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このままもっと

・弐・


 耳にも心にも待ち望んだ、探した柔らかな声が何処か遠くに聞こえた気がして、杏寿郎(きょうじゅろう)は目が覚めた。

 斜陽が縁側から室内に、暖かな光を投げかけている。

『戸、開けていたか…?』

 首だけを回して、暫くその柔らかな橙色の帯を見ていた。

「もう、夕方…」

 呟いて身を起こすと、

「杏寿郎様」

「!」

 近くに聞こえた彼女の声に、杏寿郎は驚いて縁側から視線を中へ戻した。

「お勤めお疲れ様です。杏寿郎様」

 床のすぐ脇に、艶やかな姿をした向日葵(ひまり)が正座をしていて、手を突いて一度軽く頭を下げた。

 面を上げると、笑みを浮かべてこちらを見つめる。

「向日葵…!」

 勢いよく起き上がり、強く引き抱き寄せた。

「! 杏寿郎様?」

「どこにも居ないから…!」

「あ」

 向日葵は小さく苦い笑みを零して、

「ごめんなさい」

 背中に回った腕の温もりに、瞼を伏せる。

「少し、悪ふざけが過ぎたかしら。驚かせようと」

「色々考えた。流石に…堪えたぞ」

「! ごめんなさい、本当に」

 身を離すと、杏寿郎は彼女の頬に手を添えた。存在を確かめる。見つめていると向日葵の頬が赤らんで、耳朶まで真っ赤に染めて、俯いた。

 安堵した。笑みが自然と戻った。

「向日葵」

 二度目の呼びかけは明るくなって、

「はい、杏寿郎様」

 答えた彼女の声色も安心したようだった。

 面を上げた彼女の額に、杏寿郎はさりげなく口づけを贈る。

「!」

 固まる彼女に笑って床から出た。

 箪笥から浴衣を取り出し、着替える。

 その後ろで床をしまい始めた向日葵の姿は、もう、いつもの彼女の様子だった。

「…なんで此処(ここ)に? てっきり向こうかと」

 問いかけると、向日葵の表情が悪戯っぽくなった。

「千寿郎(せんじゅろう)くんたちと、お祝いしたくて」

「たち?」

「ええ」

 誰か呼んだのだろうかと、首を傾げる。

 彼女は答えないが、

『座敷に行けば分かるか』

 帯を締めると、そのすぐ脇で、脱いだ着物を畳んで整えてくれた。

 思わず、顔が綻んだ。

「いつもすまんな」

「いいえ」

 満面の笑みで答えてくれることが、たまらなく嬉しい。

「待たせた。行くか」

 手際よく片付けた彼女を連れ立って、杏寿郎は、座敷に向かった。

 引き戸を開ける。

「!」

 目に飛び込んだ光景に、息を飲んだ。

 思わず彼女を振り返ると、向日葵はにこりと微笑んで、背中を押してくる。

 拒むように、一瞬、体重が向日葵の方にかかった。

 彼女は想定していたのかも知れない、しっかり両掌を背に当てると、強く、中へと押しやってきた。

『父上…!』

 仏頂面で席に着いている槇寿郎(しんじゅろう)の姿を、まじまじと見つめる。押されるがまま、二、三、歩を進めると、

「兄上! おはようございます!」

 千寿郎がとても嬉しそうに声を掛けてきた。

「あ、ああ。おはよう…ただいま、千寿郎。…父上」

「…」

 変わらぬ表情ではあったが、顔をこちらに向けた父と、視線が合った。

 どう、言葉をかけていいやら分からない。

 それは父もそうであったようで、咳払いを一つすると顔を背ける。

 席も二つ空いていたが、どちらに座っていいものやら、動転して我を見失った。

 察したのか、向日葵が先に槇寿郎の隣に座る。

「杏寿郎様」

 声を掛けられ、空いた上座に手を添えた彼女を見る。震える足を踏み出した。

 席に着く。

 今、自分がどんな顔をしているのか、分からなくなった。

「千寿郎くんはこれ? 珍しい物よね!」

 向日葵が乾杯のための飲み物に手を伸ばした。

「さいだーって言ってましたね! これは横濱から流れてきた物らしいですが…楽しみですっ」

「最近は東京でも製造されてるってお店の方言ってたね。今度違うの買ってみる?」

「いいですね! あ、ひまりさん、手、も少し下。蓋で指切っちゃうって、」

「あ、そっか! こんな感じ?」

「そうそう!」

 店で開け方まで習ってきたらしく、二人でわいわい言いながら栓を抜く。

「!」

 ぽんっ、という小気味いい音に思わず目が丸くなった。

 向日葵と千寿郎が声を合わせて笑う。

「杏寿郎様は」

 瓶を千寿郎に渡しながら、

「清酒でいいかしら? お父様が選んで下さったのよ」

「おい、お前!」

 槇寿郎の低い声が響く。

 向日葵はにっこりと微笑んで、

「あら。先程のように向日葵と呼んで下さらないと。お父様?」

「お前な…」

 いつになくたじろいだ父の様子に、ほっと、溜息のような笑みのような、小さな吐息が漏れた。

 つい、

「いただこう! 向日葵、それを」

 声が張った。

「はい」

 向日葵は中腰になると、振り袖の袂(たもと)を押さえ、掲げたお猪口(ちょこ)に清酒を注いでくれた。

 続いて彼女は横に振り向くと、

「さ。お父様も」

「…む…」

 何分押され気味な父ではあった。だが、小さく頷いて杯を願った姿に、目頭が熱くなった。

『いかん!』

 咄嗟に、自分で自分を窘める。

