top of page

霞の彼方へ

・参・

 太陽が山の端に姿を現す頃には、渓谷の水音は既になく、深い山々の木々を抜けだいぶ登った。

 背の高い木が次第に疎らになって、熊笹の生い茂る高所へと至ると、突然視界が開けたようになった。吹き抜ける風は冷涼としていて、とても心地いい。山間には鳶が飛び交い、啼き声を蒼穹へ響かせていた。

 少し歩くと、小さな村が目に飛び込んできた。まるで隠里だ。

 出入りに近いところは棚田になっていて、豊かな水量が音を立てて流れていた。まだ若い稲穂が緩やかに踊り、涼しげな音を立てている。

 棚田の下を通る小道の脇は畑になっていて、主に芋が植えてあった。その年の土壌の具合によって、ここが水田になることもあるのだろう。

「先生! おはようごぜぇます!」

「おはよう。いつも早いな」

 畑仕事をしていた面々が、口々に鷺流(さぎる)に話しかけた。

 見上げると、彼女の穏やかな横顔が目に入る。頭一つ分は、自身より背が高い。日の元では、薄明るい翡翠の髪の色合いは新緑を思わせて、やんわりとした雰囲気と相俟って、まるで春霞の精のように見えた。

 見つめていると、時が止まったような感覚を覚える。彼女の存在そのものが、霞の中に取り残されているように感じられた。

 着ている座敷袴は、かなりだぼついている。

『気付かなかった…、あの月夜の中では』

 動きが読めない。彼女の輪郭すら、着物の孕む風がぼやけて見せる。腕に至っては、指先まですっぽり袖に隠れ、唯一、刀を差す腰回りだけがはっきりとし、存在を主張していた。

『不思議な人…本当に、鬼を狩るのか。この人が。…いや、技は峻烈だったが…!』

 昨夜も見た目に騙されたことを思いだして、無一郎(むいちろう)は、苦い笑みを零した。男装の麗人というのは、彼女のような人を言うのだろう。

 少し歩くと、水車小屋があった。小屋の中から、臼を引く音が聞こえる。興味を持って中を覗く前に、彼女はさっさと先を行ってしまい、慌てて追い掛け角を曲がった。

「う…わあ…」

 林立する平屋。結構な戸数があった。

「先生~! おはようっ」

 子供達が駆け寄ってくる。まだ幼い。

 鷺流の周りは一息に賑やかになって、思い思いに話しかけられては屈託のない笑みがあちこちに行き交うが、

「おはよう。また後でな」

 鷺流は微笑むと、軽く手を振った。足は止めなかった。

「は~い!!」

 子供達の反応を見る限り、きっと、日常なのだろう。見知らぬ自分の姿には別段驚く様子もない。それが不思議だった。あちこちの家から朝餉の準備の音が響いて来、彼らは、その音に快活な笑い声を輪唱させていた。

『ここが目抜き通りって事になるのかな』

 平屋街を抜けていく。

 最奥に、石段があった。登ると、山の絶壁を背に、立派な寺があった。

「こっちだ」

 境内を右に抜けて、別の建物に向かう。社務所だ。

 戸を引いた彼女に続き、招かれて足を踏み入れると、

「お帰り! 無一郎~!」

「銀子(ぎんこ)!?」

 滅法驚いた。

「なんでお前が…」

 先に。そう言おうとして、口を噤む。耳元で騒ぐ銀子の羽音と、「探したわよ~」という言葉を聞くが、意識も視線も、玄関で手を付いて出迎えてくれた少女に向いた。同じくらいの、年の頃だった。

「いらっしゃいませ。無一郎様。鷺流様、お帰りなさい」

「初めまして……」

 見とれたままぺこり。と頭を下げる。

「ただいま。ゆき、彼に食事を」

「はい。無一郎様、どうぞこちらへ」

『銀子だな!』

 草履を脱ぎつつ、ギロ。と彼女に視線を送ると、銀子は得意の、「ケケッ」という笑いを見せた。くすりと笑った少女――ゆきにまたも目を奪われて、鷺流の声にはっとする。

「食べたら少し寝ろ。出発はその後だ」

「…はい」

 銀子が自分の鎹鴉だと、鷺流はすぐに分かったのだろう。返事を聞くと、彼女は、館の奥へと姿を消した。

 立ち上がったゆきに案内され、居間へと向かう。

 名前の通り色白の、華奢な身体の少女だった。肩を越えるくらいの真っ直ぐな黒髪が異様に映える、色味のない淑やかな着物を着ていた。



 三日後、無一郎は、任務を終えて村に戻った。息つく間もなく帰投したせいで、手足が少し痺れるようだった。

『もっと…もっと、体力も付けないと…!』

 時間が惜しかった。

 幸い任務はそう遠くない場所ではあったが、往復で時間が取られるのは本意ではなかった。いっその事、と、それも鍛錬の糧にして、山は休まず駆けて登った。

『早く、鷺流さんに手解きを…』

 寺への道を早足で抜けていくと、

「おや。剣士さん! お帰り~」

 行き交う村人から声を掛けられた。若干、面食らった。

『ここの人達は、警戒心がないのか?』

 自分はただ一度、鷺流とこの道を歩いたきりだ。あの日の子供達の態度も不思議に思ったものだが…その時に顔は覚えていたのだとしても、表情がこれほど和らぐものだとは俄に信じられなかった。

