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​水龍天雅

~龍は水天に舞うが如く~

・弐・

 外観だけは元の通りだったが、硝子や障子は全部外した。畳や家財も全て、処分した。流石に片手で棟を壊すまでは至らず、後は、村の大工達に頼むだけとなった。がらんどうとなった、まるで柱ばかりの箱庭のようになった自宅を前に、義勇は暫く、眺めた。

 いつか、この棟はそのままに、改築された姿を観ることになるかも知れない。傷んだところを新しい物に変えて、人は、時間を積み重ねていくのだ。

『さて。行くか』

 世話になった庄屋や宿屋、茶屋にも挨拶は済ませた。

 次は宇髄家だな、と挨拶先を思い描いた時、虚空に黒い影が弧を描いた。落ちた小さな影に空を見上げる。飛来した黒い者に、

「…寛三郎」

 目を丸くした。

『もう逢うこともないと思っていたが』

 爺ちゃん鴉も義勇の姿を見つけたようだ。よたよたと、時折風に流される身体を懸命に軌道修正して、舞い降りてくる。

 義勇の方が二三、歩を進め、腕を伸ばした。

 耳に、寛三郎の、「よっこらしょ」という声が聞こえるようだった。

「何か、あったのか?」

 心許(こころもと)なげに尋ねる。

 寛三郎は義勇の肩の上で、収まりの悪い翼を広げては畳みを何度か繰り返すと、言った。

「手紙。預かったぞぃ」

 寛三郎が、ずい、と片足を持ち上げる。

 義勇は思わず、微かな笑みを浮かべた。

 あの頃も、寛三郎は、よく指令を聞き間違えたり伝え間違えたりしたものだ。御館様は特に咎めはしなかったし、気長に自分たちと付き合ってもくれたが、なかなかどうして、ひやりとすることばかりだった。