『せっかく準備してくれたんだ。その笑顔に、答えねば』

「兄上! お誕生日、おめでとうございます!」

「杏寿郎様。おめでとうございます!」

 祝いの言葉は二人からだけだった。

 だが、

「ありがとう!」

 心から礼を言うと、掲げられた四つの杯の数に、更に胸が一杯になった。視界が滲んだ。

 向日葵と千寿郎の楽しげな会話にしばし、耳を傾ける。

 時折、話途中で、向日葵がさりげなく皿に料理を盛って、父に差し出している。

 拒むでもなく、父が受け取る。

 箸もちゃんと付けて、ゆっくり咀嚼している。

『あの、父が…』

 向日葵には弱いのか、時折小声で話しかけているのも見た。

 それだけで、もう、十分過ぎるほどの贈り物をもらった気がした。



「じゃ、千寿郎。戸締まりはしっかりな。送ってくる」

「はい、兄上。ごゆっくり」

「!」

 かけられた言葉に、かぁっと紅潮した。が、咳払いを一つしてすぐ元に戻すと、

「行こうか」

 向日葵に見向いた。

「はい。ありがとうございます、杏寿郎様」

「ん」

 その夜は珍しく、浴衣に帯刀した姿で赴くことになった。羽織だけは、身にしてきている。

 何となく、今宵だけは、隊服を置いた。

 無言で、向日葵の屋敷への道を辿る。

 ふと、

「歩きづらいか? 馬車でも捕まえるか」

 直視するのが恥ずかしくなるほど、今日の彼女は目映かった。その身なりももちろんそうなのだが、溢れ出る優しさが、何よりも愛おしいのだ。

 彼女は星空を見上げてから言った。

「いえ。夜風がとても気持ちいいので…。杏寿郎様さえ迷惑でなかったら」

「ああ。勿論。絶対に守る。大丈夫だ」

「はいっ」

 言って、どちらからともなく手を繋いだ。

 顔を見合わせて、微笑む。

 限られた時間だからこそ、その刹那を守りたい。抱いたそれは願いにも似て、繋いだ彼女の手を、少し強く握りしめた。

「杏寿郎様?」というように、こちらを向いた彼女に、静かに首を横に振る。

 そのまま無言で、寄り添い歩いた。

 屋敷へ着くと、そのまま彼女を見送るには物足りなくて、

「少し、上がってもいいか…?」

「ええ。どうぞ」

 向日葵は笑みを零して頷いてくれた。

 居間へ通され、彼女が庭向かいの戸を開ける。

「月が綺麗」

 夜空を見上げて、呟いた。

「夜半はまだ冷えるわね。熱燗(あつかん)でもいれる?」

「いいな、頼む」

「はい」

 勝手口へ向かい、竈(かま)に火を入れ始めた彼女の後ろ姿を、杏寿郎は柱に寄りかかって見ていた。

 やがて、徳利(とっくり)に酒を注ぐ音と共に小さな鼻歌が聞こえ、笑みが浮かんだ。

 足音を忍ばせ、背後に寄る。

 そっと、後ろから抱き締めた。

 驚いたように彼女の身が一度震えたが、

「今日はいつにも増して、綺麗だ」

「…頑張ったから」

 二人、声を立てて笑う。

「向日葵…本当に、ありがとう」

 言うと、手に手を重ねてくれた。

「はい」

 声色に、彼女の優しい笑みが浮かぶようだ。

 途端、今日一日のことが頭を過ぎって、涙腺が緩んだ。

「杏寿郎様?」

 身じろいだ彼女に、

「このままで。頼む」

 咄嗟に告げる。

 彼女の肩に顔を埋め、声を殺して泣いた。

「杏寿郎様…」

 重ねた手に少し力がこもり、握られた。

 その心持ちが伝わるようで、とても安らぐ。

「父上と食事なんて…数年ぶりだったんだ。あんな顔が見られたのも、みんな…お前のお蔭だ、向日葵」

「なんだかんだ、家族なんだから。きっと大丈夫よ、杏寿郎様」

「向日葵…」

「お父様だって分かっていらっしゃるでしょうし、だからこそ…お辛いこともあるのだとは思うけれど…」

 向日葵は再び身じろぐと、こちらを向いた。

 その両手を頬に添えられ、見つめ合う。

「貴方は貴方の責務を全うしてください、杏寿郎様。私も…千寿郎くんたちも、みんな、いつも、傍にいるから」

「…ああ」

「お誕生日おめでとう、杏寿郎様」

「っ…」

 思い余って、言葉を返す代わりに、強く抱き締めた。

『愛してる』

 一言では足りないくらい、溢れてくる。

『私も。愛してる』

 背中に回した腕から伝わる彼女の気持ちが、しっかりと心に刻まれる。とても、嬉しかった。

 ふ、と。

 面を上げて見つめ合い、その距離が縮んだとき。

「!」

 熱燗が存在を主張した。

「いけない!」

 向日葵が飛び上がる。竈に見向いて慌てて手拭いを取るが、

「向日葵、危ない。火傷するぞ、俺が!」

 思わず手拭いを奪い取った。

「あ!」

 向日葵が声を上げたのと同じく徳利を持ち上げると、布を通して伝わる結構な熱量に、

「あ、っつぅ…!」

 思わず声が漏れた。

「杏寿郎様!」

 慌てて少し離れた水甕から、桶に水を汲んで向日葵が跳ぶように戻る。

 その間に徳利を脇へ置いて、指を水に突っ込んだ。

「あ、ふ…」

「んもう。…ふふふっ」

「あははっ」

 顔を見合わせ、思わず笑った。

 こつん、と額を合わせる。

 そっと口づけを交わし、また、その身を抱いて確かめた。



このままもっと・完

『more』・弐・: テキスト
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