このままもっと
・壱・
日が昇る少し前、向日葵(ひまり)は目が覚めた。身を起こし、
『我ながら、体内時計は正確ね!』
伸びをしながら、笑みを零す。
「杏寿郎(きょうじゅろう)様が戻る前に出なくちゃ」
彼の、任務帰りの時刻は決まってはいない。
それがまた厄介だった。その上、暗いうちに家を出ることは叶わない。自身の稀血(まれち)の臭いが、鬼にはご馳走らしいからだ。
教えてくれたのは友人の実弥(さねみ)であったが、杏寿郎からも、行動は昼間のうちにと痛いほど釘を刺されている。
布団を畳むと、縁側の戸を開けた。
入れ替わる朝の爽やかな空気を吸いながら、白む空を確認した。
せっかくの祝いの日だ、
『今日はあの振り袖にしよう』
笑みが自然に溢れるのに任せて、向日葵は箪笥を開けた。白地に大柄の藤の花が、無数に裾に描かれた振り袖(それ)だ。紫紺(しこん)の色合いが艶やかで目を引いた。
足袋(たび)を履いて、柄の位置を気にかけながら手早く身に纏うと、帯の色で悩んだ。
「少し派手かな…」
思いつつ、赤みがかった橙(だいだい)の帯を選んだ。
『やっぱり、杏寿郎様の色はいいな!』
小物入れの色は柄に合わせ、纏めた髪を飾る物を手にしたとき、
「…」
『慣れって怖いなあ…』
向日葵は苦笑した。
手にした、実弥からの贈り物(かんざし)を鏡台に戻す。鬼除けにと、昨年頂いた物だった。
「今日は流石に、ね」
肌身離さず持っておくよう言われ、杏寿郎の許可をもらって日々差してはいた。だが、今日は大切な一日だ。
心の中で大切な友人に謝って、濃淡が目を引く藤色の水引の、繊細な作りの髪飾りを手にした。纏めた髪に器用に付けて、何度か鏡で確認する。
「よし!」
化粧も済ませ、もう一度外を見た。
「いい時間!」
小鳥の囀りに弾む心を重ね合わせながら、向日葵は戸締まりをし、屋敷を後にした。
「変なところで杏寿郎様に会わないといいけど」
少し駆け足になって、街へ向かう。
抱いた一抹の不安も、目抜き通りに出たところでちょっぴり和らいだ。
運良く、駅に戻る途中の人力車を捕まえると、
「嬢ちゃん。早いね!」
愛想のいい俥夫(しゃふ)は挨拶してから話しかけてきた。
「おはようございます。朝早くからお勤めお疲れ様です、助かります」
「どこまで行くかい?」
「荏原(えばら)の駒沢(こまざわ)まで。お願いできます?」
「がってん!」
少し距離のある道中も、話し上手な俥夫に笑みを貰い、時に感心させられ、苦にならない。
朝日はすっかり昇ったが、やがて、目的地近くの乗合馬車駅に着くと、
「ありがとう、権蔵(ごんぞう)さん」
「おお。向日葵ちゃん、またな!」
お互い名前まですっかり覚えて、別れを惜しんだ。
向日葵は駄賃に心付けを足して渡し、手を振る。
そこからは足早に、煉獄家(れんごくけ)へ向かった。
「向日葵さん! わぁ…綺麗! おはようございます! 兄上には勿体ないっ」
「おはよう! 千寿郎(せんじゅろう)くん」
言いながら、両拳を握って掲げた。
「気合い入れたもの! でも…最後の一言は喜んでいいのか迷っちゃうわ」
「あはは!」
満面の笑みで挨拶を交わした。
相変わらず、彼は朝も早ければ働き者だ。門前の掃き掃除はそろそろ終わろうかという頃合いだった。
「向日葵さん、今日はどうしてこちらに? 兄上、任務が終わったら寄るって言ってましたよ」
「やっぱりね」
向日葵はくすりと微笑んだ。
「やっぱりって、今日。約束してたんじゃ?」
「ううん。約束はしてないの。でも、杏寿郎様、寄るつもりだったのね」
「途中会いませんでした?」
「うん。大丈夫だった。今頃慌てていたりしてね」
向日葵は笑ったが、千寿郎は少し困った顔になった。
「と言うことは、兄上には何も言わずに?」
「うん。私が自宅にいなければこちらに戻るでしょう?」
「それはそうだと思いますけど…。どうして…」
段々不安そうになっていく少年に、向日葵は小首を傾げて、
「え? だって。千寿郎くんだって、お祝いしたいでしょ?」
「!」
「大好きな兄様だものね! 独り占めしたら悪いわ」
「向日葵さん…!」
千寿郎の顔が見る間に綻んで、跳ねるように飛びついてきた。
声を立てて笑いながら、少年を受け止めた。
「兄上がなんで向日葵さんを選んだか、僕、毎度毎度、解る気がします」
「ありがとう! 私、千寿郎くんも大好きだもの」
