藤の花宮 幾月歳
・弐・
大切な話は割と、御館様と二人きりが多かった。
だから、あまね様が一歩控えて謁見の場にいらしたことが不思議でならない。両手を突いて深々と一礼すると、しのぶは、口上を述べて後面を上げ、一度、二人を交互に見遣った。
「忙しいだろうに、呼び立ててごめんね」
静かな空間に、穏やかな声が響いた。
「…いえ」
「確認したいと思ったんだ。気付いたのは、あまねの方で」
得心した。
再度あまね様へと視線をやったそれが、互いに表情を変えることなく交差した。
御館様には視力ももう、殆どないのだろう。
逢う度雰囲気の違うことは感じていらしただろうが、とどめを刺したのはあまね様だったのかも知れない。
「服毒しているのかな、しのぶ」
想像していた通りだった。
語尾の調子が少し上がって、やんわりと微笑んでいる御館様の頭が微かに傾く。強要されたわけではなかったが、答えなければ帰してはくれない気がした。
「…はい」
小さく声を発した。自然と眼差しが畳に落ちる。
「そろそろ、一年になります」
「そうか…」
余韻を残して頷いたそこに、御館様の優しさを感じた。
確認が取れたことにあまね様は納得したのか、折りたたんだ着物の裾を軽く払う仕草を見せると流麗に立ち上がる。会釈をして部屋を立ち去ると、一人分の隙間だけ、風が通った気がした。
「しのぶのことだから、最悪の事態と、最大の機会を想定して選んだことなのだろうね」
姉を殺した鬼を見つけることができなくても。
姉を殺した鬼と対峙することができたとしたら。
『この身体なら、少なくとも、取り込んだ鬼を弱体化させることはできるはず』
柱であればこそ。
取れる最善の策をと願った。
「でもね」
御館様は、核心を突くときだけは言葉を濁さない。
「それでは倒せない、鬼は」
「…」
「やはり、頚を斬らねばならないと…思うよ」
「……はい」
胸の奥で拳を握った。
『分かってる』
震えるもう一人の自分が怒濤のように押し寄せて、やんわりと微笑む己の表情を、違う形へ引っ張ろうとした。
『分かってるわ。でも、だからこそなの』
懸命に自分を納得させた笑顔の裏に、重い感情がタールのように粘り沈んで黒い溜まりを作った。
何度も、
これまでも、
非力な自分と対峙してきた。
薬学でできることを一つ一つ増やして、信頼を得、尊敬されてもなお。
『頚が斬れない。そのただ一つだけが、重くのし掛かる』
自分に納得できはしなかった。
それでも、仇を討つのだ。姉の。やれるかどうかじゃない。やるんだ。
姉だけが、自分の苦悩も才能も真っ向から受け止めてくれ、死の間際ですら、己の身を案じてくれた。
『鬼を斬らなくていい方法と、鬼が斬れないから倒せる方法』
同じようで全く違う、模索すべき道。
『姉さん…!』
心のどこかにいつも、不安が付きまとう。怒りと、納得できない自分とが、頑張る自分を「これでもか」と責め立てて、決して、「頑張ったね」とは、言ってはくれない。
「だからね」
「…はい」
気配の一向に変わらない御館様に、笑顔で真摯に受け止める。
泣いて喚いて愚痴を言って、ひたすら鍛錬していればいい時期はとうに過ぎた。
だが、次の御館様の言葉は衝撃的すぎた。
「珠世さんと。共同研究してみてはどうかな。より強力な毒の…、そして、鬼を人に戻す薬の、研究」
「!」
一年掛けて、藤の花の毒に耐えうる身体は手に入れた。
きっとこの先強い毒を服薬しても、慣れては巡り。慣れては巡り…それは姉への巡る想いと鬼への怨嗟(えんさ)を何層にも積み重ね…
「分かりました」
しのぶは、ゆっくりとまた手を突いて、低く低く、辞儀をした。
御館様より仔細を聞いて、本陣は更に奥に、共同研究の場を作る。そうしてそこで、鬼と。よりにもよって、鬼と――――
『…』
屈辱だ。
ここまで一人で頑張ってきたのに。最後の最後で、鬼と手を組み研究を共有しなければならないのか。
御館様が部屋を後にするのを傅(かしづ)いたまま送った。
溢れる怒りは抑えきれなかったかも知れない。御館様なら気付きもしただろう。それでも何も言わず、一任してくれたのだ。
それが、自身にとっても最良であろうと。思えばこそ。
『悔しい…っ』
頭では理解している。何が最善か、御館様は言葉少なにこちらをも気遣ってくれたのだ。
確実に、自分が。そして後に続く仲間達が、本懐(ほんかい)を遂げられるように。
「…」
笑顔で顔を上げた。
ゆっくりと立ち上がり、謁見の間を後にした。
藤襲山(ふじかさねやま)に足を運ぶのは、これで何回目だろう?
