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第弐話:ネガ

・肆・

​ ~椿の章~

 桜町(さくらまち)の外れから継国山(つぎくにさん)の裏手へ回り、深山幽谷へと車を疾走させる。大河の流れに沿って作られた国道を走る真っ赤な外車は、大凡(おおよそ)自然には馴染まない。すれ違う対向車の視線を時折奪いながら、巌勝(みちかつ)は、構わず速度を上げた。

 カーナビゲーションに同期させた携帯を、音声で立ち上げる。特定の人物を指定すると、ステレオを通して電話を掛ける音が響いた。

 すぐに繋がる。

「あ。悲鳴嶼(ひめじま)?」

『巌勝か。…なんだ、凄い風の音が聞こえるぞ。運転中か』

「ああ」

『お前な…また事故起こさんでくれよ? 覆面とのカーチェイスも止めてくれ』

「あれは若気の至りだ。蒸し返すなよ」

『今でもお前は無茶するだろうが』

「…ふ。今日は気分がいいんだ、何も聞こえないな!」

『お前はいつもそうだろうが。ったく! 今日はなんだ』

 呆れたように「はあ」と言を漏らした行冥(ぎょうめい)の様子がスピーカーからもよく伝わって、巌勝は、小さく笑った。

「縁壱(よりいち)から話を聞いた。昨日継国川(つぎくにがわ)で亡くなった…西田(にしだ)恵子(けいこ)。もう、書類は処理が済んだのか」

『いや。署に戻ったら書き上げて提出だ。…まさかとは思うが。おい…』

「ご名答」

 天津川村(あまつかわむら)への吊り橋手前の交差点で、信号に捕まる。ウィンカーを右に出して大人しく待った時、

「署に戻ったら、って言ったな。まだ継国川周辺にいるのか?」

『…ああ』

 嫌な予感がしたのだろう。間を置いて肯定した行冥の声色は、『面倒には巻き込まんでくれ』と十分語っていた。

 信号が変わる。

 マフラーの音が大きく響いて、スピーカー越しの行冥が声を上げた。

『巌勝! おまっ…言っただろ、サイレンサー入れろ!』

「この音がいいんじゃないか。折角欧州仕様を選んだのに」

『あのな…!』

「で。もうすぐ天津大橋に差し掛かる。村へ行くところなんだ」

『!』

「どうせなら付き合わないか? 書類の提出なんて、まだ日数あるだろう」

『…お前から連絡が来るとは思ってなかった』

 その言葉は、想像していなかった。

 少しの間が開いた後、

「縁壱か」

『縁壱から』

 いつぞやのように、また重なる。毎度のことで、二人はまた笑った。

 行冥が言った。

『何かあったら、お互い連絡をしようと、昨日、話したばかりでな』

「聞いた。お前が自殺で処理しようとしてるのを気に掛けて、俺の方に電話があったんだ」

『そうだったのか…』

「縁壱が気に掛けた…あ。と。…なんだ、パト多いな」

『そこまで行き着いたか、その辺にいるぞ、俺』

「検問か?」

『ご名答』

 行冥が同じ言葉を返した。

『もう、引き上げるところだったんだが…。あ。見えた。軽薄な赤!』

「豚(彼)なら許されたんだろうが」

『あはは』

 巌勝は通話を切った。橋の歩道橋で手を振った行冥に手を振り返すと、一度通り過ぎ、先の展望台の駐車場に車を止めた。

 資料を入れた漆黒のフラットポーチを脇に抱えると、携帯を取り、行冥の元へ軽く走る。


「天津川村は南條(なんじょう)さんの自宅でいいんスかね?」

 運転席に座った玄弥(げんや)が言う。

「ああ、頼む」

 後部座席に腰を落ち着けた巌勝が頷く。玄弥は覆面を軽快に走らせた。

 助手席に座った行冥が、用意した資料を丹念に読み返す。三母娘の記事を読み終わって、最後の数枚に目を通そうと捲った時、行冥がこちらを気に掛けるように身じろいだ。

「東雲(しののめ)かすみ。彼女に意味があるのか?」

「分からない。気になったから、コピーしただけだ。その…」

 と、後ろから身を乗り出す。手を伸ばして、行冥の大きな手に収まった数枚を最初の方に捲ると、

「ここ」

 新聞記事の写真を指さした。

「あ」

 行冥が低く呻く。

「ん。何も関係ないのかも知れないが、その事故を写真に収めたのが彼女なんだ。少し気になってな」

「なるほど…この写真のことだったのか」

 意味深な言葉を紡ぐ彼に、巌勝が口を開きかける。一瞬早く、行冥が続けた。

「今週末まで、写真展をやってるぞ。東雲かすみ。天津川村の公民館で」

「え!?」

「俺も昨日知った。西田恵子の身辺を洗うのに村を訪れた時にな。普段は閑散としている村がお祭り騒ぎのようで、いろいろ聞いて回ったら、騒ぎじゃなかった。この時期は毎年、地元凱旋のお祭りなんだと」

