水龍天雅
~龍は水天に舞うが如く~
・壱・
片腕での生活がまだ慣れぬ頃、御館様の配慮で、かつては鬼殺隊を支援してくれた藤の屋敷に、義勇は、居候をさせて貰っていた。
文字を書くことも、食事を頂くことも、左手でこなさなくてはならない。会得(えとく)するのに対して時間はかからなかったが、そつなく生活するにはコツは要った。
時折、心配してくれているのだろう、天元が、屋敷に様子を見に来てくれた。
「折角だから、うちにも来いよ」
そう言ってくれたのは、何度目かの訪問の後だ。
流石に、何の役にも立てずに屋敷にこのまま居続けるのは。と、思っていた矢先だった。
その日も座敷に通したが、彼は縁側まで歩を進めると庭を眺めた。懐かしそうな眼差しだった。
庭には、藤襲山(ふじかさねやま)より取り寄せた、年中咲き乱れる藤の花が咲いていた。
遠く眼差しが飛んだ彼の横顔を見ながら、
「ありがとう…、今度、寄らせて貰う」
小さく言った。
「は? 今度? 今から一緒に帰ろうぜ!」
一驚(いっきょう)して振り返った彼の片眼が、優しさを含んで見つめてくる。
あの頃は、じっと表情を観察する余裕もなかった。こんな風に仲間の気遣いが色々とあっただろうに、無頓着なことばかりだったなあと、今更思った。
『胡蝶がよく言ってたな、言葉が足りないって』
柱達の面影は折に触れて思い出すが、中でも、蟲柱の微笑みはよく頭を過ぎった。
大変な宿命を負っていただろうに、いつも笑顔だった彼女の芯の強さは、今でも敬服する。思い出す度に、『救われていたんだ』と、思った。
開いた間に、天元は、承諾と取ったのだろうか。
「よし! じゃ、善は急げだ」
「あ、いや」
慌てた風でもなかったが、否定の一言が漏れると、「んあ!?」と、天元の表情が変わった。
「すまん、やっておきたいことがあるんだ。今はそれを優先したい」
「なんだあ!?」
頓狂な声が響いた。苦笑いが零れると、それに少し目を丸くして後、天元の眼差しがまた優しくなった。
「ま、じゃ。仕方ないか」
彼は相変わらず、さっぱりとしていた。
何か言いたげでもあったが、飲み込んだのだろう。そう言う機微も、分かるようになった。
少しずつ、自分の中で何かが変化しているのだと思うのは、…いい兆しなのだろうか。
『少し、淋しい気もするが』
あの日々を忘れる訳はない。
だが、薄れていくのは確かなのだろう。
自身の変化を受け止めるのは、義勇には、至難なように若干思えた。
「じゃ、用事が終わったら寄れよ!」
天元は寄りかかっていた柱から身を起こすと、縁側から室内に戻り、
「雛鶴たちも逢いたがってるしさ」
「分かった」
それ以上長居する気はない、と言うように、座敷を後にした。
すれ違う座敷の者達に、彼は、愛想と手を振りまく。玄関まで送ると、
「じゃ、またな」
笑顔で片手を上げた。
「ああ」
知らず義勇の面も柔らかなものになって、言葉を返す。
ゆっくりと閉じていく扉に、天元の明るい姿は細く、より細く、消えていった。
壁のように重く閉ざされた扉を暫く見ていた義勇は、
『思い立ったが吉日って言うしな』
その足で、屋敷の当主に目通りを申し出た。
折角だからと、その日は引き留められた。
夜には盛大にもてなしを受け、返って申し訳ないと思う。何度も礼を告げてはなみなみと注がれる清酒をちびりちびりと口付けた。
宴会が終わると改めて、一人一人に挨拶をして回った。
世話になった礼を告げたが、返る言葉の方が多かった。してきたことの重さを知った。あの頃は、柱達の多くでさえ、根は、自分自身のための戦いであったはずだ。
許せない。
その一言が、始まりであったからだ。
『もう、ここへ来ることもないのだろう』
行く当てがあるわけでもないが、そろそろ、一人で生きていく覚悟ができたような気がしていた。旅立ちが分かっていたからこその、宴であったのかも知れないと、不意に思った。
夜半、縁側に座して、月明りに照らされる藤の花々を観た。戦(そよ)ぐ薫りにしばし身を預けて、室内に戻る。
音を立てないように大仰な動作は極力控えた。風呂敷を箪笥から出し、僅かな荷を纏める。最後にかつての羽織を乗せた時、いろいろな想いが去来した。
日輪刀を乗せる。
「…」
包み込む前に、鞘を一度撫でた。
『役目は終えた』
刀がそう、語りかけてきた気がした。
