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山菫の咲く頃に


・壱・


 洗濯物が山になった籠を抱えてサンダルを履いた時、庭先から鼻歌が聞こえた。

『伊之助(いのすけ)?』

 アオイは小首を傾げた。

 低い濁声は間違いなく彼のものだろうが、鼻歌とは珍しい。かなり調子外れではあるが、ご機嫌な様が窺えた。

 興味を引かれてそのまま庭へ出ると、

「ちょっと。伊之助! 何やってるの!」

 洗濯用の大桶で、猪頭を洗っている彼を見た。

「は? 何って洗濯だよ。せ・ん・た・く!!」

 つい、

「何言ってるの! 獣の皮を人間用の石鹸で洗ったら傷むじゃない!」

 声を張り上げつつ洗濯籠を置く。大きく重たい音を響かせたのと、

「何っ!?」

 伊之助の声が重なった。

 腕を捲りながら寄る。

「しかも、石鹸でもなかったわ、それ…頭洗うやつよ?」

『なんでこんな物で洗おうと思ったのかしら』

 アオイは両手を腰に当てて、呆れ顔で息を一つ吐いた。

 その脇で、伊之助が、

「あ…んの、野郎!!」

 大切な猪頭を飛沫が立つほど桶に叩きつけて、立ち上がる。

 疑問に思ったことは、割とすぐ解けそうだ。

 口振りから、

『入れ知恵した人がいるわけね』

「ほら、貸して」

 怒髪天を衝く勢いで身を震わす伊之助に、アオイはしゃがんで、猪頭を手に取ろうと腕を伸ばした。

 彼は、

「おい! どんぐり丸!!」

 相棒を声高に呼ぶ。

「あいつどこ行った! しょんべん漏らし野郎!! 居場所突き止めろおおぉぉぉぉ!!」

 姿を見せない鎹鴉(かすがいがらす)に変な指令を送るのを、アオイは見上げる。

『ション…って、誰よ! もう…。変なあだ名付けないでよね!』

 思いつつ、アオイは、服が濡れるのも構わず猪頭を抱えると、桶の石鹸水を流してそこに頭を入れ、抱えて井戸に歩いて行った。

 伊之助が後を付いてくる様子はない。

 振り返ると、鴉の後を追って、早速どこぞへ出かけていくのを見た。

 慌てて、

「伊之助っ、頭…!」

 怒り心頭なのであろうが、大切な猪頭を他人に寄越したまま飛び出すなんて、そうそうない。

「もう…」

 呆気に取られたアオイはしばらく、伊之助の背中に釘付けだった。小さくなっていく姿に合わせて、なんとも言えない顔になる。

「仕方ないわね!」

 猪頭の石鹸を何度も井戸水に通し、丁寧に落とした。時間を掛けて、指先を使って毛先の汚れを丹念に落としていく。やがて、これが元の色では? と見紛う程の色艶にまで元の通りになった。