「地元凱旋…?」

「その水難事故の写真が撮られて後、東雲かすみの人生は一変したそうだ。いい方へだな。事故に遭った家族は堪ったものじゃなかったろう。特に亡くなった子供…あかねの母親は、『人を踏台にして』と、錯乱したそうだ」

「錯乱…」

「その後、三家族はバラバラになった。南條家は娘を失い母親は暫(しばら)く精神病院を出たり入ったりで、村を出られなかったが…。西田家と辻北(つじきた)家は、それぞれ違う県へ引っ越してな…」

 巌勝は、深々とシートに腰を収め直して腕を組んだ。

「そこまで分かっていながら、なんで自殺で片付けるんだ。もう少し、調べてみても」

「それが、娘の晴子(はるこ)が証言してな。遺書も出てきたんだ、泊まっていた旅館から」

 二人は無言になった。

 書類を束ねてポーチに仕舞おうとした行冥に対し、巌勝は、考えを巡らせる。

 ふと、玄弥が、

「そろそろ天津川村です。どうしましょう? このまま南條家へ向かっても? 話を聞いた限りでは、公民館の方がいいんスかね?」

 玄弥の言葉に、巌勝がはっとした。

「助かる、公民館へ行ってくれ。なるべく早く…! 今の話を聞いて、…杞憂ならいいが」

「…なんだ」

 まだ着くまでに余裕はあるぞ、と行冥の言葉が続く。一分一秒でも惜しいといった様子の巌勝に、行冥が身を乗り出して彼を見る。

 巌勝は言った。

「俺が受けた依頼は、『復讐』絡みなんだ」

「!」

「それを止めたいのか、される方を助けてほしいのか…そこまでは分からなかった。だが、縁壱は数日前から、…恐らくだが。辻北真希子(まきこ)を見かけてる。西田晴子もこの地に戻ってきた」

「そして、お前は…見たのか。また。と言うより、その『依頼主』が…!」

「そうだ。もう間違いないだろう、『依頼主』は、『南條あかね』だ」

「じゃ、なんで西田恵子は…」

「それはまだ分からない。だが、目の前に危険が迫っていると言っていい。どんな理由があるにせよ、残された者達に狙われているのは『東雲かすみ』だろう」

「玄弥!」

「はい!」

 行冥がパイロット席宛(さなが)らの無数のボタンの内、警光灯のそれを押す。途端、車体の頭上、中央が開いて、赤色灯が外に現れる音を聞く。行冥が足元のスイッチを踏むとけたたましくサイレンが鳴り、玄弥がスピードを上げた。

「いつ見ても、この一瞬は緊張するな…」

「事件が起きた、或(ある)いはそれを止められるかの、瀬戸際の瞬間だからな」

 祭でごった返す人の波が、サイレンの音に気付いて蜘蛛の子を散らすように脇へ寄った。走りづらかった山間(やまあい)の田舎道が、一気に開ける。玄弥は早急に公民館へ車を走らせると、駐車スペースへ止める前に、巌勝と行冥を先に降ろした。

 扉が閉まる音と同時に、玄弥はスペースへ向かい駐車させる。

 その間に、長身の大人二人は公民館の入口を潜り、写真展が開催されている二階への階段に足を掛けた。

「きゃあああああ!」

「うわあああ!」

「晴子ちゃん! 晴子ちゃん、やめて!」

 耳に、複数の絶叫が届く。最後の、年配の女性の声には明らかに動揺が混ざって、巌勝と行冥はその刹那だけ、顔を見合わせた。

 階段は二段飛ばしで、駆け上がっていく。その間も、人々の悲鳴や椅子の倒れる音が、切羽詰まった状況を伝えてくる。

 行冥が一歩早く登り切った。

「警察だ!」

 出入り口に殺到する人の波を掻き分けて展覧室に入った行冥は、警察手帳を出して叫ぶと皆の気を引いた。

 その隙に巌勝が、皆の視線から逃れるように腰を低く鋭く切り込む。細身の包丁を構えて迫る女性、西田晴子と、それを必死に避けた挙句転倒したのであろう女性、東雲かすみとの間に、割り込んだ。

「っ!」

 身を起こす動作に加えて下段から蹴りを繰り出すと、刃物を掴む手首を強(したた)かに蹴り上げた。包丁が高々と飛ぶ。人々が声を上げてその落下点を避けて場所を空けるほんの僅かな間に、巌勝は、蹴り上げた反動で身体を一回転させた。俊敏な動作に驚いて目を見張った晴子と須臾(しゅゆ)の間だけ目が合い、逸れた時には彼女の腕を掴み背後に回って、後ろ手に締め上げていた。

「…巌勝」

 行冥が何とも言えない顔で呼んだ。

 玄弥が合流する。騒然としていた辺りをすぐに調整してくれ、応援を呼ぶ。その間に、行冥が歩み寄って来、

「西田晴子。殺人未遂容疑で現行犯逮捕する」

 巌勝に一度頷いてから、彼女の腕に手錠を掛ける。だが、行冥は、それだけでは済まさなかった。

「貴女にも署に来て頂きます。いいですね?」

 未(いま)だ尻餅をついたままのかすみに向けた行冥の眼差しは、…巌勝には、晴子を見るより厳しいもののように思えた。

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