 もう、余命も、それほどないのかも知れない。

『いや』

 戦いが終わり、心労も大きく減ったろう。張りがなくなったと取るか、一層穏やかに過ごせるようになったかは、寛三郎のみぞ知るところだ。

「ありがとう」

 小竹の筒から手紙を引っ張り出す。

 広げてみると結構な質量があって、少し驚いた。

 びっちりと、内容が書かれている。

 読み進める義勇の瞳が、僅かに困惑の色を浮かべた。

「すぐに…返事をしなければならない、か? やっぱり」

「どうじゃろう? 二ヶ月も先のことであるし、大丈夫な気もするがの」

「炭治郎もいるからな…」

 ぼそりと呟いた義勇の言葉に、寛三郎がぴくりと反応した。

 くちばしで頬を突かれ、

「った! どうした、いた、痛い!」

 思わず身を仰(の)け反らせて慌てたが、返って、踏ん張った寛三郎の足の爪が肩に食い込んだ。二重苦だ。

 ふん! と大きく喉を鳴らした寛三郎は、

「御館様が、何故こんなに速くお前のところに儂(わし)を使わしたか、わからんか!」

 この老鴉は、時折若返ったようになる。怒気を孕(はら)んだ声は凜として、諫(いさ)める口調はあの頃と変わらない。

 経験値なのだろうと思うが、こういう時の寛三郎が的を外したことはない。歳をとっても、流石は柱の鎹を勤め上げた鴉だ。

 今でこそ、御館様はあの頃、陰鬱で無口な自分を心配して、百戦錬磨の年寄りを寄越したんだろうなあ、とも思う。

「…分からないこともないが」

 義勇は肩を落として返した。

「だが、だからこそだろう」

「違うな」

「寛三郎…」

「主に務めて欲しいから、こんなに早く寄越したんじゃろう。天元と槇寿郎のところにもな、先に飛んだぞ」

「先代の炎柱まで?」

「ああ。最終決戦では警備についておったしな。やはり、できうる限り、伝承はするべきとふんだんじゃろうて」

「そうだったのか…」

「義勇」

 張りのある声に、す…と胸が張った。

「炭治郎にはヒノカミ神楽がある」

「…」

「主はなんだ」

「なんだと言われても」

「阿呆か。水柱じゃ」

「!」

「主が、水柱じゃ。最後のな」

「最後の…」

「しっかりせんか! 生き残った者にも、それなりの責任があるものじゃろが」

「…分かった。じゃ、伝えてくれ。御館様に。…『謹んで、お引き受け致します』」

「む!」

 嬉しそうに頷いた寛三郎は、その背から飛び立った。

 …のだが、勇壮に一度では羽ばたけず。

 目の前に一度、ぽてっ。と降り立つと、

「…はあ。年じゃの!」

 ふんぬとばかりに気合いを入れて諸手を広げ、今度こそ、蒼穹に消えたのだった。

『だ、大丈夫か…?』

 不安にもなるが、寛三郎のことだ。

 きっと何日掛けてでも、御館様の元には辿り着くに違いない。

「宇髄のところにもって言ってたな」

『これは。行き先を変えないといけないかな』

 義勇は、暫くなんとも言えない顔で、寛三郎の飛び立った空を見つめていた。



 狭霧山(さぎりやま)に来るのは、久しぶりだった。

 戦いが終わった後、先生とは等しく時間を過ごすこともあったのだが、すぐに、藤屋敷に世話になることにしたからだ。

『こんな理由でまた訪れることになるなんて』

 麓は少し奥へと分け入ったところに、先生の小屋はある。

 薪を割る軽快な音が聞こえて、

「先生!」

「義勇?」

 驚いたように、声音が響いた。が、気配はとても嬉しそうだ。義勇も思わず、駆け足で寄った。

「つい先日別れたばかりな気もするが。何かあったのか?」

 天狗の面から心配そうな声が届いて、義勇は軽く一度頷いた。

「実は…今一度、稽古を付けて頂きたく」

「…は?」

 一瞬の間は、意味を咀嚼(そしゃく)したものだったろう。

 が、答えは出なかったであろう様が、一文字に込められる。

 義勇は苦い笑みを零して肩を竦めた。

「実は、これが先日御館様から」

 言いながら一歩を踏み出すと、懐から丁寧に畳んだ文を取り出す。渡された鱗滝は、義勇を見てからそれを広げた。

 目を通し、

「…なるほど」

 妙に納得。と言った雰囲気になった。

「左手でできる技を、か」

「はい。今でもできないわけではありませんが、もう少し…精度を上げたく」

「義勇」

 鱗滝の声に、小さな笑声が含まれた。

「今更だろう。お前は真面目だな」

「先生」

「納得のいくまで、ここで練習していくといい。だがな。儂が教えられることなど、もう、ない」

 そう言わず、と言った顔付きになった義勇に、鱗滝は、今度ははっきりと笑みを零した。

「ま、ゆっくりしていけ」

「…はい。ありがとうございます」

 義勇は一度、腰を折った。

 鱗滝の薪を割る音が、また、山に木霊する。



 数日後、義勇は、狭霧山は深奥の、祈りの大岩のあるところまで足を運んだ。よく、友と剣戟(けんげき)を交わした場所でもあった。

「岩が…割れてる」

 自分らがここを発った時は、まだ、岩も注連縄(しめなわ)も、形があったはずだ。それが今では、真っ二つである。

 理解できずに暫く佇んでいると、

「炭治郎だ」

 背後から声が聞こえて、我に返った。

「先生」と、現れた人影に声を掛けつつ振り返る。

 義勇は若干顔色を変えて、

「この岩を切らせたのですか。修行中に?」

「ああ。仕上げにな」

「先生にとっては、祈りの大岩かと思っていましたが」

 鱗滝は小さく笑うと、

「それを断ち切って行きおった。どこかで儂も、こやつなら。と思っていたのかも知れんな」

「そうでしたか…」

『錆兎の悔しそうな顔が浮かぶな。いや…あいつのことだから、嬉しかったかな?』

 深い木立を風が舞う。

 木々の葉擦れの音が耳に心地よく、

「少し手合わせしてみるか? 感覚が戻るかも知れん」

「! 是非」

 なんの気紛れか、紡がれた言葉とその雰囲気に義勇の表情も穏やかなものになった。

 強く頷き、木刀を構える。

 剣戟の音に、大地を滑る草履の音が軽やかな歩調を重ねて、長く木霊した。



 その日は朝から、雨が降った。

 木々の葉を叩く小さな音があちこちで合わさって、まるで大粒の雨が降りそぼっているかのような錯覚に陥る。

 狭霧山と言われるだけに、この山は霧が発生することもしばしばあれば、雨が降ることも多い。水使いの先生が、この山を好んで終(つい)の棲家としたのも、分かるような気がした。

 木枠の窓から外を眺めていた義勇は、囲炉裏(いろり)から届く香ばしい匂いに釣られた。視線をそちらにやると、干し魚に汁物を準備してくれた先生を見る。

『せ~んせっ!』

「!」

 その横に、四つん這いになって足をばたばたさせた真菰と、片膝を立てて座る錆兎の姿を見た。

 無論、鱗滝が、真菰の呼び掛けに答えることはない。

『雨音に寄せられてきたかな』

 義勇は二人を左に、鱗滝の正面に腰を落ち着けた。自然と顔が綻んだ。

「身体が冷えるからな」

 鱗滝は、椀一杯に豚汁を注いでくれる。餅入りだった。

 礼を言いながら受け取ると、隣で、

『いただきま~す!』

 と明るい声が響いた。

『ああ、こんな日がよくあったな』

 義勇の面差しが柔らかくなった。

「頂きます」

「む」

 何気ない会話をしながら、食卓を囲む。きつい鍛錬の合間に訪れる安らぎのひととき。今はもう、千切れた腕で椀を支え、左手で食すのが精一杯だ。

 二人が隣で喧嘩しても、止められる腕もない。

 なのに、とても穏やかな気持ちでいられることが、溜まらなく幸せだと感じた。

「…義勇?」

 先生の驚いたような声が聞こえた。

 はっとして、面を上げた時、二人の姿はもうなかった。

 箸が止まると、

「味が変わるぞ」

 正面から小さな笑声と言葉が届き、義勇は、

「ですね」

 椀を置くと、笑顔で目尻と頬を拭った。

「俺」

 と、義勇は不意に思い出したように言った。

「ちょっと、欲張りすぎていたかも知れません」

 鱗滝の箸も止まった。

 共に囲炉裏の炎を見つめながら、静かな時の流れに爆ぜる音を聞く。

「全部の型を見直そうと思っていたんですが、やめます」

「…絞るのか」

「ええ。あの頃…錆兎と真菰が好きだった技を、今回は極めていこうかと」

 鱗滝は強く頷いた。

「それもいいかもしれん。戦いに赴くわけでもないからな」

「はい」

「奉納の舞か…。儂も見に行こうかのう」

「先生…!」

「折角だ。きっと同じような思いでいる者は、多いのではないかな」

「ええ、ええ…!」

 二人は笑顔になって、また、食を進めた。

 会話の合間に降りそぼる雨音が優しくて、とても心地よかった。

『水龍』・弐・: テキスト
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