宵待ち月 風の調べ
第壱話:漣
・壱・
湯浴みを終えた髪はだいぶ重い。
巌勝(みちかつ)は、手拭いで何度か水分を取ると、四枚目をようやく肩にかけて一息ついた。
寝間着となる着物に袖を通す。
紺色の幅の狭い帯で軽く締めると、人心地着いた気がした。
離れの湯殿を後にする。固く絞った手拭いは、袂に入れるとずっしりと存在を主張した。思わず、苦い笑みが零れた。
宵柱邸はわりと広い。柱になるとき御館様から屋敷を賜ったのだが、どんな物でもと融通が利くことを知って――炎柱邸やら翁のいる鳴柱邸ほどではないにしろ――広い屋敷を頂くことにしたのだった。
本館へと足が向かう。渡殿に差し掛かった。
その途中で、歩が止まった。
徐ろに見上げた空には、ちらちらと小さな光が瞬いている。茜空は刻一刻と、宵闇に解けていった。
頬を撫でる風は心地よく、爽やかだ。
『この季節、ここはとても気持ちいいな…』
鬼狩りの里は盆地である。
もう少し経てば、それはもう茹(う)だるほどの暑さに気が滅入るものだが、梅雨が明けて少し経った後だけは、湿気も取れて日差しも柔らかく、日々過ごしやすい。
『わざわざ外に干さなくても良いか』
思って、巌勝は、手拭いを渡殿の欄干に干すことにした。
『ここなら誰の目にもつかないだろう』
屋敷の奥の奥だ。
この辺りまで踏み込める輩は、五指にも満たない。
片端から広げ、二度ほど大きく布を振るう。空気を叩く豪快な音が宵を裂いたが、皺は綺麗に伸びた。重ならないよう丁寧に干すと、満足げに相好が崩れた。
何気なく夕餉のことやその後のことなどを想像して、順序立てる。
今夜は非番だ。久々にゆっくり時間が取れることを考慮して、先に湯を上がったのだった。
脳裏に、無二の友の姿が思い描かれた。
この時代には珍しい、髪を雑多に切った若者。深い緑色の着物に黒袴を履いている。振るう刃も若草色だった。
風柱・貴船義政(きふねよしまさ)。
歳は己より、三つほど若い。
多少強引なところがあるものの、そんな我が儘を目にするのは一緒にいるときばかりだ。強く、笑顔の絶えない彼は鬼狩りの若手達からはすこぶる評判がよい。そんな彼が、始終顰め面の宵柱といることを不思議がる者は、少なくなかった。
『ったく。あいつは。遠慮というものを知らん!』
数々の「それ」が、疾走する闘牛の如く脳内を暴れた。額に青筋が浮かぶ。ふつふつと沸き上がる感情に頭を振って、
『あいつも今日は休みだったな…』
要らぬことを思い出した。
瞬時に紅潮した。煮立った竃のように湯気が頭から出て、激しく横に振る。目を強く瞑った。
『まさかな』
何を期待したのだろう。
早鐘を打つようになった心の臓に、大きな溜息が出る。
柱達の間でも人気の高い彼だ。人付き合いもいい。いつもいつも、傍にいるとは限らない。
二度目の溜息は、失望の色が混ざった。
そんな己に苛立って、巌勝は、
「ああ、もう!」
人前では滅多に出さぬ、荒(あら)らげた声色で憤怒を顕わにした。
とにかく軽く粥でも頂こうかと、厨房へと向かう。
虫の音が、次第に深く、大きく、辺りに輪唱を響かせていった。
十分すぎるほど、ゆったりとした夕餉のひとときを過ごして、巌勝は、後を片した。複数の燈台に火を移し、厨房と出入りの戸だけは閉めておこうと移動する。
縁側を歩いて庭を眺めると、度肝を抜かれた。
「よ!」
義政だ。
片手に酒壺、片手を挙げて、満面の笑みだ。
突如現れた人影にすら肝を冷やしたのに、
「気配を消すな、馬鹿者!」
「驚かそうと思ってさ~!」
「十分驚いたわ、しかもなんだ、出入りはあっちだろう!」
「だからあ」
「あああっ」
分かった、と、巌勝は頭を抱えた。
「ちょっと油断しすぎじゃね?」
「お前が言うな!」
義政の快活な笑みに、深々と肩を落とした。
相手は構わず、軒を上がってくる。何を言わなくても、だ。
「お前な…上がっていいとは誰も言っとらんぞ」
「暇だろ?」
「身も蓋もない言い方をするな! なんでお前はそう…」
「はい。土産」
「人の話を聞け!」
「それさ、龍洞(りゅうどう)の差し入れなんだよ」
「っ…」
「今一番、京(みやこ)で流行ってる酒らしいよ? せっかくだからお前とって、思ってさ」
「……」
口を閉ざしていた巌勝の頬が、少し色付いた。口元に手を当てて僅かに視線を逸らした。
が、にんまりと笑った義政の雰囲気を察する。気付いて仏頂面になった様に、彼がまた快活に笑った。今度こそ、顔が真っ赤になった。
「お前、可愛いよな。そういうとこ、もっと見せてやればいいのに。縁壱(よりいち)に」
「!!」
付け加えられた一言には、真顔で膝かっくんを見舞ってやった。
「うおお!」と、両手を挙げて豪快に倒れ込んだ義政に、笑みが零れた。