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​斑雪埋めし時渡

・参・

 まるで蝋燭の灯が消えたようだった。

 姉の姿が、眼前で、ふ…と消えた。

 姉であったのは見間違えではなかったのだろう。しかし存在は、やはり、この世のものではないのだろうと思った。

 途方に暮れて、立ち尽くしてしまった。往来の激しい浅草寺(せんそうじ)の通りのただ中にあって、思考が停止してしまった。

 逢えたと思っても、消えるのでは意味をなさない。不快感だけが募って、義勇(ぎゆう)は眉根を顰めた。

「!」

 途端、世界が急速に黒く染まっていった。外から内に向かって、闇が襲う。雑踏が一人、また一人と黒に飲み込まれてあっという間に影と一体化し、祭り囃子の音も遠ざかっていく。

 義勇は反射で刀の柄に手をやった。低く身構えるが、漆黒の世界に現れたのは、姉だった。

「義勇」

『夢か。血鬼術か』

 いや。今は昼間だったはずだ。鬼のはずがない――――。

 思う間に、もう一度、

「義勇」

 名を呼ばれた。確かな声色だった。柔らかく、穏やかな、春の日差しのような温もりに満ちた声。確とそれを認識したとき、眼前の姉の姿はよりくっきりと、闇に浮かび上がった。

 いつもの、臙脂色(えんじいろ)の着物を着ている。

 息を飲んだ。

 狼狽え己の姿を見ると、思った通り、『あの時』の着物でいる。隊服も羽織も、刀もない。

 刹那、強烈な光が降り注いだ。

 顔を逸らし、腕を掲げ、直射から逃げる。

 馴染ませながら目を開けて、愕然となった。生家近くの通りにいた。

「姉さん!」

 家路を急ぐ彼女の後ろ姿に、懸命に声を掛けた。

「帰らないで! 頼む!」

 本来なら、祝言前夜は相手先へ出向いているはずだった。

 だが姉は、この日、まだ若い自分のために、その夜を共にすることを選んだのだ。昼過ぎまで挨拶回りをしていた彼女は、身の回りの買い物を済ませ、帰宅したのだ。

『二度も見たくない。姉さんが刻まれてしまう…!』

 知らず腰に手を回したが、刀はない。あの日の自分に戻っているのだ。

「姉さん…!」

「義勇。ただいま!」

 幸せに満ち溢れた笑顔だった。

「姉さん! お帰りなさい~」

 意に反した声色が出た。

『再現している? 思い通りにならない…!』

 飛びついて、頭を撫でてもらった。

 嬉しさに、この後の顛末の絶望が重なって、感情の振り幅に耐えられない。胸が張り裂けるようだ。

『嫌だ、何故…!』

「義勇、遅くなったけど」

『え…』

「鏡台(きょうだい)に仕舞って置くから。寒くなったら使うのよ」

『!』

 それは、あの約束の。

 姉が両手に乗せて見せてくれたのは、抜けるような藍色がとても綺麗な手袋だった。

「うん! ありがとう、姉さん」

「義勇は頭がいいから。頑張って上級学校行くのよ。たまに私も様子見に来るから。ね!」

「はい!」

「礼節を弁(わきま)え仁義に厚く、誇りを持って。勇ましく胸を張り生きて行きなさい」

「姉さん…はいっ」

 抱き締められ、細い腕を頑張って背中に回す。姉の吐息が耳にかかり、一際強く腕に力を込められると、心の中の義勇の視界は滲んだ。

『ああそうだ――』

 何があろうと、家族が愛してくれた俺自身。その名前。胸に刻んで――――。

『忘れていた。日々に追われて、死にもの狂いで』

「姉さん。姉さんも。たくさんたくさん、幸せになってね!」

「ん! ありがとう、義勇!」

 額を合わせ、微笑む。

 その夜が、辛い別れになるとも、この時は知らずに。

『姉さん…!』

 涙が溢れた。

『どうにもならないのか』

 歯を食いしばる。たとえ幻だとしても。夢だとしても。今、この目の前の姉だけでも、助けたい。

 それなのに、幼い自分には、何もできない。

『またあの光景を見るのか。なんで…!』


 ――――「岡さん。冨岡さん!」

「冨岡さん!」


 複数の声が聞こえた。

 天から降ってくるようだ。

 耳を澄まし、出所を探る。

 場所はわからなかったが、

「冨岡さん!」

『胡蝶…!』

 声の主の一人が分かった。

 景色が霞む。姉の輪郭がぼやけていく。驚いて彼女を見たとき、姉は、にこりと微笑んだ。まるで、自身の中の、自分に気付いているかのように…。



「…胡蝶。甘露寺? なんで…」

 瞼を押し上げたそこに、真上から覗き込む二つの顔があった。一つが「はあ…」と安堵の吐息を漏らしながら遠ざかる。隣にすとん、と音がしたことを思うと、腰が抜けたのだろう。