しのぶは、言葉なく薄紫の花の襲(かさね)を見上げた。
「ごめんね。今日もまた、花を分けてもらいに来たの」
山の藤がどうして年中咲き乱れているのか、誰も知らない。鬼狩り達に共通して認識されているのは、鬼を滅するための想いが積み重なっているからだと。聞いたことがある。
あの後――――
『感情の制御が出来ないのは未熟者。未熟者です…!』
たまたま、廊下で水柱とすれ違った。正確には、御館様に言われたことがぐるぐると頭の中を駆け巡っていて、
「胡蝶! 待て、胡蝶…!」
彼に羽織を掴まれるまでは、気付いてはいなかった。
「胡蝶…!」
きっと冨岡さんは、自分の後、御館様に謁見する予定だったのだろう。或いは、直接任務を賜ったのかも知れない。
力強く後ろに引かれて体重が持って行かれ、我に返った。
「誰…!」
現実に返ると怒りも多少和らいだ気がした。相手を確認して、
「冨岡さん…」
何故だかほっとしたのに、
「何があった。顔色が悪いぞ」
紡がれた言葉には先程の謁見の内容が俄(にわか)に思い出されて、一度は押し流した感情がまた、津波のように押し寄せてきた。
「冨岡さんには関係ないでしょう! 放っておいて下さい」
言いながら、取られた羽織の裾を思い切り引っ張った。彼の手が羽織から離れ、戸惑う様が目に映る。
俯いて佇む彼の姿に、胸が軋んだ。心配して声を掛けてくれたのだと分かったが、今更遅い。これ以上口を開いたら、気持ちと離れた言葉が出てしまいそうだった。
『冨岡さん… ごめんなさい』
過去何度も、彼には救われていた。
他愛のない言葉の数々だったから、彼は全く覚えてなどいないだろう。だが自分はその度に、気持ちを切り替えて来られたのだ。
しかし、その日の彼は違った。
「…すまない」
余程自分が怖い顔をしていたのだろうか。
蚊の泣くような声で言われ、それがまた、心に波風を立てる。
求めたわけじゃない。
期待したわけでもない。
ただ、何か、言って欲しかった。
『ううん、違う。言って欲しい言葉は、きっと、一つだけ――――』
そんな想いになった自分に、また怒りが込み上げた。
彼の水面はとても穏やかで透明で、覗き込むと、いつももう一人の自分が目に見えるのだ。意図せずともそうやって顔を出したもう一人が、その時は、とても、腹立たしかった。
「…」
藤の花を見上げた。
仄かな香りが風に乗って、夜を渡る。
『謝れたら、良かったのに。…素直に。いつも。素直になれない…』
不意に思った。
あの後、カナヲに決意を告げた。
姉の仇と遭遇したなら。いや、きっと――――。
『姉さんが。導いてくれる。あの鬼に。きっと…!』
だからこそ、珠世との共同研究にも承諾したのだ。
全ては、仇をこの手で討つために。
「胡蝶?」
「…え?」
思い描いた相手の声を背後に聞いて、しのぶは振り返った。
藤の花が散り急ぐ。
つい先程まで満開だった薄紫のそれが、風に乗って、まるで無数の紫揚羽のように舞っていった。
「冨岡さん…! 腕…!?」
攫(さら)われる横髪を手で押さえた、声が震えた。
「そんな! 大丈夫ですか!?」
思わず駆け出し、距離を縮める。
『いつ…! いつ腕を。これからが大変な時なのに…何より冨岡さん自身が』
辛いだろうと。
思った時だった。
「胡蝶…!」