 傷まないように形を整え、日陰を選んで干す。

 その表情が、満足とばかりに輝いた。



 目的を果たしてご満悦の伊之助が蝶屋敷に戻って見たのは、風にはためく真っ白なシーツの波だった。

 その隙間から、ちらちらと、猪頭が覗く。

「お!」

 と小さな声を上げながら駆け寄ると、猪頭はぴかぴかに磨き上げられており、どうだと言わんばかりに輝いている。

「すげぇ…」

 目を見張った。

 元の形に整うようにとの気遣いだろう、風通しも良い小さな竹籠に、ふっくらと軽くかぶせて干してあった。

 その様を見て、脳裏に、育ての親が過ぎった。もう長らく、思い出すことのなかった顔だ。それほど日々は目まぐるしく、慌ただしく過ぎ去っていた。

 ほっこりとした心の内に、おかきじじいまで過ぎっていく。何もかも、彼女のお蔭だと思った。

「アオイ…」

『どこ行った? あいつ…』

 庭にはもういない。

 乾いたそれを手に取り抱えた。礼を言うまでは、被るのは勿体ないと感じた。

 蝶屋敷へ戻り、

「アオイ!」

 駆けて探すが、どこにもいない。

 何度目かの叫びに応えたのは、炭治郎(たんじろう)だ。

「あ。伊之助。アオイさんなら今、買い出しに行ってるよ。天麩羅(てんぷら)天麩羅って、お前が言うから」

 今年に入って、何回か仲間の誕生日会を満喫した伊之助は、それが、「美味しいものを食べられる日」と認識している。

 当然、自分のその日には、一番の好物が腹一杯食べられるはず、と思っていて、卯月(うづき)を跨いでからは、顔を見れば好物を告げていた。

『アイツいつも、俺のこと…』

 きっと、旬の野菜や肉をしこたま買ってきて、今夜はご馳走を作ってくれるはずだ。それはもう、間違いがないだろうと思えた。

「…」

 もてあました感情がむずむずと体内を巡ったが、いないのでは仕方がない。

『戻ってくるのは、まだ先だよな…』

 思案を巡らせぴんときたのは、

「権三郎(ごんざぶろう)! 今暇か?」

「え? あ、うん。俺は炭治郎!!」

 何? と、目を丸くされ、伊之助は、一瞬照れたように言い淀んだ。

「あ。あのさ…」

 季節柄、山にお得意の物を拾いに行くのは難しい。

『だけど、都会育ちのあいつの見た事ないものなら! 他にもあるもんね!』

「相談があんだけど」

 伊之助は小さな声で、思うことを炭治郎に告げた。



・弐・


 買い出しから戻ったアオイが屋敷の門を潜ったとき、ちらりと横目に見たのは、

『まだ伊之助、戻ってないの!?』

 竹籠にちまっと乗った猪頭だった。

 思わず足がそちらに向く。

 頭に近寄ると、心なしか、自分が乗せた形とは異なる気がした。誰かが竹籠を使おうとして触ったのかも知れない。

『そろそろ日も暮れるわね』

 卯月とは言え、夜はまだ冷えることもある。このままにしておく訳にはいかない。

『仕方ないなあ』

 アオイはひとまず山ほどの食材を台所に置きに、屋敷に戻った。

「あ。お帰りなさーい! アオイさん」

玄関で折しも声を掛けてくれた童三姉妹――とアオイは心の内でそう呼んでいた――に、

「丁度良かった! これ運んでくれる?」

「はい! …わあ! 伊之助さんの好物ばっかり!」

 きよたちの顔が満面に笑みを湛えた。

「きっと喜びますね!」

「楽しみにしてましたもんね!」

 三人が口々に褒めるのを、アオイは頬を少し紅色に染めながら、

「毎日毎日言われれば、仕方ないから!」

 そっぽを向きつつ口を尖らせて言った。

 ふふ、と、きよたちが笑ったのを横目に収めると、知らず、どきどきとしてしまう。

 だが、きよたちはそれ以上の詮索をすることもなく、任せてくださいね~! と、荷物を笑顔で受け取り、建物の奥へ消えた。

 どこかほっとする自分に、

『んもう! 伊之助のバカ!』

 悪態をつく。

 その顔が今日何度目かの笑顔になった時、ふっと、気付いた。

『伊之助の誕生日、一番楽しみなの…あたしかも…』

 いやいやいやいや。

 と、頭を激しく横に振る。

 心臓が早鐘を打つように鳴ったのを、何度も深呼吸をして止めてから、アオイは、庭へ駆けていった。

「何度見ても、…あさっての方向見てるこの両目がいじらしい…」

 大事に抱えて、部屋へ戻る。

 ふふっと、笑みがこぼれた。



「伊之助! こっちのがいいよ。ほら、真っ白!」

「善逸(ぜんいつ)、これは? 綺麗な青…!」

「わ、それもいいね! 迷うなぁ」

『ただでさえ小物屋で男三人気まずいってのに、こいつらなんでこんなにはしゃいでんだ!』

 立ち尽くし、ふるふると拳を両脇に握るが、相談したのはそもそも自分だ。

 炭治郎に相談した俺がバカだった…と思ったのは、ほんの二刻(にこく)程前。

「俺もよくわかんないよ…、そういうのはさ。…あ! 善逸!」

 と、任務から戻った善逸をとっ捕まえた炭治郎に、

「言うなぁボケェ!!」

『大事になるだろが!!』

 止めるのも聞かず、彼は善逸に、一言一句余すことなく話した。