時代は急速に、近代化が進んでいる。帯刀することは、もう、許されない。
刀を置く――――。
安堵と、寂寞と。
そして。
しっかり前を向いて歩き出すにはもう一つ、やっておかなければならないことがあった。
シャツの上に着物を重ね着することにもだいぶ慣れた。大抵はまだ袴(はかま)を纏うが、場合によっては、洋服も着るようになった。
借りた着物の隅を揃えて畳む。感謝ばかりが込み上げてきた。
彼らの支援無しには、鬼狩り達は、戦いに赴くことはできなかった。いつでも変わらぬ人の温もりと支えがあったからこそ、決意は変わらず、願いは途切れず、幾星霜も繋いで来られたのだ。
「…ありがとう」
纏めた荷物を持ち、立ち上がる。整った部屋を一瞥して、後にした。ゆっくりと引き戸を閉める。
物音を立てないように玄関を出、屋敷を後にすると、深々と腰を折った。長い一礼を遺した。
『本当に。ありがとうございました。…お疲れ様でした』
面を上げた時、藤の家紋を目に焼き付けた。
きっと、この家紋も、時代と共に少しずつ忘れ去られていくのだろう。それを思うと、少し、胸が軋む。
だが、同時に思った。
『それで、いいはずだ』
平和な証拠なのだから。勝ち取った証なのだから。
月夜を東に進路を取る。
傾いていく方向とは逆に歩き出した背中に、月光が差した。眼前に長い影が伸びる。
あの頃必死で駆け抜けた夜は、もう、来ない。
呼吸法こそ癖になってはいるものの、無意識の領域だ。意図的に止める必要はなかった。
義勇は、夜空を見上げた。
『あの頃は。一秒でも早く、先へ。鬼を狩るために、夜を駆け抜けた』
きっと見落としていたものも、多かったろう。
代わりにきっと、守り抜いたものも多かったはずだ。
『だけど、これからは』
一歩一歩。
大地をしっかり踏みしめて、拾い集めていくのだ。
思い出と、未来を。心と掌に。
義勇は初めの一歩を踏み出した。
明け方、目的の地に着いた。
野方(のかた)の村だ。
家が並ぶ通りまでの畦道(あざみち)は、両側が田畑(でんばた)だった。目映い朝日が大地を撫でていく。そこかしこから雀の囀りが聞こえて、少しばかり、笑みが浮かんだ。
真っ直ぐに、生家への道を辿る。
途中、帝都や市街へ出勤する人の波とすれ違うこともあったが、義勇だと気付く者はいなかった。
『帰ってきたな…』
やがて、家並みが続く路地へ入る。炊事の音が響いて来、子供達の笑い声もよく通って聞こえた。
少し先の通りを右に曲がる。
まるでそこだけ取り残されたかのような、暗澹(あんたん)とした区画が眼前に広がった。
荒れ果てた、家。
あの日のままに残された家は、損傷が激しかった。何年も野晒しにされたが為に、血の臭いは雨に流されてはいる。
黴の生えた門構え、壊れて外れた戸口、破れた襖、荒らされた形跡の残る家財。窓や花瓶も割れて散らばり、床が抜けてしまっている部分もあった。
どれだけ手間がかかるかは分からない。
だが、できる限り整えて、後にしようと思っていた。
『確か、街の外れの庄屋(しょうや)さんが、荷車を貸してくれたな』
果たしてこの顔を覚えているかは謎ではあるが。
あまり目立たないところに風呂敷包みを置くと、義勇は、一旦自宅を後にした。
『ここにはまた、新しい家が建つだろう。きっと、新たな時間が刻まれるはずだ。誰かがそれを、迎えてくれるはずだ』
不思議と、穏やかな気持ちになった。
満足感ではない。
姉の仇を討った、それは『誇り』なのだろうと、込み上げる感情に義勇は思った。
一人では為し得なかった、願い。
沢山の仲間達の想いと運命が折り重なって、戦い(時代)を駆け抜けたという、誇り。
それは、かけがえのない絆が紡いだ物語だ。
「姉さん。やっと…言えるよ、俺」
義勇は、借りてきた荷車を荒れ果てた庭に置くと、家を眺めた。
もう、背中が丸くなることもない。
惨めに蹲(うずくま)っていたあの日は乗り越えて来た。
己が生き抜くために怒りを滾(たぎ)らせ、鬼と戦い続けるために生殺与奪の権をこの手に常に握り続けてきた。
そして、今がある。
今は、見上げることができる。
空も。この、家も。
「ただいま。姉さん」
『きっと、もう、大丈夫ね』
「!」
『義勇。ありがとう!』
見上げた空が、滲んだように思えた。
だが、背筋を伸ばして胸を張った義勇の表情は、この青空のように。どこまでも澄み渡り、晴れ晴れとしていた。