「なんで? じゃないから!」

 叫ぶのは蜜璃(みつり)だ。

「心配したのよ~う!」

 義勇は身を起こした。

 頬が涙の跡で引き攣っているのが分かる。思わず拭いつつ、蜜璃の矢継ぎ早に紡がれる言葉の波を聞き流した。

 辺りを見渡す。

 生家だ。

 自身を見遣る。

 隊服を着ていた。刀もちゃんと、腰にある。

「…」

 あの日から、立ち寄ってはいない。家具の一切は埃を被り、畳は変色していた。窓硝子も所々割れて、夜盗でも押し入ったのではと思う。

「冨岡さん…大丈夫ですか?」

 隣に正座をしていたしのぶが言った。重たい声だった。相当、心配を掛けたらしい。

「…ああ」

 短く返しながら、立ち上がった。

 隣の居間へと向かう。二人が付いてくるのも好きにさせた。

「…」

 鏡台は、そのまま残っていた。

 これこそ高価な物なのに、残っているのが不思議なくらいだ。しばし目の前に佇んで、布のかかったままの鏡を見つめる。

『鏡台に仕舞って置くから』

 振り返って微笑んだ姉の優しさが脳裏を過ぎる。

 徐ろに、引き出しを開けた。

「……あった…」

 呟きに、二人が左右から挟み込んで手元を覗いた。

「手袋?」

 蜜璃の呟きに続いて、しのぶが、

「…ん?」

 身を屈めながら、手を伸ばした。

「冨岡さん、これ…」

 四つ折りにされた紙を拾う。手袋から落ちた物だった。

 手渡され、ゆっくりと開いた。

『産まれてきてくれて、ありがとう、義勇。

 大好きよ!』

「姉さん…!!」

 思わず声を上げた。二人の手前、涙だけはぐっと堪える。だが、胸に抱いて目を閉じずにはいられなかった。

 何となく、傍の二人が安堵したような笑みを浮かべた――様な、気がした。



「で? なんでお前達がいるんだ」

 すっかり日も暮れて、帝都へ戻る道すがら、義勇は静かに訊ねた。見れば、二人とも休暇だったのだろう、振り袖姿だ。

 しのぶが答えた。

「浅草で見かけたんですよ。ただ、」

「? 俺は浅草なんて行ってない」

「え? でも」

「正確には、行こうとはした。が、眩暈がして駅舎で休ませてもらっていたんだ」

「ちょっと待っ…」

 二人の顔から見る間に血の気が引いた。

 理由が分からず訝しげに見つめてはいたものの、冷静に思い返せば、自身が何故、生家にいたかが分からない。

 言葉を失った二人に、

「ただ…その後の記憶がない」

 言えば、追い打ちを掛けたようだ。

「やだ…しのぶちゃん…」

 蜜璃がしのぶの振り袖を強く掴んで身を寄せて行く。

「色々夢は見てたんだが…気付いたらあそこに。お前達が起こしてくれた」

「ぎゃーーー!」

 蜜璃がしのぶに抱きついた。

 彼女はぽんぽんと蜜璃の背中を叩きつつ、

「それ、本当ですか?」

 上目遣いに見つめられて、義勇は顔色一つ変えることなく、

「ああ。ほら」

 隊服のポケットから、浅草行きの切符を取り出した。未使用だが、日付は今日の物だ。二人がまた、黙り込んだ。

 一瞬後、

「もうやだもうやだ!」

「うーん、生き霊でしたかね? 私たちが見たのは」

「しのぶちゃん! やめて!!」

 涙声になった蜜璃に、しのぶがふふっと笑う。

「ま、無事でしたし。よしとしましょう」

 言いながら背中を叩いて、二人、先を歩き始めた。

 夜風が静かに辺りを薙ぐ。通り過ぎ様、

『義勇』

 姉の声が聞こえた気がした。

 何もない通りを、風を追うように振り返る。

『お誕生日、おめでとう』

『姉さん…!』

 ああ、そうだったのか――――。

『ん…! ありがとう!』

 佇み微笑む姉に、義勇も微笑み返す。あの頃の、様に。

 安心したように風花となり天へと昇っていった姉を見送っては、

「「冨岡さん?」」

 二人がこちらを同時に見、重なる声に面を向けた。

 少し足早に、二人の側まで行く。

 その手には、あの藍色の手袋が填めてあった。



斑雪(はだれ)埋めし時渡(ときわたり)・完

『斑雪』・参・: テキスト
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