「僕も! ね、じゃ、ご馳走沢山作りましょう! 兄上が居ない間に買い出しに行って!」
「うんうん。きっとびっくりするわね!」
二人は手に手を繋いで、微笑んだ。
行き慣れた屋敷への道を辿る足取りは、任務終わりとは思えないほど軽やかになった。
時折、付いた埃を払う。
そんなこと気にする相手ではない。それは杏寿郎も解ってはいたが、何となく気になった。
日は既に昇り、街には雑踏が響き始めている。
この街の一日の始まりはいつも慌ただしく、喧噪に包まれていた。
すれ違う人の波に逆らい街外れに向かいながら、
「向日葵…」
杏寿郎は何となく呟いて、微かに笑った。
田植えの終わった畑の畦道(あぜみち)を、県境に向かって進む。爽やかな風が時折肌を撫でて行き、心地良さに溜息が漏れた。
宿場町麓の小さな屋敷通りを奥へと進む。
逸る気持ちを抑えながら彼女の屋敷へ来ると、静まり返ったその空間に次第に顔付きが変わっていった。
「居ない…?」
とうとう顔色が一変した。
しばし固まる。
耳を澄ますが、物音一つしない。
居留守ですらない様に、動揺した。
『あいつに限って…』
今日という日を忘れるとは思えない。
「まさか、仕事が入ったとか…」
思うより早く、杏寿郎は駆け出した。
此処(ここ)の屋敷通りは、殆どが、宿場町で仕事をする者達の住まいだ。
裏山が県境になっており、参道を上がれば中腹に、宿場町がある。
杏寿郎は、参道を宿場町へ向かって駆け上がった。向日葵が勤めている『さくら茶屋』へ着くと、
「お! 杏さん。おはよう! 早いなぁ」
旦那が暖簾(のれん)を出すところに鉢合わせた。
「庄吉(しょうきち)! 向日葵は? 今日は仕事(こっち)か?」
「え? 今日は非番だよ。もう二ヶ月も前から今日は休み入れてたよ、あいつ」
「え…」
「なんだ。てっきり杏さんとの約束かと思ったのになぁ。違った、か…っ…」
「…」
青ざめた杏寿郎の顔付きに、庄吉のそれがしまった、となった。
思わず、
「杏さん…」
「いや、いいんだ。ん…」
いつも自信に満ち溢れた彼が、思いの外勢いよく肩を落とす。庄吉は慌てた。
が、彼女がどこに行ったかなど思い当たる節はあらず、かける言葉が見つからない。
「また、来る。…向日葵に宜しく伝えてくれ」
「あ、いや…。ん、わかった…」
無理に笑った顔に何とも言えず庄吉は頷くと、黙って見送った。来た時も血相は変わっていたが、尚更想像もできない程の、重い足取りだった。
あまりの背中の寂しさに、
『向日葵…。お前、だいぶ罪作りだぞ…』
何があった、と、流石に心配になった。
昼近く、杏寿郎は漸(ようや)く自宅へ戻った。
いつもなら笑顔で出迎えてくれる弟すら居ない。
「……」
『浮かれていた俺が悪いのか…。あいつのことだから、てっきり祝ってくれるものだと思い込んでいた…』
溜息が漏れる。
『そうだな、うん…』
思えば、鬼殺隊士になってから誕生日をまともに祝った日など、数えるくらいしかない。
中には柱(仲間)たちに囲まれて幸せな時間を過ごした日もあった。だがそれは、稀なことだ。殆どが任務で飛ぶように過ぎた。それは、柱の誰もが経験していることでもある。
日々はそれが当たり前であったし、元より不満もない。望んで進んだ道だ。深く考えることすらなかった。
『だが…。向日葵は』
彼女は鬼狩り(この世界)とは無関係の人間だ。
唯一、平凡な日常との接点と言ってもいい。彼女と一緒に居るときだけは、どこか、違う安らぎがあった。
『少し弛みすぎたな。しっかりしよう』
杏寿郎は、衣桁(いこう)に羽織を掛け、刀置きに炎刀を置くと、両手で頬を軽く叩いた。
新しい着物や足袋を持って、汗を流しに行く。
溜息がまた出たが、意識はしていなかった。いつもなら心地いい流水も、今日ばかりは肌を刺すように痛み、胸に小さな針が刺さったようだった。
「…向日葵」
糊の音に込み上げてくるものがあった。彼女はいつも丁寧に着物を洗い仕上げてくれ、包んで持たせてくれるのだ。
折った人差し指の間接で目元を軽く拭うと、着物に袖を通す。寝室に戻ると床を敷いた。
どっと疲れた。
ほんの数時間の間に気持ちが逆上(のぼ)せたり冷やされたりと、数年前には感じなかった、余計なものだ。
『未熟な自分が悪い。気にするな、杏寿郎』
自分で自分を叩き上げながら、杏寿郎は、床に入り目を瞑った。小さな溜息が、また、漏れた。