夢てふものは
たのみそめてき
・弐・
翌。明け方。
巌勝(みちかつ)は、縁壱(よりいち)からの電話で叩き起こされた。前日は遅くまで行冥(ぎょうめい)と酒盛りしていたこともあって、疲労度は半端ない。けたたましいコールは同じようにリビングで酔いつぶれていた行冥まで起こし、
「…何事?」
と言わしめた。
内容は嬉しいものだったし、その反動で、勢い余ってそちらに行くと縁壱に伝えてしまっている。
巌勝は、行冥をバス停まで送ると家路を辿り、
『ちょっと飲み過ぎたな…頭痛い』
長々と溜息を吐いた。
玄関を開けて、暖かな室内に転がり込む。数歩進むと、明け方近くまで語らい飲んだ、瓶やら缶やらで一杯のリビングの戸口まで来て、何とも言えない笑みが零れた。
『少し寝れば復活するとは思うが』
山を登るなら早めに出なければならないし、ここも片付けなければならない。取り敢えず後者、と思っては、缶用の指定ゴミ袋を取り出して、
『やっぱり縁壱に迎えに来させよう。そうしよう』
にやりとほくそ笑んだ。
片付け終えて、一時間ほども前の履歴から、縁壱の携帯の番号を押す。
手短に用件を告げると、案の定、弟は、一も二もなく快諾してくれた。
お社(やしろ)をすぐに出るとは言っていたが、一時間近くはかかるだろう。何せ、継国山(つぎくにさん)の八合目から、雪の林道を下ってくるのだ。時計を見て一瞬迷いはしたものの、
「ちょっと寝る。鍵開けとくから、起こしてくれ」
ショートメールを入れた。
重い体を引き摺って、二階に上がる。眼鏡とスマートフォンをサイドテーブルに置いて冷えたベッドに潜り込むと、その瞬間は身が縮んだ。が、毛布に包まって固まっていると、次第に体温で保温されていく布団に表情も解れていく。
『温かいな…』
幸せな気分で、次第に夢見心地になった。
そのままうとうとと、迎えに来るまでの数十分を、満喫したのだった。
――――「すまなかったな、縁壱」
荷台に雪が積もったまま降りた軽トラックを見て、兄がくすりと微笑んだ。改めて礼を言ってくれる姿には、思わずこちらの顔も綻んで、
「いえ、構いませんよ。麓(ふもと)から登るとなると、大変ですからね。これくらい何ともありません」
「助かる」
助手席に着いた兄の顔が満面の笑みになった。
「では、行きますね」
一声掛けて、シフトチェンジをする。軽快に走り出したトラックはすぐに継国山の林道に差し掛かり、山門へと行き着いた。
「俺が開けよう」
兄が言った。
「あ。兄上」
寒いから自分が。と、止める間もなかった。ダッシュボードに仕舞っていた鍵束は、言いながら既に手にされていた。彼を呼ぶ声は戸を閉める豪快な音でかき消され、あっという間に姿が遠ざかる。
凜と張り詰めた継国の厳冬へ身を躍らせた兄は、慣れた手つきで錠前を開けていった。最後に閂(かんぬき)の暗証番号を入れると、山門は、音を立てて来る者を迎えてくれた。
兄が戻る様子はない。
縁壱は、トラックを急発進させて門を潜った。
門を越えたところで待つ前から、兄は、手順を逆に進めて門を閉めてくれる。上着も羽織らずこちらの手間も掛けさせずにそつなくこなす様を見て、
『昔から何も変わりませんね…兄上は』
嬉しいような、困ったような笑みが浮かんだ。
「さぶっ!」
戻った兄には思わず謝るが、
「気にするな、俺が行くって言ったんだ」
「それはそうですが…なるべく早く上がりますね」
「いい、ゆっくりで。この先雪道なんだぞ」
「…はい」
窘めるような口調も変わらない。内心、くすりと笑みが零れた。
再び走り出す。次第に雪深くなっていく林道を慎重に登っていった。スノーポールがあるため、道幅は分かる。時折確認しては、スノーシェッドを何度か潜って、境内(けいだい)の裏の駐車場まで辿り着いた。
開けたそこには、風が通る。風花が舞って、雪煙に兄が吐息を漏らした。
「綺麗だな…継国は」
「ええ…」
真綿を乗せたような灯籠が転々と奥へと続く、境内の裏道。
車一つ分だけ空いた駐車スペースには、砂利が見えた。黒く濡れて、まるで碁石のようだ。
縁壱は、器用にそこに、ぴた。と填めて停めた。
「やっぱり楽だな」
後方を確認してくれていた兄が、小さく笑みを零したのを見た。前に向き直った横顔が、陽の光を反射した雪原の燦めきに照らされる。とても目映かった。
言葉を返すのも忘れて見惚れていると、こちらを向いた彼が、
「ん?」
首を傾げた。
