宵待ち月 風の調べ
第壱話:漣
・参・
里へ戻ったのは、夜もだいぶ更けた頃だった。
前日の任務の帰投が丸一日かかるとは思ってもおらず、
『柱の皆さんに、迷惑をかけましたね…』
縁壱(よりいち)は、天を仰いで溜息を吐いた。
それでも、御館様は十二分に労いの言葉をかけてくれ、鎹鴉(かすがいがらす)が先だって到着したのに合わせて、湯をも沸かしてくれていた。
本陣でゆったりとした時間を過ごさせて貰い、「これも報奨の一部なのだから」と話していた炎柱・煉獄惣寿郎(れんごくそうじゅろう)の言葉を思い出す。
『こんなお心遣いも、本当にありがたいものです』
感謝の気持ちで一杯になった。
「そう言えば、義政(よしまさ)が次の休暇はと…」
夕餉を頬張りながら、ふと、出掛け前に風柱が話していたことを思い出した。
出立前、息せき切って駆け寄ってきた彼が、耳打ちしてすれ違ったのだ。
「帰投は明後日か。夜、巌勝(みちかつ)の屋敷に寄って見ろよ。面白いモノが見られるかも知れないぞ?」
意地の悪い笑みに、
『また何か、悪戯を企んでますね。それも兄上に!』
真顔で目を横に見たものだが。当の風柱は楽しそうに笑うと、挙げた片手をひらひらと振って、水柱の元へと寄っていった。待ち合わせていたのだろうと思う、二人の姿はそのまま東の稽古場に消えた。
『いつまで経っても義政は、悪戯ばっかり』
とは言え、彼の実力が柱の中でも上位であるのは間違いがない。
今はもう、自身、兄上に続き、彼の名が上がるのだ。
『兄上が好んで彼と鍛錬をするのも、無理はありません…』
小さな溜息が漏れて、箸が止まった。
艶のある白米を見つめているのに、胸が軋む。
『義政のあの笑顔は、誰にでも等しく与えられるものなのに。なにゆえ、兄上は…』
箸置きに箸を置くと、縁壱は、掌を見た。
この手に掴めぬものを、義政は、掴んでいる。下級隊士達さえそれと分かるほど、宵柱の背中に風柱の背中が、風柱の背中に宵柱の背中が、いつも預けられているのだ。
その二人の僅かな間にあるのは、『信頼』。
「…」
視界が滲んだ。
どんなに望んでも、手に入らないもののように思えた。
「日柱様?」
ふと、小姓の声が響いた。
傍に控えていた輝王丸(きおうまる)――御館様の嫡男だ――も心配そうに、膝を進めてきた。
「お口に合いませんでしたか、粥を用意いたしましょうか? 戦いの後ですものね、さらりと食べられる物の方が…」
「あ、いえ!」
はっとして、慌てて箸を手にした。
粒の揃った艶やかな白米を食べられるのは、贅沢なことだ。
わりと豊かな鬼狩りの里においてさえ、このような待遇を受けられるのは、数えられるほどしかいない。
「すみません。とても美味しいですよ」
縁壱はほんのりと笑みを浮かべた。
「少し考え事をしてしまって。頂きますね」
「あ、はい…麦湯も淹れますね」
「ありがとうございます」
僅か八歳の輝王丸に項垂れた。感謝を告げた声音が申し訳ないものになった。
整えられた膳を有り難く、最後まで頂く。
『寄ってみましょうか…』
義政の態度も気にはなるが、相手が巌勝となればなおさらだった。
兄が何と言わなくても、度を超えたことならやはり咎めるべきだとも思う。
『あまり、気は進みませんが…』
兄の笑顔を見るのが怖かった。
ごくごく限られた相手にだけ、兄は笑う。
彼の懐に至る最初の入口は針の穴ほども小さく、図太い神経では入れない。
『それなのに、何故…』
思いはまた、風柱に飛んだ。
