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​斑雪埋めし時渡

・壱・

 その夜、東京には珍しく雪が降った。

 雨戸を開ける音に、氷のざらついたそれが混ざる。

 人が一人通れるほどの隙間を開けたところで、義勇(ぎゆう)は、吐く息の白さに天を見上げた。

 高い空。

 雲一つなかった。

 昼過ぎには薄く積もった雪も消えてしまうだろうと、何気に思った。

「…」

 腕に力を込めて、雨戸を流し仕舞ったところで、

「冨岡(とみおか)様!」

 家の者が慌てた様子で部屋にやってきた。藤の紋様の入った羽織を纏った、若女将(わかおかみ)だ。

「そのようなことは私どもに任せて下さいな。あらまあまあ、布団まできっちり」

 嬉しいような、申し訳ないような表情に、義勇は頭を下げた。

「いや、世話になった」

「発ちますので?」

「朝餉(あさげ)だけでもいかがですか? 折角ですので」

 扉の所に陣取って、両膝を突いた若女将は微かに首を傾けると華やかな笑顔を向けてくれた。物腰は柔らかいが、そこにおられては出られない。

 義勇はじ…と彼女を見つめた後、畳んだ布団の脇に寄った。立て掛けておいた刀を手にし、帯刀する。

 斜めに背を向けたまま、呟いた。

「外を、歩きたい」

「左様でございますか」

 残念そうな声色を微かに感じた。正面に彼女を視界に収めると、緩やかに身を滑らせるのを見た。扉の脇へ退(の)き、手を付いてゆっくりと頭を下げる。

「ご武運を」

 義勇も黙って、一礼をした。

 後は一度も振り返ることなく、藤の家紋の門を自ら押し開いて屋敷を去った。



 鎹鴉(かすがいがらす)から、連絡があったわけではなかった。

 ただ朝早くに目が覚めて、外を見たら薄化粧で、気を取られただけだ。

 差し込む朝日に照らされて、辺りが一面銀色に光る。小さな宝石を散りばめたような燦めきに、見つめる瞳が目映そうになった。

 一歩踏み出す度に締まる雪の音が雀の囀りに混ざって、遠い記憶が甦る。

『確かあの日も、こんな朝だった』

 民家の建ち並ぶ通りまで来て、立ち止まった。軒先の蝋梅(ろうばい)や山茱萸(さんしゅゆ)の香りが鼻腔を擽る。香りが一層記憶を鮮やかにたぐり寄せて、通りを行く、あの日の家族四人の後ろ姿が目に入った。

 何気なく、後を追うように、義勇もまた歩き始めた。

 手を繋いで隣を歩く姉の頬は、山茶花(さざんか)のように仄かに色付いていた。父と母の笑い声が耳に残り、嬉しそうに、何度も弟が姉を見上げてははにかみ話しかけている。

 姉も、優しい笑みを零しながら、何事か語り返していた。

『久々に行ってみるか』

 この通りを抜ければ、駅だ。

 思い出の場所は、ここからでは、歩くのは少し遠い。鬼狩りの足なら他愛ないと言えばそうなのだが、そう言うことではなかった。

『あの日も最寄駅まで四人で汽車に乗ったな』

 目に映る全ての物が新鮮で、心が弾んだっけ。

 家族がしていた話は、何だったか…。温もりだけが胸に残る。

 手を当てれば鮮明に、顔を思い出せた。皆の笑顔が心の小箱に大切に、仕舞われていた。

 駅に着くと、義勇は、浅草(あさくさ)までの切符を買った。列車が来るまで少し時間を潰さねばならなかったが、気にはならない。

 乗降場に佇んでぼんやりと空を眺めたとき、

『そうだ』

 義勇の瞳が少し見開いた。

『あの日は姉さんの針供養のために、先にお詣りをして。その後、花屋敷に行ったんだ』

 瞼を伏せる。

『俺が、怖い物見たさで動物園に行きたいって、強請(ねだ)ったから…』

 ――――「仕方ないわね」

「姉さん! いいの!?」

「ええ。義勇。今日はゆっくりしましょうね」

「我が儘なんでも聞いてやるぞ!」

「もう! 父様ったら義勇には甘いんだからあ」

 遠く、列車の汽笛が鳴った。

 瞼を押し上げて、音の方に顔を向ける。まだ離れた場所に緩やかな曲線を描く車体が見え、瞬く間に、迫ってきた。

 乗降場に滑り込む列車の風に、髪が靡く。

 到着を告げる汽笛がもう一度鳴った。扉が音を立てて開き、義勇も人波に紛れ、乗り込む。窓際に身を寄せて外を眺めると、景色が次第にゆっくりと流れ始めた。

『あの日は、夕方近くまで出掛けていた』

 ぼんやりと、瞳に映るそれが滲んでいく。

 ガタタン、と、時折身が弾んでは記憶の小箱が跳ねて中身が溢れてくるようだ。

『遊び疲れて、最後、姉さんの背中におぶさって…』

 温かくて。

 心地よくて。

 転(うたた)た寝してしまうのを懸命に堪えながら、掴まっていたような。

「手、冷たくなっちゃったね」

 日が落ちて、辺りが次第に闇に溶けていく中、姉さんが言った。

 自分を背負ったまま器用に襟巻きを取り、両手を包んでくれた。

「今度、新しいの買いに行こうね」

「うん…」

 耳に囁き返したが、正直どちらでも良かった。その時はもう心が満たされていたから、睡魔の襲来を追い払うのに一杯だった。姉さんの香りを、ずっと、その身に感じていたかった。

『結局、起きたら朝だったんだ』

 いつ、眠りに落ちたのか記憶にない。

 姉さん達のことだ、きっと笑いながら、己(おの)が身を床に入れてくれたのだろう。

『なんで急に、こんなこと思い出したんだろう?』

 幾つもの駅を過ぎて、何度目かの汽笛に我に返った。

『人が多いな』

 降りる人波に半ば押され、義勇は、浅草駅に降り立った。

『斑雪』・壱・: テキスト
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