眼差しを受けた。心積もりをしていなければ、影に呑まれて動けなくなる気がした。
「貴方が…九十九鷺流(つくもさぎる)か」
生唾を喉奥へ押しやって、声を絞り出した。
「俺は、時透無一郎。霞の呼吸の使い手に会いに来た」
返事がない。
『見定めているのか…? 俺を』
勘繰るが、
「九十九鷺流なら、ここだ」
「!?」
背後から、張りのある女性の声がした。余程、眼前の佇まいに近いそれだ。
『気配を感じなかった!』
勢いよく振り返った。
月を背後に人影があった。あの、岩の上の佇まいと同じそれだ。
すらりとした長身に、男物の座敷袴。肩は月光に白く映える色味が、裾へ行くほどに濃い藍色になっていく着物だった。
「!」
刀を抜いている。
『銀色…!』
鮮やかな刀身に、無一郎は目を見張った。一点の曇りもないそれが、視線すら両断するようだ。見とれた一瞬、彼女の身体がふわりと浮いた。
耳を隠すほどしかない短めのうねる髪が、風を孕んで流れた。動いた一瞬は捉えたのに、彼女は既に、鼻先が触れ合うほど近く、眼前にいる。流れた髪が、ゆっくり整い動きを止めた。
『え…!?』
半歩後退る。
『! しまった!』
間を詰めてきたのは彼女だけじゃない、岩に直立していた相手もだ。
「!!」
横に薙ぐ刀の切っ先を、無一郎は、すんでの所で宙返り、避けた。長い髪の先が音を立てて千切れる。驚愕し、二、三後方回転して間を取った。呼吸が荒く、乱れた。
「ほう」
呟いた彼女の身体が、影が薙いだ刀で上下に両断されていた。白い飛沫が舞って、その色に、はっとなる。
手を付いて着地した無一郎は、息を整える刹那の間でそれらを見た。全身から冷や汗が吹き出して、呼吸はなおさら冷静さを欠いた。
「よく避けたな」
彼女の声だ。横から響いてきた。
「!」
『どうなってるんだ…!』
見向くと、彼女を斬った――はずだった、影が、白く目の粗い霞と化し、彼女に取り込まれるように霧消した。
『霞の使い手! 間違いない…!』
「鬼殺隊の子か。久しく見る」
「俺に!」
やんわりと紡がれた言葉も途中に、無一郎は、咄嗟にその場に膝を突いて平伏した。
「霞の基本を教えてくれ! 貴女に会いに来たんだ…!」
頭を地に付け懇願した。
視線を頭上に感じ、間が開いた。
「そうだな…」
どちらでもない呟きが聞こえ、鷺流が刀を鞘に収める音を聞く。
「どこからでもかかってこい」
鎺(はばき)が収まる軽快な音に、少し苛立ちを覚えた。
『馬鹿にして…!』
額に青筋が浮かぶ。
「若いな」
鷺流の口角が上がった。
怒りを抑えきれぬまま、刀を構えた。彼女を見据えるが、
『隙がない…!』
踏み込めなかった。どうしたらいいのか、経験値が圧倒的に足りなかった。力量の差も、分からない。彼女のそれがどれほどのものか、測りきれないからだ。ただ、すごい。それしか、言葉がなかった。
鷺流が、すぅ…と、軽く夜風を吸った。
『来る!』
彼女がにやりと笑った。心の声は、相手にはダダ漏れのようだった。
「風の呼吸 弐ノ型! 爪々(そうそう)・科戸風(しなとかぜ)!!」
無一郎の身体が反応した。白色の刀身から車輪のように風の輪が産み出され、空気を縦に裂きながら彼女に迫る。
だが、鷺流はとんと地を蹴ると、軽々と、虚空に美しい弧を描いて舞った。纏った少し大きめの袴や着物が襞を広げ、星夜に扇を開く。
「!!」
無一郎は、今度は惑わされなかった。ぴくりと身体が反応し、技を見極めようと顔付きが変わる。
鷺流がにやりと笑って、何もない空を蹴った。途端、轟音を立てて風を切り、あっという間に迫ってくる。ほんの少し前に見せた動きを、彼女はもう一度、して見せたのだ。
「二度も喰らうか…!」
無一郎は、今度は立ち尽くしてはいなかった。地を滑るように、その身を後方へ移動させる。その残像が、軌道に残った。白い煙が上がるようだった。
「なるほどな」
咄嗟の足の運びに、彼女が得心したように呟いた。
間を取り技を繰り出そうと、刀を振り翳す。だが、彼女はまたも軽やかに身を翻して避けて、目はおろか気配で追うこともできぬ間に、背後に回り込んできた。
「く、そ…!」
絶望で声が漏れたのと、鷺流が手元に手刀を落とし、刀が砂利に当たり音を立てたのとが同時だった。痛みに思わず、もう片方の手で手首を押さえる。自然と頽れた。
彼女が静かに、前に姿を現した。
悔しさの滲む顔で、見上げ睨む。
「型は風、運びは霞か。呼吸はどちらつかずでまるでなってない。今まで何を学んでた」
「っ…」
「まあ…その年では仕方ない。十を過ぎた辺りか」
「十一だ!」
「…ふ」
一瞬目を丸くした彼女が、次には笑みを零した。
「まだまだ子供だな」
「何を…!」
「反応速度は悪くない。このまま死なせるわけにもいかんか…」
独り言のようになった最後の言葉に、無一郎は、言葉を呑んだ。
「来い」
真っ直ぐ見つめられ、手が差し出された。
仏頂面を糾すことは能わず、少しの間を置くと、感情の整理を付けて深々と息を吐いた。
手に手を重ねると、思い切り引っ張られる。
立ち上がった姿を見つめる顔に、横から朝日が差す。
「…!」
大人の、美しい、面だった。
「夜明けか…」
彼女の視線が光の差す方に向き、無一郎も、釣られて白む東の空を仰いだ。
「帰るぞ」
踏み出した彼女の身体を、風が吹き抜けて撫でていった。柔らかい髪は、春の新芽のような、優しい若草色をしていた。