藤の花宮 幾月歳
・壱・
思えばいつも、背中合わせでいた気がする。どちらも少し俯き加減で、相手の温度が仄かに分かる程度の距離。互いに一歩後ろに下がれば、きっと、背中を預けていられただろうに、そうしなかった。そっと腕を後ろに傾ければ指を絡めることもできただろうに、落ち着くところは刀の柄(つか)だった。
向かう先は闇の中であったし、それが当然だった。
正面の誰かと喋っていても、耳を傾けていても、すぐ背中に互いの温度があったのに、意識しようとは思わなかった。
「…」
義勇は、朱色の盃(さかづき)で掬った満月をじっと見つめた。波の立つ酒に月夜が揺らぐ。一息に飲み干しては、天を見上げた。
そろそろ宴(えん)もたけなわだ。
藤襲山(ふじかさねやま)での奉納の舞は日のある内に無事に済み、その後は、産屋敷(うぶやしき)一族が準備してくれた宴に皆が酔いしれた。思い思いに酒を酌み交わし、あの頃の話をする。
懐かしい名前が隊士達の口から零れる度に、義勇は、辺りを見渡した。どこかで柱達が、笑って見守ってくれているような気がした。
辺りは雪洞(ぼんぼり)の明かりが淡く滲む、まるで夏の夜の祭のようだった。仄かな明かりに照らされた藤の花が、時折風に戦(そよ)ぐ。その度に、淡い薄紫色の花は涼しげな音を立てて、甘い香りを散らしていた。
ふと、
「今日は麓の宿に泊まるか」
皆もそんな感じだろう。と、隣で杯を交わす鱗滝の言葉に我に返った。先生の方を向いて、小さく頷く。
だが、その前に、どうしても確かめておきたいことが彼にはあった。
「先生。少し時間を頂けますか。ちょっと…ある人に、聞いておきたいことがあって」
「? ああ。構わん」
話している内に、別れの挨拶に炭治郎達がやってきた。
己の尋ね人は、或いは彼らと共にいるのではと思ってもいたのだが、どうやらそういう訳ではないらしい。
いつも直向(ひたむ)きで明るい四人に知らず笑顔になりながら、義勇も、短く挨拶を交わす。無情に過ぎていく時間に、ややもすると捕まえられなくなるかもと思い、義勇は、暫く彼らに鱗滝の相手を任せることにした。
否、逆かも知れなかったが。
「先生、すみません。探してきます」
呟いて、一礼する。
足早にその場を離れた背中に、炭治郎の、「何かあったんですか? 義勇さん」という言葉が届き、ゆっくり言を交わせなかったことを、心の内で詫びた。
彼らには、彼らの家がある。
彼女にもそうだ。
方向も違うし、きっと、今日はここで分かれることにしたのだろうと思えた。
辺りを見渡すが、もう、宴の席にはいないようだ。
義勇は駆け出して、
『どこだ…、栗花落(つゆり)』
会場全体を一度巡った。
途中、同期の村田や柱達に、捕まりそうになった。だが、様子が様子だと思われたのかも知れない。長いこと引き留められはせず、再会を誓ってすれ違う。
割と藤の襲(かさね)が深くなった山の出入り近くまで降りてきて、
「栗花落!」
目的の人物を捜し当てた。
「冨岡様?」
呟いたのは、隣を歩いていたアオイだ。振り返りながら言って、釣られたようにきよたちもこちらを向く。揃って蝶屋敷に戻るのだろう。
「どうしたんですか…、…そんな…にあ…わ…て………て…」
アオイの声が、少しずつ遠のいていく。
藤の花が風に揺れる度に、蝶屋敷の面々が花霞に埋もれて消えていった。
まるで雑音にかき消されていくかのように、目の前の光景に横筋が入る。
何度か耳に藤の花の揺れる音が聞こえ、義勇は、
「胡蝶! 待て、胡蝶…!」
手を伸ばして叫んだ。
『…え?』
次第に明るくなる辺りに、景色がはっきりと見えてくる。
本陣の廊下だった。
『そう、この時。俺は、任務で御館様に呼ばれて』
たまたま、蟲柱と廊下ですれ違ったのだった。あまりに顔色が悪くて、少し休んだ方がと思った矢先、無視して――いや、あれは、珍しく周りが見えていない状態だった――通り過ぎた胡蝶に、手を伸ばしたのだった。
何があったのかと、ひどく気になった。
「胡蝶…!」
