霞の彼方へ
・壱・
木々を渡る小鳥たちの囀りが、昇る太陽の到来を告げた。森の闇が蕩けて、明るさに和らいでいく。足元から湯気が立ち上り、一気に湿度が上がったように思われた。
錦糸のような光が森の中に注ぐ。羽虫が滑空する度に光を反射して、金色の燦めきを残していった。
すうっと心が晴れるようだった。
少年は、朝日が大地を照らす最初の瞬間が、大好きだった。
森の木々に阻まれた空を見上げる。枝葉が空を丸く切り取り、深い藍色が次第に橙色に変わっていくのを目にした。
ふと、背後で、
「そっち! 救急、場所作って!」
張りのある女性の声が響いた。少しくぐもっているように聞こえるのは、口元を布地で隠しているからだ。身につけた装束も、黒い。
隠(かくし)。
鬼殺隊を陰になり日向になり、支えている者達だった。その多くは、蟲柱の管轄下にある。戦場を洗うのも、お手の物だった。
負傷した者達の治療にも抜かりがないように、現場指揮を執る女性は、周囲に気を配っていた。きっと、血飛沫の向きや地に付いた足跡の方向、踏み込みの間合い等で、戦場の広さやその過酷さも読み取ることができるのだろう。救助にも漏れがないように、少し離れたところまで指示しているのが分かる。
少年――無一郎(むいちろう)は、彼女らから視線を外して、刀を一振りした。血を弾き、鞘に収める。
共に戦った仲間には目もくれず、帰路を歩き出した。
「またあいつ一人でほとんど…」
「あいつだろ? この半月ほどで飛び級乱発してるのって」
「贔屓じゃねえ? 本陣に住んでるって聞いたことあるぞ」
「付き合い悪いしあんな餓鬼(ガキ)に指示されるとかないわ」
「それな」
『くだらない』
耳に入る大声が態とらしかった。
だが、気にはならない。弱者の戯言になど、付き合っている暇はないのだ。
『俺は、柱になるんだ』
反論したのは、鎹鴉(かすがいがらす)の銀子(ぎんこ)だった。
「あんた達とは出来が違うのよ!」
つい先程まで傍を飛んでいた彼女は漆黒の翼を広げると、彼らの頭上を何度も旋回する。一瞥した後は、好きにさせた。
「悔しかったら無一郎の十分の一でも倒してみなさいな! ま! 無理でしょうけどね~! ケケケ!」
小馬鹿にした笑いが耳に届いて、無一郎は、ふ…と笑みを零した。まるで糞でも落としそうな勢いに、
「銀子。帰るぞ」
身体を斜交いにさせて振り返る。
彼女は「はあい!」と人が変わった…もとい、鴉が変わったような声色で返事をすると、去り際も、
「ふん!」
と頭を振った。その後は、大仰に胸を張って、付いてくるのだった。
御館様への報告も終わり、屋敷に戻ると、
「みぃ」
帰りを待ちわびていたかのように、三匹の仔猫らがよたよたと寄ってきた。
母猫は居間の日陰にどっしりと腰を落とし、涼んでいる。一度こちらを見た瞳が、
「おや、帰ったかい」
と物語った。
無一郎は、任務前に炊いた残りご飯を白湯で溶いて、魚をほぐして混ぜた。一皿に纏めてしまうと、わりと大きく量がある。
『残ったら、多分あの母猫が食べるだろう』
「ほら。沢山食べな」
日差しのきつい日向を避けて皿を置く。ごちゃっと三匹がくっついて頬張る姿に、無一郎は、小さく笑みを零した。
刀を腰から外し、傍に寝転ぶ。無我夢中で食べている様を見ていると、幸せな気分になった。眠気が襲ってくる前に今日の戦いを振り返ると、眉間に皺が寄る。
『今日も巧く、できなかった』
刀を抱いて天井を見つめた視線が、鋭くなった。
『やっぱり一度、行ってみようか』
心が決まると、途端、睡魔が襲ってきた。目を閉じて、蝉時雨に耳を傾ける。輪唱する声が途切れると、かき消されていた別の音が聞こえた。通りの雑踏だ。
「一人、二人…」
足音で、どんな体格のどんな癖のある人か、どれだけの人数か、分かった。
行き交う人の数を数えている間に、また、蝉が鳴き始める。
『闇は嫌いじゃない。だけど…』
意識が遠く、視界は黒く、沈んだ。響く寝息に仔猫たちが釣られて欠伸をしたことにも、もう、気付かなかった。
頭には包帯を巻いたまま、上半身は裸で、無一郎が竹刀を振っていた。
『無一郎…』
正座をしたまま、見守るような眼差しを送るのは、耀哉(かがや)だ。
少年が力を込めて素振りをする度、腕の膿が赤黒い血と混ざって庭に飛び散る。全身の切り傷からは絶えず血が滲み汗と溶け合って、身体はまるで赫い雨を浴びたようだった。
『医者の話では、骨には異常はなかったようだけど。痛みは相当なはずだ』