顔が陰って、またいつもの宵闇の静けさが瞳に戻ると、
「いえ」
咳き込みながら首を横に振った。
慌てて言葉を付け足す。
「初めてですね、兄上が年末にお社に戻ってきて下さるなんて」
「そう言えばそうだな」
思えば、今年に入ってからだ。巌勝が割と頻繁に、神社まで足を運んでくれるようになったのは。
来る度荷物を置いていくため、すっかりここでの寝泊まりも板に付いた。今日なんて、手ぶらである。
それがなんだか、とても嬉しい。
「ゆっくりなさって下さいね、兄上。明日の準備はもう、終えていますから」
年始、県警の指導員が若手を連れて登ってくるのは恒例だ。
『どうにも継国の神様は、彼らに味方のようですからねえ』
自身が神主になって以来、悪天候になったことなど、ただの一度たりともない。警察官たちも、ここへ来るのは定めだと諦めていると、兄から聞いていた。
「それなら良かった! 本堂の雑巾がけでもする覚悟だったが」
「県警の皆さんと一緒になさっても構わないのですよ?」
「…いや。撤回する、勘弁してくれ」
「ふふ!」
共に歩き出しながら、裏参道を社務所へ向かった。兄と二人なら、寒くもない。一歩踏みしめる毎に軋む雪の音が、耳に心地良かった。
ふと、
「うたが、沢山料理を持たせてくれたんです」
「果報者だな? よかったな、縁壱」
「…ええ」
兄の一言には、重みがあった。
あの頃自ら話すことはなかったが、きっと、風柱こと、現世でも無二の友の義政(よしまさ)からは、鬼狩りになった理由を聞いたこともあったろう。
『ですが、今こうして。兄上と一緒に歩いていることこそが、私には…』
社務所に着くと、黙って鍵を開けた。
うたを思い起こしては、昨日の朝のことが頭を過ぎった。心の臓が大きく波打つ。彼女の顔が兄の顔に一瞬すり替わって、どきりとした。
「…兄上。いらっしゃい…いえ、お帰りなさい」
「ただいま。…暖かいな?」
「それはもう、切らさないようにしていますから、暖房」
「放っておくと凍るもんな。全て」
「それです」
互いに顔を見合わせてはくすりと笑って、居間へと身を移す。
「温かいものでも淹れましょうか。躯冷えたでしょう、兄上」
「ん。紅茶が良いな」
「…はい」
珍しい、と思った間が少し空いた。兄はいつでも珈琲を飲みたがるからだ。
嬉しく感じた気配は彼に伝わっていたようで、面がとても柔和だった。
兄は、片膝を立てて腕を乗せ、縁側に腰を下ろしている。雪の積もった庭園を見つめ、眼差しが優しくなっていくようだった。
『まるで静寂に溶け込むようですね…。兄上は、いつもそうでした…』
このまま、時が止まってしまえばいい。
そんな事を思って、縁壱は、また、仄かに顔を赤らめた。
「で? 何やってる、縁壱! やめろって言ってるだろうが!」
暴れ、蹴飛ばしてくる兄の脚を掴んで、縁壱は珍しく眉根を寄せた。機微ではあったが、兄にはよくよく分かるようで、
「お前が怒るのはおかしいだろう、俺がやめろって言ってるんだ!」
暴れる度に着物が開(はだ)ける。
それも好都合だった。
「兄上が、言ったんですよ!」
はっきりとした、怒りが混ざった。
「負けたら、言うことを聞くって!」
「『人生ゲーム』なんか引っ張り出してくるからだろう! 嫌味か!」
「あれはしのぶさんが置いていってくれたんです! 冬休みに皆で遊んだ後」
「またお前は…! ちょっ!」
二人に頼りすぎだとでも、言おうとしたのかも知れない。
だが油断した隙に掴んだ脚を思い切り引っ張ると、畳を擦って身を滑らせてきた兄を真下に組み敷いた。
「往生際が悪いですよ、兄上。いつも言ってるでしょう」
「ふざけるな! 誰でも拒むわ!」
跨いでは畳に彼の顔を挟むように両手を突くと、兄が息を飲むのを感じた。伝わってくるのは恐怖だ。それが悲しい。
「兄上…」
躊躇った声色に、巌勝の瞳が鋭利に光った。軽蔑と、憤怒と。諦めたように固まった我が身に、兄の深く長い溜息が漏れた。
身を捩り、逃れようとした巌勝に、魔が差した。やめておけばいいのに、「やっと分かったか」と言わんばかりに油断して背中を見せた兄が、無性に欲しくなった。抜け出ようとした腕を咄嗟に掴んで締め上げた。
「! 縁壱!」
悲鳴に近い声だった。
最後の理性が外れた気がした。後ろ手にしたそれに体重を掛けると、兄の身は畳に沈んだ。
「縁壱…! やめろ!」
二度目のそれは、悲鳴だった。
「……」