前を行く彼女の美しい羽織に手が触れて、しっかりと掴んだ。歩を止めると自然と彼女を引っ張る形になってしまい、苛立った様が後ろ姿にもよく分かった。
「誰…!」
胡蝶が勢いよく振り返った。
「冨岡さん…」
「何があった。顔色が悪いぞ」
一瞬いつもの笑顔に戻りかけた表情が、はっとしたように元の怒りに震えるそれになった。
彼女がこちらの手を振り解こうと身じろいだ。意図せず羽織を引っ張られる形になって、そちらに気を取られた時、
「冨岡さんには関係ないでしょう! 放っておいて下さい」
言葉が先立ったか、振り払われたのが先だったか。
羽織から手が離れた。
佇みそっと手を離すと、胡蝶が間を置く。まだ何か言いたそうな顔付きではあったものの、顔を顰(しか)めたのみで言葉は呑んだようだった。
過去、何度か、こんな彼女を見たことはある。
だが今日のそれは、一際怒りに満ちているような気がした。
「…すまない」
目を逸らした。
俯き加減になり、猫背になったのも気付かなかった。
彼女に届いたかも分からない声量だったが、面を上げれば、彼女の額に二つ目の青筋を浮き上がらせたところを見、伝わりはしたのだろうと思う。
ただ、
「放っておいて欲しい」
と言われて、
「分かった」
と言ったのに――それがたとえ不可抗力だったのだとしても――、ますます怒られる理由が、全く。分からなかった。
胡蝶が立ち去ろうと踵を返した動きは、彼女の残り香をその場に舞わせた。
『藤…』
艶(つや)やかで甘い、彼女の存在そのものであるかのような、可憐で小さな花の連なり。
『やはり』
思った事は彼女には確認できず、後ろ姿は、どんどん小さくなるばかりだった。
――――「どうしたんですか、そんなに慌てて」
アオイが言った。
『今のは、記憶? 俺の…』
藤の花を見上げた。
鼻に残る香りという物は、思いの外記憶を鮮明に甦らせるものだ。
だが、先を急いでいるのだろうか、アオイの尖った感情が己を貫いて、視線を元に戻す。
「……」
ええと。という呟きが、心の内で漏れた。
用があるのは花の剣士の方だったが、彼女は目を丸く見開いたまま固まっている。彼女が何か言葉を紡ぐより、アオイの反応が早かった。
「この場で聞くことでもないことだとは、分かってはいるんだが」
前置きが長いのも、悪い癖だ。
なかなか直らない。
「今度いつ会えるか、分からなかったから」
「…はい」
アオイは心得た様子だ。取り敢えず。と言った感で見上げて待ってくれている。
真っ直ぐで強い眼差しに気圧された。どう切り出したものか、深く考えてはいなかった。
見つめ合ったまま暫く固まって、
『やっぱり、日を改めようか』
心が挫けそうになったとき、アオイが口を開いた。
「用がないのなら、帰ります。汽車の時間がありますから」
「!」
ぺこり。と隣のカナヲも、視線はこちらに向けたまま頭が一度下がった。慌てて意を決す。
「胡蝶!」
「…は?」
「胡蝶の…! あいつの死に際を、知りたいんだ」
「…え?」
流石にカナヲが反応した。
アオイも微かに眉間に皺を寄せて、
「今更だと思いますけど…何故です? 知る必要あります?」
問われれば、答えられなかった。
『不躾なことなのだろうか…彼女らにとって』
辛いことでしかないのだろうかと頭を擡(もた)げた。確かに、興味本位だろうと言われれば、そう言うことになるのかも知れないと思う。
諦めかけたとき、ついと、カナヲが夜風に揺らぐ藤の花々を見上げた。
何気なく義勇も彼女の視線の先を追うと、アオイやきよたちも見上げるのを感じた。
カナヲがゆっくりとこちらを向いて、
「もしかして。冨岡さん…気付いていましたか?」
どきりとした。
「え、何を?」と言う顔をしたのはアオイたちの方だ。
答えられずにいると、カナヲが胸に手を当てて瞼を伏せた。
「そうだったのですね…」
『答えていないが』
思うが、顔に出ていたのだろうか。それとも、彼女にだけは分かる違いが何か、あったのだろうか。
カナヲはアオイに時間のかかることを申し訳なさそうに伝えて後、無限城での上弦の弐との戦いを振り返り、教えてくれた。