未来へ
・参・
「お疲れ様、炭治郎くん」
「しのぶさんこそ。診察は終わりましたか?」
「ええ。さっきのお婆さんでおしまい。は~!」
言いながら、しのぶは両腕を上げて伸びをした。
片手を肩肘に添えて曲げ、左右にゆっくり首を傾けて凝りを解すと、
「流石に疲れました」
炭治郎もくすりと笑う。
「甘露寺さんから差し入れ頂いてますよ。他にも、贈り物が沢山」
義勇と机を運んだ部屋へ案内してくれた。
伝えたままに準備してくれた机の上に、堆く積み上がるそれらを見て、目を見張ってしまう。
「凄いですね…」
「それ、俺の台詞(せりふ)です」
思わず彼と顔を見合わせ、小さく笑った。
ふと、アオイが出入り口にひょっこり姿を現して、
「しのぶ様、今日はもう閉めても構いませんか?」
「ええ。おしまいにしましょう」
伝えると、アオイはいつもの神妙な面持ちで「はいっ」と、開きっぱなしにしていた蝶屋敷の玄関を閉めに向かった。
入れ違いに、カナヲやきよたちが料理を運び始める。
善逸や伊之助も薬罐(やかん)や湯飲みを持って現れたが、出入り近くの控えの机にそれらを置くと、手の塞がった少女達の代わりに贈り物を整理整頓し始めた。
次第に片付いていく机の上を眺めながら、
「義勇さんいないの、残念だな…」
炭治郎がぼそりと言ったのを耳にする。
『間の悪さと言いますか、彼には多分。丁度良かったと言いますか』
断る理由がなければ誘いには応じてくれる水柱だが、総じて「面倒くさそう」なんて思って、しのぶは口元に軽く拳を宛てた。
「ね? しのぶさん」
ただ、少年は、純粋に、いないことを淋しく思ったようだ。
振られた内容には少し考えて、
「冨岡さんにはもう、十分すぎる言葉を頂いていますから」
くすりと微笑む。
「そうなんですか? いつの間に」
「結構昔から…かな」
「え?」
炭治郎が目を丸くして瞬いたのに、しのぶの笑顔は、悪戯っぽいものになった。
半々羽織を身に纏った若者は、端整な顔立ちをしていた。
先程まで味方を守りながら鬼と戦っていたのに、息を少しも乱してはいない。歌舞伎役者みたいな面は始終変わることがなく、冷静だった。
彼が刃を一振りする毎に溢れ出る波濤が、無駄のない太刀筋を証明していた。流れる水の爆音まで耳にこびりついている。
「立てるか」
差し出された手に、知らずむすっとなった。
「…ありがとうございます」
手に手を重ね礼は言ったが、頚の斬れない自分が後ろめたかった。かといって、逃げ出すのも癪だ。
「っ…」
容赦なく引っ張り上げられて、一瞬、その力強さに肩が抜けるかと思った。ますます、胸が軋むようだった。
「すみませんね、足手まといで」
「…そう思うなら、精進することだ」
「!」
会話をする時すら、表情が変わらない。
何を思ってそう言ったのかまるで分からず、いけ好かない奴。そう、感じた。
「名は?」
「は? …胡蝶。しのぶ、ですけど」
「ああ、お前が花柱の」
『なんかいちいちムカつく!』
「助かった。お前だろう? 毒打ち込んだの」
「…え」
「どんなに微細でも、鬼の状態変化くらい把握できるようになれ」
『だからいちいち…』
「極めなければ宝の持ち腐れだ、」
どきっとした。
「戦い方なんて、何万通りもある」
言外に、頑張れ。と、言われた気がした。
それまで感じていた想いが少しずつ雪解けていくようだ。
『小さいし、筋力も足りないし。頚も斬れない』
受け身だって踏ん張れないから、避けるしかない。
その上、姉は柱だ。
自分が陰でなんて言われているだって、知っている。
『それでも。この道を進むと、決めた』
自分たちと同じ目に遭う人が、一人でも少なくなるように。遠い未来の、鬼のいない世界を目指して。歩みがどんなに亀のようでも、一つ一つ、越えていくと誓った。
「…頑張ります」
素直になるには、相手にはまだ抵抗があった。だから大きな声では言えなかった。
ただ、ちらりと彼を上目遣いに見た時、頷かれた気がした。
半々羽織の水の柱は、それきり何も言わなかったが、不思議と、心が落ち着いていった。
――その日の午後。
帰宅したしのぶは、何度か自室の端から端を行ったり来たりした。思った事をどうしようか判断に迷う度、表情が険しくなっていく。
何度目かの往復の後、やっと決心が付いて、姉の部屋を訪れた。
「姉さん、ちょっといい?」
剣山に向かって正座をし、歯切れの良い鋏の音を一回響かせてから、姉は振り返った。
「あら。お帰りなさい。…どうしたの?」
小首を傾げて美しい面に瞳を輝かせた姿を見た時、半歩後退った。
「やっぱり、いい」
「良くないわ!」
姉の慌てる姿が目に入って、「このままだと捕まる」と危険を察知した時、
「気になるじゃない…」
姉の表情が心配そうになった。
『あ…』
ごめんなさい。そんな事を思っては深呼吸をした。
「あのね」
「うん?」
「水柱。名前。なんて言うの」
「まあ!」
『!』
姉の表情が無邪気になった。両手を合わせてころころと笑った姿に、冷や汗が滲んでくる。
「しのぶが悲鳴嶼さん以外の殿方の話をするなんて!」
「なんか色々誤解してるわよ!? 姉さん!?」
「そうかしら? そうかしら?」
後悔先に立たず。
根掘り葉掘り尋ねられ、肝心な名前は教えてくれない。
時に小声で、時に顔を真っ赤にしながら、しのぶは、質問の山に答えてはようやく、彼の名を、教えて貰ったのだった。
「しのぶさん!」
炭治郎の掛け声に、我に返った。
「お誕生日、おめでとうございます!」
皆が声を合わせてくれる。掲げた湯飲みで西洋風の「乾杯」をしながら、
「ありがとう!」
笑顔で返した。
『今、この瞬間がとても愛おしい…』
あの日、初めて自分の存在を認められた。そんな気がした。思い描いて突き進んできた道は、何も、間違ってはいないはずだ。
『後に続く炭治郎くん達のためにも。出来ることは拓いていかないと!』
自分なりの方法で。
自分なりに出した答えで。
しのぶは彼らを見ては、決意を新たにしたのだった。
未来へ・完