押しつけられて横を向いた顔が苦しそうに歪んだ。空いた片手の指が畳に爪を立て、必死なのが分かる。
「兄上」
知らず、声が低くなった。片手で彼の腰帯を引っ張ると、
「っ!」
兄の苦い呻きが喘ぎに聞こえて、自らの狂いを理解はした。
「やっ、め…!」
帯を咥え、兄の上に馬乗りになり、自由な腕も手にする。逆手の兄より無論こちらの方が有利で、あっという間に背中に回すと両手首をきつく縛り上げた。
「っつう…!」
身を横に移しつつ、ゆっくりと伏せて、兄の横顔に顔を近づける。
びくりと大きく彼の身が揺れて、生唾が喉を通る音が聞こえた気がした。
「兄上が悪いんです、素直にその身を委ねてくれたら良かったのに」
「何言っ…っ!?」
反論しようとした兄の口に指を突っ込む。噛まれる前に舌を掴んで少し引いた。
「んんっ! ん…!」
兄の喉が鳴る。苦しげに藻掻く間に目尻に小さな雫が溜まった。
『兄上』
強引に身を捩る兄の胸板に、もう片手を忍ばせた。畳に擦れて熱を帯びた胸元に指を当てると、兄が鳴く。興奮した小さな蕾を弄ると、大きく喉が鳴って身が揺れた。
たまらない。
そんな自分がいることに焦りもした。もう一人の自分が懸命にその先を止めようとして、耳を傾ける。兄の舌から指を離し、自由にすると、何度も荒い呼吸を繰り返して涎が垂れた。
その姿がまた、艶めかしい。強引にひっくり返して仰向けにさせると、眼差しが交錯した。
まるで、やめてくれ、と、懇願するようだった――――
「っ…!!」
巌勝は、跳ね起きた。
『なんだ、何見てた、今! 俺!?』
噴き出す汗を拭うのも忘れ、過呼吸になったように息をした。焦って室内を見ては、ぼんやりと視界が滲む。眼鏡がない。分かったのは、漆黒の室内に煌々と焚かれている、ストーブの真っ赤な灯りだけだった。
『ここどこだ! え…社務所? 俺の部屋じゃない! どこからが夢? 今、現実…!?』
枕元を弄る。
指に固く細い物が当たって、はっとした。眼鏡だ。むんずと掴むと慌てて掛けて、もう一度辺りを見渡した。先程よりは瞳は闇に慣れ、
『社務所…!』
どっと疲れが出た。
壁の時計を見上げる。秒針が一つ動く度に小さな音がし、しっかりと時を刻んでいく様子にほっとした。が、丑三つ時だ。見たのが「初夢」だと分かってゾッとした。余りに強烈で、脳裏にこびりついている。
勢いよく、隣に視線を落とす。
縁壱が、穏やかな寝息を立てて小さく丸くなっていた。まるで幼子のようだ。
いつものやんわりとした雰囲気が伝わってきて、巌勝は、心底安堵した。長く重い溜息を、一つ吐いた。
「縁壱…」
つい、口を突いて出た。あんな夢を見た後だ、これほど穏やかな面を見れば、あれが夢だとはっきり認識できる。そっと手を伸ばし、顔に影を落とす前髪をかき上げてやると、そう言えば。と、思った。
『痣が、ない……』
なくていいものだ。
この、現世においては。
『良かった』
そのまま髪を梳くように、指を通した。意図せず指先が首筋に触れて、
「…兄上?」
縁壱が目を覚ました。
「あ、すまん」
「………いえ」
弟の眼差しが、やっと落ち着いた心の水面に、小石を投げ入れるようだった。
目覚める直前の、あの、獣のような彼の執着が、風のように過ぎる。
果たしてあれは本当に夢であったかと、首筋に触れたまま親指で彼の唇を辿ると、縁壱は、驚く風もなく、こちらを見つめたまま指先を舐めてきた。
「っ…」
驚いた。
どきっとして手を引っ込めようとしたが、一瞬早く、咥えられ舐められた。生暖かい舌が艶めかしく指を辿って行くのに、巌勝は、覆い被さるように身を寄せ舌を弄った。
「ん、ん…」
縁壱が鳴いた。次第に瞳が潤んでいく彼の顔を見ては、
『そうして欲しかったのか、あの夢。お前は』
妙にはっきりとした答えが出て、何故か苛立った。指を入れ、思い切り、舌を掴んで引っ張り上げた。
「っ!!」
声にならない声を上げて、縁壱の身が軽く浮く。
痛みにきつく目を瞑った彼の目尻から雫が幾つもこぼれ落ちて、巌勝は、彼を放った。
「…兄…上」
喉に手を当てて数度咳をしてのち、蚊の鳴くような声で呼ばれる。
荒く両手でその手を払い、肩から浴衣をずらすと、縁壱が息を飲んだ。だが、それだけだ。
「…拒まないのか」
あの夢を真逆に再現して、彼を真上から見つめる。
「兄上に、なら……」
気恥ずかしそうに目を逸らした縁壱に、
「聞こえない」
言って、胸元を五指で辿る。
「っは…!」
びくんと、彼が、大きく反応した。