『隔絶された村へは、何度も任務で行ってる。その度に、冷たい目で見られたものだけど』

 辺鄙なところほど、よそ者を嫌う。

 それは土地柄だ、仕方のないことと割り切ってもいた。

『それが、ここは…』

 戸惑いながらも、話しかけられる度頭は下げた。何より、笑顔が溢れているのは、この村が豊かな証拠だと思った。

 社務所に着くと、ゆきが出迎えてくれた。

「鷺流さんは」

「お帰りなさいませ。鷺流様なら本堂に」

 即座に踵を返す。その背に、

「あ! でもっ」

 ゆきの慌てた声が届いた。

 少しだけ身を捻って振り返る。彼女が困ったように微笑んだ。

「見つけても、起こさないで下さいね?」

『…は?』

 恐らく、疑問は顔に出ていたことと思う。ゆきはもう一度同じような笑みを零すと、

「お昼を用意してお待ちしていますね」

 ゆっくりと辞儀をして、社務所の奥へ戻っていった。

『…どういうこと』

 さして距離もない境内を走ると、本堂を訪れて、目の前の光景に立ち尽くした。

『なるほど…』

 彼女の言葉の意味は分かったが、段々苛立ちが募った。額に青筋が立った。

「鷺流さん…」

 彼女の名を呼ぶと、自然と溜息も一緒に零れてしまった。

 鷺流は、子供達と昼寝をしていた。当然、腰に指物はない。大の字になって、その腹やら手足やらに子供達が頭を乗せて枕代わりだ。

 しかも辺りには、紙やら冊子やらが散らばっている。恐らく手習いの途中なのだろう。

 ゆきが言っていたことは理解した。

『これがあの剣士か…?』

 しかしこれでは埒が明かない。何のためにここまで来たのか、無一郎は、草履を脱いで本堂に上がった。

『さっさと習って、帝都に戻らないといけないんだ。俺には、やるべき事があるのだから』

 彼らの傍まで寄っていく。途中、散らばった紙を集めて整えると、字ばかりでなく、鷺流の似顔絵を描いているものも沢山あることに気付いた。

「……」

 立ち上がった歩が止まり、手が止まり、鷺流を見た。

 ふと、

「おや。剣士さん」

 後ろから声がして、吃驚した。

 振り返ると、腰を折って歩く老婆が野菜籠を持って訪れていた。彼女は自分の後ろに寝ている鷺流達に気付いた様子で、朗らかに笑う。大きく身を震わせながら本堂の入口で屈み始めた老婆に、

「大丈夫ですか」

 思わず駆け寄った。紙束を床に置き、飛ばないように草履をひっくり返しておくと、野菜籠を受け取り老婆を支える。

「よっこらせっと。ありがとねぇ」

「いえ…」

『何やってるんだ、俺は…』

「悪いねえ、いつもこれくらいの時分に、野菜を届けておってな」

 老婆は時間をかけて腰を下ろしながら言った。

「ま。先生は大抵寝ておる」

 嗄れた声が笑みを刻む。愉快そうなそれだった。

「あの、鷺流さんが先生と呼ばれているのは、子供達の…」

「ん~、まあ、それもあろうが、元々はこの村を先生が鬼から守ってくれたからじゃな」

「!」

「お弟子さんは初めて見たぞえ」

 こちらを向いた老婆の目が、片方開いた。吟味するような眼差しに、一瞬気圧される。生きた年数の重みだと感じた。だが、

「…隠し子じゃなかろうな」

「んな訳あるか!」

「ふぉふぉふぉ! ま。先生が寝てるときはそっとしておいで」

 老婆の目は再び猫の目のように閉じて、柔和な面になった。

「毎夜この辺りの山を巡回しとるでな。もう十年近く、この付近で鬼は見とらん」

「え…」

「あん時は確か…お前さんみたいな出で立ちで、立ち寄っただけみたいじゃったがのう」

『立ち寄った? 違う、きっと鬼退治に来たんだ。この付近で鬼が出て…』

 顎を手でさすりながら記憶を弄る様子の老婆に、無一郎は、知らず眉間に皺を寄せた。

『でも何故。ここに住み着いているんだ…』

 答えを期待したが、

「まあええわ。それ、渡しといてな」

「続き! 続きが気になるだろうが」

「ふぉふぉふぉ!」

 老婆はまた掛け声一つ腰を上げた。

 面倒くさいのか、笑ってごまかされて、立ち去る背中を黙って見送る。彼女は両手を腰の辺りで後ろ手に組むと、のんびりと歩いて去って行った。

『御館様は、鷺流さんの事を知ってて俺をここへ寄越した。それは、つまり』

 無一郎は身を捻って、気持ちよさそうに寝息を立てている彼女を見遣った。

『今は隊服も着ていない。ここへ鬼退治に来たときは、確かに鬼殺隊の一員としてやってきたはずだろうに』

 昼下がりの麗らかな風が、本堂を駆け抜けていく。

 飛び交う鳶の鳴き声が高らかに木霊して、まるで、この村だけ時が止まったような静けさを、強調しているようだった。

『一体、何が…』

 無一郎は、高く青く広がる、空を見上げた。

『霞の彼方へ』・参・: テキスト
bottom of page