『ああああああ』

 心の内で叫びながら駆け寄り、炭治郎に罵詈雑言を浴びせながら伸し掛り、両拳でぼかすか叩く。

 だが、炭治郎はとても嬉しそうだった。

 話を聞いている善逸も、疲れた顔が次第に笑顔になっていき、聞き終わるや否や、

「よし! 早速行こうよ!」

 と、乗り気になった。

「お前ら、アイツにばらしたら死刑だかんな!」

 念を押すも、二人にその気がないことは伊之助自身がよく分かっている。

 湧いた苛立ちも、二人の笑顔を見ていれば、少しずつ解けていく。

 ほっこりと心が温まると冷静になって、

『よし! 俺が選ばなくちゃ意味ないよな! そうだよな!』

 伊之助は笑顔になって、二人の間に割って入った。彼らの明るい声に誘われながら、わいわいと相談し始めた。


 その夜の誕生日会には、しのぶも用事を早く切り上げてきてくれた。その最中で蜜璃(みつり)を誘ってくれたらしく、両手に花で伊之助はご満悦だ。

 アオイは台所から次々にご馳走を――と言っても、天麩羅が大半だが――、運びつつ、

「あんたのために作ったんだからね! ちゃんと全部食べなさいよ!」

 言って、つん、と横を向く。

 相当な量だが、伊之助は親指を立てて、

「任せろ!」

 笑顔で言った。

『なによ…、昼間のお礼は無し?』

 心の内に出来たささくれが少し痛い。

 とはいえ、伊之助のそんな態度はいつもの事だ。

 しかも今日は彼の誕生日。

『浮かれちゃうのも仕方ないかぁ』

 あーあ、と溜息をつきながら、次の料理を運ぶために盆を抱えて台所まで戻る。出入りの扉のところで、アオイは、室内を振り返った。

 おめでとう、という祝いの言葉の合間に、仲間たちが楽しそうに談笑している。それはそれで、とても嬉しい。

「んもぅ」

 アオイは何とも言えない顔で一息着くと、心持ちを切り替えた。

「はいはーい! まだまだ沢山あるからね!」

「アオイさん、いつもありがとう!」

 炭治郎の口から出た言葉に、

「感謝しなさいよ!」

「はーい!」

 ちらりと伊之助を見る。

 善逸とじゃれながら箸を伸ばす彼に、小さな苦笑いを零した。

 その夜は遅くまで、食べて飲んで昔遊びをする伊之助たちの笑い声が、蝶屋敷に響いていた。



 翌朝、

「寝過ごした…!」

 アオイは日が昇ってから目を覚ました。

 昨夜は誰より遅くまで片付けをしていた彼女だ、ちょっとやそっと寝坊しても誰も怒らない。

 だが、当の本人は青ざめた。

 布団を跳ね上げ飛び起きる。耳を澄ますと、まだ、小鳥たちが朝の囀りを奏でている最中だった。彼女が心配したほど、遅い時間ではない。

 その耳に、剣戟(けんげき)の音が聞こえた。

『あいつらもう、稽古始めてるのね…』

 炭治郎と善逸の笑い声に混ざり、伊之助のそれが、一際大きく聞こえるようだった。

 何とも言えない顔になって、両足をベッドから下ろした時、

「え?」

 枕元傍の机の上に、小さな鉢植えを見つけた。

『菫(すみれ)…? 見た事ない色形…』

 中央に白い筋の入った蒼い小さな菫が、鉢一杯に咲いている。

 山菫だ。

 ピンと来る。

『あいつのことだから、根っこから抜いてきたんだ…。けど、この鉢植え…』

 丁寧に、鉢は白いレースが巻かれ飾られてあった。菫の色より若干濃い葵色のリボンが、謙虚に咲き誇る花より華やかで、

「ふふっ」

 そのアンバランスさに笑みがこぼれる。

『でも、なんで?』

 アオイは立ち上がり、カーテンを引いた。

 庭で仲良く稽古に励む三人が目に入る。

『ここから呼ぶのもね…』

 思った時には、鉢を抱え駆け出していた。

 この屋敷では一番の居場所、台所に立ち寄る。

 窓辺の中でもとりわけ日差しが明るく指す場所にそれを置くと水をやり、笑みが零れた。

 勝手口から庭へ出る。

「伊之助!」

 大声で呼ばわる。

 その声色は、とても明るいものになった。

 相手に聞こえるように、腹に力を込めて言おうと思うと、両手でスカートの裾を強く掴む格好になった。

「お?」

 振り返った伊之助に、

「ありがとね! お花!」

 言うと、伊之助が駆け寄ってきた。

 洗い立ての猪頭から、同じ心持ちがこぼれ落ちるようだ。その後ろで、炭治郎と善逸も顔を見合わせ微笑んでいる。

「アオイ!」

 呼ばれながら、身を高く掲げられる。

 思わず、

「っきゃあ!」

 声を上げるが、伊之助は、

「ご馳走より何より、ピッカピカの頭の方が嬉しかったぜ!!」

 そのまま肩車をしてくれた。

「あはは!」

「いつもありがとな!」

 とても嬉しそうに礼を述べた伊之助には、

「こちらこそ!」

 満面の笑みで応えた。

「おうさ!」

 伊之助が拳を高々と上げて笑う。

 アオイもまた、笑声を立てて破顔した。



山菫の咲く頃に・完

『山菫』・本編・: テキスト
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