思うが、無一郎の集中が途切れることはない。一点を見つめたまま、ひたすら打ち込んでいた。
ふと、
「耀哉殿」
あまねの優しい声が聞こえた。
傍にいるのは無一郎だけだ。そういうときだけは、名前で呼んでくれる。愛おしさが溢れてくるが、耳だけ傾けるそぶりを見せた。
そ…っと、身の脇に包み物を置いてくれる。膳に乗ったそれだ。頼んでいた物だった。
「ありがとう」
伝えると、一歩下がって腰を落とすのを感じた。
「お体に触ります。もう少し、日陰へ」
「大丈夫だよ。いつもありがとう、あまね」
微笑んだ。あまねの気配も和らいで、二人で庭へと視線を飛ばす。共に無一郎を見守ってくれるのを、とても嬉しく思った。
少しの間、時を共有する。
無一郎の素振りの音が、蝉時雨を何度も鋭く裂いた。
溢れる血の量にはあまねの方が心配になったのだろう、
「湯浴みと消毒を用意しておきますね」
「そうだね。頼むよ」
「はい」
衣擦れの音に柔らかな香りを添えて、余韻となった。
それから、まだしばらく、少年を見つめ続けた。
日差しはきついが、太陽は既に天頂にはない。一刻ほどもすれば、山の端に姿を消してしまうだろう。
時雨が蜩のそれに変わる頃、無一郎が打ち込みを終えた。荒い呼吸が座敷にいる己にまで聞こえて来、
「無一郎には、より攻撃的な、風の型が合うのかも知れないね」
静かに告げた。
『始まりの呼吸の剣士の血を引いてはいるけれど、その型は、今は…鬼殺隊には遺っていない…』
少年が振り返った。
視線を交して、何とも言えない笑みを零す。
『ほんの二日前。ここへ来たばかりの時は、止めたものだ』
せめて、傷が塞がるまではと。
だが、彼は、
「刀を握らせて下さい」
その一言を。繰り返し、言うのみだった。
『剣士にならないかと誘いに出向いていたのは私たちの方だ。最初は、その義務を感じているのかとも思っていたけれど』
その日の夜、彼が狂ったように叫び声を上げて身を起こした。
見た夢に、苛まれていた。すぐに駆けつけたあまねが、気付いた。
少年が、記憶を失い深い悲しみの二重苦に落ちていることを。刀を握ること、は、唯一、彼に刻まれた『使命』だったのだろうと知った。
したいようにさせることが、刀を振るうことが、今は…彼の傷を癒やすことになるのだろうと、悟ったのだった。
『きっと無一郎が納得しなければ、道はどこにも続かない。あまねが迎えに行ってくれたのは、双子だったけど…間に合わなかった…』
焦らずに待つしかない。
少年が、己を取り戻す日を。
「本当に、来週の選抜に出たいのかい?」
耀哉は静かに尋ねた。
「はい」
迷いのない声色だった。
「分かった。では、今日のうちにでも、『育手(そだて)』を呼ぼう」
「育手…?」
「うん。剣術はもちろん、物事の基本から教えてくれる先生だよ。本来なら、こちらから出向くべきなんだけどね。怪我がひどいから。まだここにいて治療しながらでないと」
「分かりました。ありがとうございます」
「それと、これ」
腰を折った無一郎に、耀哉は、あまねが運んでくれた膳を眼前に引き寄せた。
無一郎が無表情で寄ってくる。
その間に、物を包む赤い天鵝絨を解いて広げた。
「…!」
現れた幾つもの鉱石に、無一郎が目を見張る。本能で、価値が分かったのだろうと思える表情だった。説明する必要も、なさそうだった。
「一つ、選びなさい」
「…好きなのを?」
「そうだね」
失礼します、と、無一郎が軒下を上がった。
膳の前で正座をすると、その刹那だけ、目が合う。耀哉は小さく頷いた。
「無一郎の刀を、鍛えておくよ」
「選抜に持って行けるのですか?」
「残念ながら、それには間に合わない。館に控えがあるから、選抜にはそれを持っていくといい」
「はい」
「君は必ず、次の選抜を生き残る。本来はその時選ぶ物なんだ。だけど、私は確信しているから」
『無一郎が、歩みを止めなくて済むように。
剣技を極めていくことで、一つ一つ自身の怒りを理解し折り合いを付けて、自身を見つめられるようになれば。きっと、心は開く――』
「無一郎」
選んだ鉱石を手渡されて、受け取りながら耀哉は言った。
面を上げた少年は、無表情だ。
「確固たる自分を取り戻したとき、君はもっと、強くなれる」
「…」
「きっかけを見落とさないようにするんだ。失った記憶は必ず戻る。心配要らないよ」
「…はい」
無一郎は、小さく頷いた。
視線が、己の両手が包む鉱石に向いていた。