激烈な技と、豪快な性格。普段の笑顔からは想像もできないほど峻烈な剣技で鬼を仕留めるため、大抵の若手がその技に惚れる。
水ほどではないにしろ、里で風の剣技を学ぼうとする者は多かった。それでも、義政が『継子(つぐこ)』と呼ばれる後継を選ぶことはこれまでにない。時折彼らを見つめる鋭い視線を、稽古場で見かけることはあるのだが。
『まるで、品定めのように――』
話しかけられれば己と同じように、手解きはする彼だ。
だが、一人一人に時間は割かない。全体に大きな課題を出すといつもの笑顔でその場を後にするのだ。爽やかに。それは鮮やかで、嫌味のない見事な去り際だった。
そうして気付くと、河原で兄と二人、刀を思う存分交えていたりする。
「着いてしまいました…」
考え事をしている間というのは、距離が短く感じられるものだ。
日々を思い返すだけで何も考えが纏まらないうちに、門戸を見上げることになってしまった。
『珍しいですね、兄上が戸締まりを忘れるなんて』
諸手を広げた門構えに、心の内で小首を傾げた。
『何かあったのでしょうか…』
思うが、一歩踏み込んで息を飲んだ。
ただならぬ気配に身が震える。聞こえる声は兄のものだろうか、艶っぽい。
『まさか…!』
草履を脱ぎ捨てて、屋敷を上がった。
「あっ! んん…!」
嬌声が聞こえて、足が止まった。
『今、私は、何をしようとしている?』
見たくもないものを、この目にすることになるかも知れない。
そんな恐怖が身を襲った。
『義政が言っていた、面白いものって…』
吐き気がした。
兄上が犯されている?
「も…っと、奥…! あんんっ! よ、し…ま」
「仕方のない奴だな、ほら」
「ああ! あっあっ…義政…!」
『そんな…!』
至った考えが間違っていたことに、すぐに気付いた。
咄嗟に声のする方に身を躍らせた。
兄を救おうとしたのか、それ以外、身体が反射で動いた理由が思い浮かばない。顔色は決して表に出しはしないが、鬼に対峙するよりずっと、険しい心持ちになっているのが、自分でも分かった。
抱き合う二人を見た。
戸口の方を向いていた義政が、兄の肩越しにこちらに気付く。
どくん。
と芯が波打って、蛇に睨まれた蛙のようになった。
義政は視線を逸らすことなく、
「巌勝…」
「んん…」
囁いて快楽に伸び上がる兄の肌を撫でる。
喉を鳴らして喘ぐ兄の肌には幾つもの玉汗が滲み、薄暗い燈台の光に艶めかしく浮き上がっていた。肌を滑る度に、流星が翔るような錯覚に陥り、美しさに目を見張る。
腰を入れたまま口付ける淫靡な音まで響くようだ。
汗と白濁に塗れて、仲間の一人に身を委ねる兄。褥に流れた着物の乱れが、激しい愛撫を物語っていた。
『こんなことのために…私を呼び出したのですか、義政』
何かが奥底から沸き上がるようだった。
到底感じたことのない痛み。うたを失った時を思い出した。心臓の音が、やけに近く聞こえた。
と、くい。と義政が顎を上げる。
『! ……』
すぐに分かった。義政が、何をしようとしているのか…したいのかも。
『敷居を跨いではいけない』
もう一人の自分が、どこかで言った。開いた戸口を潜ってしまえば、引き返せなくなる。
『このまま日柱邸に帰るのです、縁壱』
強請(ねだ)り、甘え、されるがままに蹂躙される兄。蕩ける声色が二人の関係の深さを表しているようで、不快だった。
一度や二度じゃない、兄の喘ぎは義政を心から求めるものだ。
『それを、私が――――』
思った事は、自身の足を踏み出させた。
己の影は闇に消え、敷居を跨ぐ表情は氷のようになった。