同じように駆けてきた彼の残された腕が、腰に回った。
『え?』
強く胸元に抱かれ驚いて目を丸くした拍子に、何もかもが頭の中から抜け落ちた。頭上に触れた彼の顎がそのまま肩まで降りて、肘から先のない右手が懸命に、背中を抱いた。
「…冨岡さん…?」
理解が追いつかなかった。
「すまん…! すまない、胡蝶」
『なんで? 冨岡さんが謝るの?』
それは、私の方なのに。
戸惑いが吐息になった。疑問を含んだ小さな音に、彼の腕に更に力が籠められた。
「く…苦しいです、冨岡さん」
ただ、「どうして?」とは聞けなかった。
そう感じた自分も、何故なのか、よく、分からなかった。
温もりが少しずつ離れるように腕の力が抜けて、腕に包まれたまま、彼が言った。
「あの時。言うべきだった」
「…?」
「頑張れ」
「!」
「お前のことだから、もう十分、頑張ってるだろうが」
視界が滲んだ。
「胡蝶。お前の願いは叶う。想いは絶対伝わる。だから、何があっても。これから先、どんなに辛いことがあっても…諦めるな」
「冨岡さん…!」
胸元の彼の羽織が、色濃くなった。
堪えた嗚咽が詰まって、どきっとする。だが彼はそれには全く気にも留めずに、ただ、抱き締めてくれた。
「自分を、信じろ。お前は何も、間違ってない」
「……うん…!」
その瞬間、女の声が漏れた。
素直に頷いた自分に驚きもし、止まらない涙には困りもしたが、最初で最後の「頷き」が零れた。
『ありがとう、ありがとうございます、冨岡さん…!』
思わず彼の背中に腕を回し、感謝を伝えようと瞼を伏せた時。
「あ…!」
彼の姿は、藤の花霞に消えた。
「そうか」
義勇は、話し終えたカナヲに礼を言った。
思いの外満足そうになった面が、彼女を困惑させたようだ。だが、何も問うては来なかった。
一礼をして去って行く蝶屋敷の面々を見送って、義勇は、幾重にも連なる藤の襲を見上げた。
『胡蝶』
あの日。伝えられなかったことは全て言えた。
あの頃の彼女の顔色の悪さは、カナヲの話で答え合わせができた。
それぞれがそれぞれの思いで鬼と対峙した日々。
『胡蝶が本懐を遂げるためには、そうするしか…なかったのか』
どれほど辛かったろう。
苦しかったろう。
だが、彼女の決意は何も変わらなかった。きっと、今は、満足しているはず…カナエと一緒に、笑って過ごせているはずだ。
義勇は藤の花に手を伸ばした。
『ありがとう。胡蝶に、その力をずっと…分けてくれて。彼女を支えてくれて』
「義勇」
「義勇さん!」
水を知り扱う面々の声が聞こえて、義勇は振り返った。
鱗滝が腕を組みながら、
「炭治郎らが今日は一緒に泊まっていくそうだ。積もる話もあるだろう、のんびりしていこう」
「先生…はい」
「やった! 義勇さん、俺ね…!」
飛び跳ねた炭治郎が満面の笑みで駆け寄って来、早速話し出す。
禰豆子が朗らかな笑みを零す様が、胸に染みた。彼女が今こうしてここにいるのも、胡蝶のお蔭なのだ。
『炭治郎との出逢いの日。時を経て…お前が、救ってくれた。胡蝶、本当に。ありがとう…』
時折茶々を入れる善逸や伊之助たちの明るい声にも仄かに笑みを浮かべて返しながら、義勇は、今一度、藤の襲を見上げる。
『いつか、また。必ず…!』
麗しい微笑みを脳裏に描いた。
藤の花宮 幾月歳・完